オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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スタンプを求めて佐倉城

2010-08-02 00:22:53 | 日本史

 

昨年の夏の四国旅行を機に始めた日本100名城スタンプラリーですが、その四国で9城をゲットしてから1年間は休眠状態でした。
そろそろ活動を再開しようとは思うものの今年は諸般の事情で夏の旅行を見送ったため、そこで地味ですが細切れで近場を放浪することにしました。
その第一弾として今日は千葉県で唯一である佐倉城へ、自転車を駆っての小旅行です。

曇りがちとの予報に裏切られた日差しの中を汗だくになって走ること90分程で、最初に私を迎えてくれたのは国立歴史民俗博物館です。
佐倉城跡に建てられており、日本で一つしかない国立の歴史博物館だそうです。
ただ研究機関としての位置づけは不明なものの、こと展示に関しては私の琴線に触れるようなものはありませんでした。
30キロを走破した疲れを癒してくれる冷房が嬉しかった、その程度のものと言ってしまえば関係者には怒られそうですが、それが正直な感想です。

肝心の佐倉城は佐倉城跡公園と名付けられているとおり、言われなければただの公園に過ぎません。
広大な敷地に空堀や土塁などが点在しており、これらが評価をされて日本100名城に選ばれたのでしょうが、やはり建築物がないと寂しいものがあります。
そもそもが石垣を用いずに築城をされとのことですから、遺構が少ないのも仕方がないのかもしれません。

佐倉は江戸に近いこともあり親藩、譜代の大名の居城とされてきましたが、その大半を治めたのが堀田氏です。
幕末にはハリスと日米修好通商条約の締結を試みた老中の堀田正睦を輩出しますが、攘夷派公卿の反対や井伊直弼の大老就任により罷免をされたそうです。
このあたりは守備範囲外ですので、あまり詳しくはありません。

本丸跡ですが、ただの原っぱにしか見えません。
見る人が見れば唸るようなものなのかもしれませんが、私の目はそこまで肥えてはいないようです。
国立歴史民俗博物館にはそれなりの人がいましたが、こちらには人っ子一人いませんでした。
できるだけそのままにという発想ももちろん大事なことではあるのですが、税金を使って整備をしているのですから魅せる施策も必要ではないかと思います。

本丸跡の奥にあるのがマップの説明によれば天守閣跡なのですが、単なる生垣にしか見えないのが辛いところです。
上から見ても同様で、写真が無くとも絵図などを案内板にでもしてくれればいいのにと、そんなことを思ってしまいました。
もっとも天守とは言っても三重櫓をそれに代えていたようで、規模的にもそんな感じです。

日本100名城のスタンプが設置をしてある佐倉城跡公園管理センターという名のプレハブに、その天守と思われる模型がありました。
当時のものに忠実に作られているかどうかは分からず、無人だったので聞く相手いず、とりあえず写真だけ撮ったという感じです。
蒸し風呂状態でしたので、スタンプを押して早々に撤収をしました。

結局のところはスタンプラリーだけのために行った、そんな佐倉城跡巡りでした。
土台は千葉氏が作ったものの基本的には江戸期の城ですから、それも私がそそらなかった理由かもしれません。
これが同じ佐倉でも本佐倉城跡であればテンションが上がったとも思われますが、こちらも遺構は堀や土塁ですから似たようなものではあります。
こんな感じが続くとモチベーションが下がりそうですので、次は城跡以外にも史跡が点在する小田原城あたりにしようかなと思った夏の一日でした。

 

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四国巡り 史跡巡り篇 今治、川之江の巻

2009-09-05 00:35:13 | 日本史

 

松山を出て今治に向かいましたが、雨は弱まるどころかちょっとした台風ぐらいの風雨が私を襲います。
そのためJR今治駅から今治城に向かう間、また城の周りをぐるっと一周をしているうちに濡れ鼠となってしまいました。

前回に訪れたときとの違いは、この鉄御門です。
鉄御門は今治城築城・開町400年祭記念事業として2004年から再建が始まり、2007年に完成をしました。
当時の資料を基に忠実に再現がされており、今治市のシンボルとなっています。

その鉄御門を抜けると、5重6階の天守閣が姿を見せます。
史実に基づかない模擬天守であり、鉄筋コンクリート製ではあるのですが、その規模に圧倒をされます。
今治城は築城の名手と言われた藤堂高虎が築いた堀に海水を取り入れた珍しい城であり、高松城、中津城とともに日本三大水城と呼ばれています。

場内にある、その藤堂高虎の像です。
鉄御門が再建をされたときと同時期に建立をされたもので、文化勲章を受章した中村晋也氏の手によるものです。
高虎は近江の出身で、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀保と次々に主君を変えていき、遂には豊臣秀吉の直臣になりますが、秀吉の晩年から徳川家康に接近をし、家康をして「国に大事があるときは高虎を一番手とせよ」とまで言わしめます。
外様ながらも譜代同様の扱いを受けた高虎は、家康の臨終の席に外様で唯一枕元に侍ることを許されました。
それだけの能力が高虎にはあり、今治城だけではなく、彼が築いた、あるいは縄張りをした宇和島城、篠山城、津城、伊賀上野城などは、いずれも名城と言われています。

今治城には3つの櫓がありますが、いずれも天守閣と同様に再建をされたものです。
この二の丸西隅櫓である山里櫓は1990年に再建をされました。

二の丸東隅櫓にあたる御金櫓は1985年の再建です。
他の櫓とともに美しい姿を見せており、城の周りをぐるっと回るだけでも充分に楽しめます。

二の丸北隅櫓である武具櫓は鉄御門と連なっており、その名の通り武具を保管するための櫓と言われています。
1980年に再建をされましたが、鉄御門の再建の際に多聞で繋げられました。

天守閣からの今治市街ですが、いかに天気が悪かったかが分かると思います。
レンタサイクルであればもっと効率的に動けたでしょうし、仕方がないこととは言っても残念な雨でした。

今治を出て向かったのが、四国での最後の地となる川之江です。
移動の途中でようやく雨は小降りとなり、傘を差さなくても気にならないぐらいまで天気は回復をしてくれました。

川之江城は仏殿城とも呼ばれており、河野氏の支城として東予の拠点となっていました。
長宗我部元親による侵攻の際に城主一族が崖から身を投じるなどの悲話が残されており、そういった説明が書かれた案内板も登り道の途中にありました。

天守閣は再建をされた模擬天守であり、鉄筋コンクリートによる史実に基づいていないものです。
1984年から公園整備事業として、他の櫓とともに建築がされました。
とは言えなかなか美しい造りであり、係員の方も親切に説明をしてくださったことで、四国の最後を飾るのに相応しい締めとすることができました。

こちらは涼櫓、櫓門、隅櫓になりますが、各々がどういった役割を担ったものかなどの説明がどこにも無かったのは残念でした。
箱物行政というわけでもないでしょうが、造って終わりといった感じがしないでもありません。
パンフレットにも説明はありませんでしたし、係員の方もそこまでは知らなかったようです。
また隅櫓に至っては中がトイレになっており、この点については改善をしてもらいたいと強く思います。

 

天守閣から見た川之江市街になりますが、天気の回復具合が見て取れます。
帰りにはすっかりと雨は上がっており、あの今治は何だったのかとの思いと、悪くならなくてよかったとの思いが錯綜をしながら四国の地を後にしました。
結果的にこれが後者であったことは、翌日に思い知らされることになります。

これで史跡巡り篇は全て終了となります。
gooの文字数制限に苦しみ、また写真を優先するのか説明や感想を重視するのかに悩みながらの全12回でした。
不細工な構成でどこにいつ訪れたのかが分かりづらくなってしまいましたが、旅の雰囲気が少しでも伝わればと、それだけを願っています。


【2009年8月 四国の旅】
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四国巡り 史跡巡り篇 道後、松山の巻

2009-09-03 02:04:45 | 日本史

 

四国の5日目の最後は、河野氏の居城であった湯築城跡です。
道後温泉の1つ手前の道後公園で伊予鉄道を降りた私の目の前に広がったのは、大洲城に負けず劣らず様相が一変をした光景でした。

ただ広いだけの公園だったはずが、入口には河野氏の家紋が入った旗が何流もはためいていました。
城跡を利用した公園から史跡としての城跡にと、この変革は非常に喜ばしいことです。

外堀の土塁裾石が発掘をされ、また庭園の池や武家屋敷を再現するなど、松山市の力の入れようが見て取れます。
あちらこちらに案内板もあり、ようやく史跡としての価値に気がついたのかもしれません。

しかしながら奥に行けば記憶どおりの風景が広がっており、このあたりは徐々にと言ったところでしょう。
本丸跡にある展望台が錆びまくっているのはご愛敬ですが、手すりを持った手が茶色くなるのは勘弁をして欲しかったです。

その展望台から見た松山市街、と言うよりは道後町です。
鎌倉時代から伊予で威を張っていた河野氏は、室町期に湯築城を築きます。
河野水軍を率いて河野氏は伊予で勢力を伸ばしますが、次第に一族内の争いで弱体化をしてしまい、長宗我部元親の伊予侵攻や来島氏の離反などもあって、遂には小早川隆景の配下として生き延びるしかなくなってしまいました。

そんな河野氏の興亡が分かる湯築城資料館、と紹介をしたいところなのですが、簡単な系譜や系図以外では発掘の際の資料が少しあるだけでした。
ボランティアの方が丁寧に説明をしてくださったのはありがたかったのですが、スタンプを勝手に色紙などに押そうとしたのにはちょっと閉口をしました。

そして遂に四国6日目、最終日となります。
前日の夜から降り出した雨は止む気配を見せず、そのためレンタサイクルを諦め、伊予鉄道で松山城に向かいました。
予定では黒門口登城道から徒歩で登るつもりもそれも諦めて、東雲口から一気にロープウェイで長者ヶ平まで行き、そこから徒歩で天守閣を目指しました。

松山城は連郭式平山城で、勝山の山頂にあります。
賎ケ岳七本槍で有名な加藤嘉明が関ヶ原の戦いの後に築いたもので、現存する12の天守の1つです。
ちなみに現存天守がある12城とは北から弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城であり、今回の旅で4つの現存天守を訪れたことになります。

この天守閣に連なるのが小天守で、天守閣も正しくは大天守と呼びます。
国の重要文化財である大天守とは違って、こちらの小天守は再建をされたものです。

この両天守と北隅櫓、南隅櫓は渡櫓で繋がっており、姫路城、和歌山城とともに日本三大連立式平山城と呼ばれています。
しかしながら北隅櫓、南隅櫓とも、残念ながら再建をされたものです。

松山城は喜ばしいことに、大天守を含む21もの国の重要文化財があります。
その全てを紹介したいところなのですが、例によってgooの文字数制限のためにそれも叶いませんので、文字数の許す限りの紹介をしたいと思います。

まずは戸無門、隠門、そして隠門に連なる隠門続櫓です。
戸無門は本丸の大手入口の最初に設けられた門であり、扉がないためにそう呼ばれています。
この戸無門を通ると大手を守る筒井門がありますが、隠門はその筒井門から隠れるように奥まったところにあり、筒井門に迫る敵を背後から攻撃をするための出入り口で、隠門続櫓はその隠門を守るための櫓です。

野原櫓と乾櫓は、城の西北を守る重要な櫓です。
野原櫓は日本で唯一現存する望楼型二重櫓であり、また乾櫓は弾丸が壁を貫けないように壁の中に小石や瓦を詰めて厚くする、太鼓壁構造となっています。

もう文字数がいっぱいになってしまいました。
この他にも筒井門、巽櫓、太鼓門、太鼓櫓、馬具櫓、艮門、艮門東続櫓、乾門、乾門東続櫓、一ノ門、一ノ門南櫓、二ノ門、二ノ門南櫓、三ノ門、三ノ門南櫓、天神櫓、筋鉄門、仕切門、紫竹門などなど、重要文化財に限らず紹介をしたいものがたくさんあるのですが、今回はこのあたりで締めることにします。

こんなことになるのであれば、この戸無門、筒井門、太鼓櫓のように、1枚で複数が入るような撮り方をすればよかったと後悔をしています。
参考までに、重要文化財を含む各遺構の位置関係が分かる図を貼っておきます。

松山城は半日程度で回る予定だったのですが、じっくりと見るには1日あっても足りないかもしれません。
見落としたものもありますし、いつになるかは分かりませんが、次に訪れるときにはもっと時間をかけて、そして天気もしっかりと見極めた上で見学をしたいと思います。


【2009年8月 四国の旅】
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四国巡り 史跡巡り篇 大洲の巻

2009-09-02 00:56:32 | 日本史

 

宇和島の次に訪れたのは、中予にある大洲です。
天守閣が木造で再建をされたとのことで、踊るような気持ちでペダルを踏み込みました。

大洲城には国の重要文化財に指定をされた4つの櫓が現存をしていますが、まずは苧綿櫓です。
側を流れる肱川を自然の堀に見立てたのか、川沿いに石垣が続いています。
塗り壁が剥がれるなど痛い状態ではありますが、大洲城を訪れる者を最初に迎えてくれるのがこの苧綿櫓です。

こちらは天守閣への登り口の近くにある、下台所です。
県の有形文化財に指定をされている下台所は当時の遺構であり、食料庫としての機能を果たしていたと言われています。

そして2004年に大洲市市制施行50周年記念事業として再建をされた天守閣です。
木造の、しかも全国各地の国産の木材にこだわっての復元であり、富山から宮大工を呼び寄せたとのことです。
明治時代の写真や大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形が残されていたため、ほぼ当時と同じ造りが再現をされています。

 

四国は3度目になりますが、前回に訪れたときと様相が一番違っていたのがこの大洲城です。
天守閣が再建をされたということもありますが、今は砂利が敷かれている場所は土が剥き出しで草も生え放題、天守閣に連なっている台所櫓や高欄櫓も薄汚れていたものが、まるで別の場所に来たかのように様変わりをしていました。

 

その天守閣と連結をされた台所櫓は、その際に白壁が塗り直されており、知らない人が見たらこちらも再建をされたものと勘違いをするぐらいの新しさがあります。
前回に訪れたときとには苧綿櫓と同じような痛い外観であり、おそらくは連結をする天守閣とのバランスがあってのことだとは思いますが、ここまで白く塗ってしまうことがよかったのかどうかは微妙なところです。

 

それは同じく天守閣に連なる高欄櫓も同様で、国の重要文化財である以上は、また天守閣の復元方法を考えればしっかりとした工事がされたのだとは思いますが、やはり以前の状態を知る者としては複雑な心境ではあります。

天守閣から見た風景です。
こう見ると自分の生活に一番欠けているのは、山並みではないかと思えてきました。

 

その他にも御門番長屋、井戸丸、石垣などがありましたが、天守閣の衝撃にどうしても印象が薄くなります。
こちらにはほとんど人が立ち寄っていなかったことからも、多くの人が同様の感じを受けているものと思われます。

現存をしている櫓の最後の一つがこの南隅櫓で、三の丸にあった櫓ですから天守閣などからは離れた場所にあります。
苧綿櫓よりも状態は悪く、こういったものを見ると台所櫓などの手入れは喜ぶべきなのだと思わざるをえません。
それにしても国の重要文化財でもここまで痛みを放置しておくものなのかと、ちょっと考えさせられました。


大洲を領したのは加藤家であり、その菩提寺である曹溪院です。
加藤とは言っても賎ケ岳七本槍で有名な加藤清正でも加藤嘉明でもなく、同じ豊臣秀吉に仕えた加藤光泰の系統です。

加藤光泰は美濃出身で、斎藤龍興に仕えた後に秀吉の家臣となります。
朱色に塗られた廟は中を見ることができず、それは光泰の子であり大洲藩の初代藩主である貞泰の廟も同様でした。

この曹溪院には歴代藩主の墓があるのですが、光泰と貞泰以外はどれが誰のものかを確認することができませんでした。
墓所の案内図もあったので時間があれば確認はできたはずなのですが、あまりに大洲城で時間をかけすぎたために電車の時間に間に合わなくなりそうで、泣く泣く断念をしました。
たっぷりと時間を取っていたはずが足りなくなるぐらいに、大洲城で過ごした時間は心に強く残っています。


【2009年8月 四国の旅】
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四国巡り 史跡巡り篇 宇和島の巻

2009-09-01 01:02:03 | 日本史

 

四国の5日目、まだ宇和島にいます。
宇和島藩と言えば和霊騒動、と言われるほどに、現在もいろいろな史跡が残されています。
家老の山家公頼が主君である伊達秀宗に誅殺をされた騒動は、宇和島藩の存続すら危ぶまれた事件になっていきます。

市の中心部にほど近いところにある、和霊廟と山家公頼邸宅跡です。
公頼は秀宗の父である伊達政宗から家老としてつけられた家臣でしたが、同じく政宗の家臣であった桜田元親らと対立をします。
政宗からの信頼が篤かった公頼は秀宗からは疎まれて、遂には誅殺の憂き目に遭います。

しかしその後、公頼と対立をしていた者が不審の死を遂げたり、秀宗も病に倒れるなどして怨霊騒動になります。
この怨霊がどうのというのは伝説の域をでませんが、これほどの立派な和霊神社が建立をされ、その主祭神が山家公頼だということだけは間違いのない事実です。
またこの騒動により親子が不和となり、政宗は幕府に宇和島の返上を申し出たため、危うく宇和島藩は消滅をするところでした。

さて、いよいよ宇和島城です。
登り口は2箇所あるのですが、今回は搦め手にあたる上り立ち門から登ることにしました。

この上り立ち門は宇和島市の文化財に指定をされており、慶長年間、あるいは寛文年間の建立ではないかと言われています。
武家屋敷の正門とされる薬医門形式であり、戦国期の門とは違って戦いに向いたものではないように見えました。

門をくぐると石段が続いており、ひたすら登っていくことになります。
宇和島城は梯郭式平山城ですから標高もそれなりにあり、比較的きれいに残された石垣を横目に天守閣を目指します。
15分も登ると広い場所に抜けますが、ここが児童公園になっている長門丸跡です。

ここから一気に天守閣まで行きたい気持ちを抑えて、逆に道を下って上り立ち門とは対角線上にある桑折氏武家長屋門に向かいました。
この門は家老であった桑折氏の屋敷の門を移設したもので、当時からここにあったわけではありません。
従って当然のことながら城門の体を成していないのですが、武家屋敷としても貴重な建造物です。

ここから再び天守閣を目指して登り始めたのですが、下ってきたのと同じ道を通っても面白くはないので、鬱蒼とした木々に囲まれた別の細い石段を登ることにしました。
しかしこれが結果的には正解で、いろいろな史跡を通りながらも実は近道でもあったという、まだまだ自分の勘も捨てたものではなかったようです。
井戸門跡、井戸丸跡、山里倉庫、雷門跡、三ノ門跡、二ノ丸跡、一ノ門跡と、ほとんどが石垣ぐらいしか残されてはいないのですが、それでも往時の規模を知るには充分すぎるぐらいの史跡がここそこに散らばっていました。

そして登っている途中でちらちらと見えていた天守閣が、ようやくその全容を現します。
3重3層の天守閣は現存天守であり、国の重要文化財に指定をされています。

前回に訪れたときにもそうだったのですが、午前中は正面から見ると逆光になる、なかなか写真が撮りづらい城です。
宇和島城は橘氏が最初に築いたと言われており、その後は西園寺氏、小早川氏、戸田氏を経て、藤堂高虎が城主となります。
慶長年間に高虎は大改修を加えますが、今の天守閣は2代藩主の伊達宗利の時代のもののようです。

天守閣から見た宇和島市街です。
開けた町並みが海と山に囲まれた風景は、何とも言えないバランスがあります。
自然と文化が融合した、とは言い過ぎでしょうが、のんびりと時間を過ごすにはぴったりの場所だと思います。

宇和島城を出て次に向かったのは、宇和島伊達家の資料を展示している伊達博物館です。
前回は休館日だったために入れず、よってかなりの期待をしていたのですが、その立派な建物と今回の旅で一番高かった入館料に比して、やや内容は期待はずれでした。
多くの資料を分けて展示をしているのでしょうから今回は運が悪かったのだと、9月からの創立35周年特別展である戦国武将伝を見たかったと、そんな思いで博物館を後にしました。


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四国巡り 史跡巡り篇 中村、宇和島の巻

2009-08-31 01:52:25 | 日本史

 

中村は2005年に土佐村と合併をして四万十市になりましたが、申し訳ないのですが私としてはしっくりとしません。
四万十川からとった名前なのでしょうが、昔ながらの地名が消えていくのは寂しい限りです。

その中村で最初に向かったのは、土佐一条氏の中村御所があった場所にある一條神社です。
商店街の中にあるのですが、説明板に中村御所の説明がなければただの神社、そんな感じでした。

こちらは中村城に向かう途中にある、一条房基の墓です。
土佐一条氏3代の房基は知勇兼備の将として土佐七雄の一つである津野氏を降すなど勢力を拡大しますが、その3年後に突如として自害をしてしまいました。
狂気のためとも言われていますが、この房基の早すぎる死が土佐一条氏の滅亡の遠因となります。

土佐一条氏の居城であった中村城は連郭式平山城で、当然のことながらそれなりの高さを誇ります。
額に汗して自転車を押して登る羽目になりましたが、中腹までは舗装をされていたのですが途中から石畳となったために、途中で諦めて歩いて登ることにしました。

中村城の天守閣は模擬天守で、中は四万十市立郷土資料館になっています。
本来は単体の城ではなく、為松城、東城、中ノ森、御城、今城を総称したものとなります。
登っていく途中で東城の詰(本丸)跡がありましたし、模擬天守のあった場所からちょっと歩くと為松城の詰跡もありました。
天守閣は狭い敷地に建っているために、それなりの写真を撮れる角度はこの方向のみです。
当時の遺構として残されているのは土塁に石垣ぐらいのもので、ご多分に漏れずに多くは公園になっていました。

天守閣からの四万十市街になりますが、市街と言うには中心地から離れた所にありますので、地元の方からすると勘弁をしてくれといった感じかもしれません。
のどかな田園風景が広がっています。

いわゆる城跡から離れた第一公園にも、石垣が残されていました。
こちらは資料館に展示をしてあった写真からその存在を知り、資料館の方にいただいた地図を片手に探したものの見つからず、地元の方に聞いてようやくたどり着きました。
もっともその方は軽トラックで先導をしてくれたのですが、坂道で必死にペダルを踏んでも見る見るうちに離されていく程のスピードで走られてしまい、これがジェッターならと悔しい思いをしたのが正直なところです。
肝心の石垣は小さな公園の一部と化しており、ペンキで汚れているところがあるなど悲しい状態であったのが残念でした。

気を取り直して次に向かったのが、一条教房の墓です。
教房は「日本無双の才人」と評された一条兼良の長男で、自身も父と同様に関白まで登りつめました。
応仁の乱に際して領地のあった土佐に下向し、そのまま土佐に住みつくことになります。
この教房を土佐一条氏の初代と見るか、祖と見るかは議論の分かれるところですが、教房の後は房家、房冬、房基、兼定、内政、政親と続きます。
しかし兼定が長宗我部元親に追放をされた時点で、土佐一条氏は実質的には滅んだと言ってよいでしょう。

この中村をもって土佐の史跡巡りは終わり、次は伊予に向かうことになります。
中村から宇和島まではやはり3時間ぐらいの移動時間を要したのですが、景色を見ているうちに着いてしまった、という感じでした。

そして四国の5日目は宇和島で始まりました。
まず向かったのは宇和島伊達家の菩提寺である、等覚寺です。

JR宇和島駅から細い川沿いをうねうねと進んで行き、路地を抜けたところに等覚寺があります。
ちょっとした城門のような風格の山門を抜けると、そこに宇和島伊達家の墓所がありました。

宇和島伊達家の初代、伊達秀宗の墓です。
秀宗は伊達政宗の庶長子であり、仙台本家を継いだ忠宗の兄にあたります。
庶子であり、また豊臣秀吉に偏諱を受けたことなどから徳川の世で生きて行くには辛い立場で、大坂の陣の恩賞で政宗が得た宇和島に別家を構えることになります。

この他に2代宗利、3代宗贇、4代村年、6代村寿、8代宗城、10代宗陳の墓があります。
宗城は幕末の四賢侯と称されて、混迷の時代にその名を馳せました。

等覚寺からほど近い大隆寺にも、宇和島伊達家の墓所があります。
奇数代と偶数代に分かれていますので、寛永寺と増上寺との関係と同様なのかもしれません。

こちらには5代村候、7代宗紀、9代宗徳の墓があります。
宇和島伊達家は途中で仙台本家の血が入りますが、幕末までしっかりと政宗の血脈を守り通しました。
ちょっぴり嬉しい気がします。


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四国巡り 史跡巡り篇 高知、安芸の巻

2009-08-30 00:41:57 | 日本史

 

高知1日目の午後から小雨が降り出したのですが、天候の心配から日の出とともに動き出したために、予定で残すところはいくつかの資料館と墓所のみとなっていました。
そのため雨はさほどの影響もなく、ビニール傘を片手につらつらと移動をしていたところ、悲劇は高知県庁前で起こりました。
携帯を片手に突進をしてくる自転車を避けるためにハンドルを切ったところ、雨に濡れた歩道にスリップをしてしまい、地面に突いた左手首を骨折する羽目になりました。
旅の間はさほどの影響は無かったものの、帰ってきてから固定をしたことで不自由な日々が続いています。

一度ホテルに戻ってレインコート、レインパンツに着替えてから向かった先は、山内家下屋敷と山内家宝物館です。
そうこうしているうちに雨足は強くなったのですが、午前中に降られなかったのが不幸中の幸いでした。
両方ともこぢんまりとした展示でしたが、午後のひとときをまったりと過ごすには申し分のないものでした。

この日の最後に向かったのが筆山にある山内家の墓所です。
しかしトップの写真にあるとおりに立ち入りが禁止をされており、山内家宝物館に戻って見学を申し出ましたが断れました。
数年前から全て断っているとのことで諦めたのですが、帰ってきてから調べてみると今年の5月に見学をした人がいるようで、雨が降っていたので面倒くさがられたようです。
いつになるかは分かりませんが、次に訪れるときには前日までに連絡をした上で、しっかりと見学をさせてもらうつもりです。

四国の4日目、高知の2日目は幸いなことに天気は回復をしてくれました。
高知とは言っても高知県というだけで訪れたのは安芸市と四万十市ですので、タイトルは安芸、中村としています。

まず安芸で最初に訪れたのは、土佐七雄の一つである安芸氏の居城であった安芸城跡です。
堀と石垣に囲まれたそれなりの構えで訪れる者を迎えてくれます。

さほど広くはない敷地内に、安芸城跡の登り口があります。
数分も登れば頂まで至りますが、見事なぐらいに何もありません。
ただ木が生い茂っているだけで、それでも最初に訪れたときには登ることすらできないぐらいに荒れ果てていましたので、整備がされたことを感謝することにしました。

同じ敷地内に安芸市立歴史民俗資料館がありましたが、安芸氏ではなく山内家の家臣である五藤氏にかかる資料が中心の展示となっていました。
その資料館の脇に、長宗我部元親に攻められた際に落城の原因となった、毒を投じられて毒井戸と呼ばれた井戸の跡がありましたが、安芸氏の後に城主となった五藤氏がそのまま放置をしていたとも思えず、当時のものかどうかは微妙な感じがします。

長宗我部元親が土佐統一に向けて勢力を拡大した際に立ちはだかった安芸氏の、菩提寺である浄貞寺です。
戦国期の当主である安芸国虎は、家臣の命を助けることを条件に開城をした後に、ここで腹を切りました。

その安芸国虎の墓です。
一時は逆に岡豊城を攻めるなど攻勢になりましたが、じわじわと追い詰められて遂には元親に攻め滅ぼされてしまいました。
内応者が次々と出てしまったことが落城の原因ですが、最後まで付き従った黒岩越前守と有沢石見守の墓が守るように国虎の墓の横にあったのには感じるところがあります。

国虎の祖父の元親、父の元泰、兄であり早世をしてしまった泰親の墓です。
祖父の名が元親というのは皮肉な話ではありますが、土佐に流された蘇我赤兄の末裔とも言われている安芸氏は鎌倉時代より安芸郡を領して土佐東部の最大勢力として繁栄を築いてきましたが、国虎の代で元親に滅ぼされてその系譜を閉じることになりました。

安芸を昼前に出て向かったのは中村で、土佐くろしお鉄道とJR土讃線を乗り継いで3時間ほど電車に揺られたのですが、晴れてくれたおかげで車窓から見る景色に心癒されながらの、あっという間の移動となりました。
これが雨ですと睡魔に襲われて、しかし乗り継ぎを考えれば寝るわけにもいかず、といった苦痛の時間になったでしょうから、とても助かりました。


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四国巡り 史跡巡り篇 高知の巻

2009-08-28 01:40:36 | 日本史

 

高知の巻は続きます。
構成の問題で分かりづらくなってしまいましたが、四国3日目、高知の1日目です。

浦戸城跡から桂浜を経てようやく到着をした、長宗我部氏の累代の居城であった岡豊城跡です。
それこそ最初に訪れたときにはこの石碑しかないぐらいに荒れ果てていたのですが、今はそれなりの整備がされています。

本丸にあたる詰、そして詰下段、二ノ段、三ノ段、三ノ段土塁、四ノ段です。
岡豊城は連郭式山城で瓢箪のような地形に史跡が散在をしていますが、見ての通りの土塁に石段といった往時を偲ばせる趣きがあります。
もっとも雨上がりの山城は危険がいっぱいで、石段を下りる際に足を滑らせて尻を痛打し、尾てい骨を骨折するという目に遭ってしまいました。

詰から望む、南国市街です。
田園風景が広がっていますが、それと同時に城の位置も分かるかと思います。
天守閣や櫓などに登らずにこの高さですから、よくぞ自転車でここまで登ったものと自らを誉め称えたい気分です。

こちらは岡豊城跡にある、高知県立歴史民俗資料館です。
長宗我部氏にかかる資料が中心ではあるのですが、もう少し四国統一への戦いや一領具足などを取り上げて欲しかったという気がします。
ただ長宗我部グッズは他にない充実を見せており、思わず財布の紐が緩んでしまいました。

岡豊城跡に向かう中腹に、香川親和のものと伝えられている墓がありました。
親和は元親の次男で、 元親の四国統一の戦いの過程で讃岐の香川氏に養子に入ります。
兄である信親が討ち死にを遂げた後、豊臣秀吉は親和を後継にするよう元親に計るものの、元親は正室の腹である盛親を後継に定め、失意の親和は21歳でその生涯を終えます。
墓所もそれと知らなければ分からないようなところにあり、まるで親和の短い、そして不遇の一生を物語っているかのように思えました。

岡豊城跡を昼前に出て、次は高知城に向かいました。
岡豊城跡のある南国市から高知市に戻るには逢坂峠を越えなければならないのですが、これが傾斜はさほど厳しくはないものの距離があり、かなり難渋をしました。

高知城でまず出迎えてくれるのは、山内一豊の像です。
大河ドラマで有名になった一豊は、元は尾張の岩倉織田家の老臣であった盛豊の三男として生まれました。
岩倉織田家は織田信長に滅ぼされ、その際に父と兄が討ち死にをしたため、その後は各地を放浪した末に一族の仇である信長に出仕をして、木下秀吉の寄騎となります。
秀吉配下の中堅武将として各地を転戦し、最終的には5万石余の大名として掛川城を任されますが、関ヶ原の戦いに際しては東軍に与して、さらには居城である掛川城を徳川家康に提供をしたことで、戦後に土佐一国を与えられました。

まずは追手門を抜けて石段を登っていくと本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門がありますが、ここは通り抜けることはできません。
そこで左右に分かれた道の右手を登っていくと三ノ丸、二ノ丸があり、廊下門を抜けると天守閣のある本丸に出ます。
これら追手門、詰門、廊下門のいずれも、国の重要文化財に指定をされています。

三ノ丸の脇には、一豊の妻で有名な見性院の像があります。
千代の名の方が通りが良いかもしれませんが、土佐一国は千代がいたからこそとも言われるほど内助の功の逸話が多く、賢妻の見本のようにも言われています。
一豊は土佐移封の数年後に亡くなり、千代も京都に移り住んでしまったために土佐との馴染みは実は薄いのですが、やはり高知城をこの2人を抜きに語ることはできません。

本丸にある天守閣です。
高知城は長宗我部元親も一時期居城とした大高坂城を元に、3年の歳月をかけて作り上げられました。
三ノ丸までを含めて完成をしたときには、既に次代の忠義の世となっていました。

やはり国の重要文化財である天守閣は4層5階になっており、一豊の前の居城である掛川城の天守閣を模したものと言われています。
お色直し中で足場が組まれていたのが残念でしたが、戦災を免れて15棟もの遺構が残されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

本丸にはこれまた国の重要文化財である西多聞、東多聞、黒鉄門があります。
この黒鉄門を抜けて石垣沿いにぐるっと回りながら下りていくと、登ってくる途中にあった詰門に出ます。
つまりは左の道を登っていけば、三ノ丸などを通らずに本丸に出ることができますので、この黒鉄門がいかに重要かが分かります。

この高知城を出たあたりから小雨が降り出したのですが、一通りの予定をクリアしたために気にはならず、むしろ運が良かったぐらいの気持ちになっていました。
その心の隙が悲劇を呼ぶことになろうとは、このときの私には知るよしもありませんでした。


【2009年8月 四国の旅】
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四国巡り リンクページ

2009-08-27 00:49:48 | 日本史

gooのブログの文字数制限により各記事にリンクを貼るのが厳しくなってきたため、史跡巡り篇とグルメ篇についてはリンクページを作ることにしました。
不細工な構成で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

【2009年8月 四国の旅】
四国巡り 史跡巡り篇 丸亀の巻
四国巡り 史跡巡り篇 高松の巻
四国巡り 史跡巡り篇 勝瑞、那賀川の巻
四国巡り 史跡巡り篇 徳島の巻
四国巡り 史跡巡り篇 川島、高知の巻
四国巡り 史跡巡り篇 高知の巻
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四国巡り 史跡巡り篇 川島、高知の巻

2009-08-26 02:46:35 | 日本史

 

徳島を出て高知に向かう途中で、川島に寄って川島城を見てきました。
あまり知られていない城だと思いますが、丸亀城や高松城を凌ぐ天守閣がそびえ立っています。

見事すぎる天守閣ですが、残念ながら鉄筋コンクリートで再建をされた模擬天守です。
城内には槍や甲胄などが展示をされているものの多くは会議室などになっており、城の形をした公民館と思った方がよいでしょう。

蜂須賀氏の阿波9城の1つとして重要な役割を担っていましたが、江戸時代に入って一国一城令により廃城となりました。
支城という意味から往時にこういった規模の天守閣があったとは思えず、どこぞの城の天守閣を模したものだと思われます。

川島市街です。
JR阿波川島駅は無人駅で、またコインロッカーも無かったために荷物をどうしようかと困り果てたのですが、駅前の靴屋さんが快く預かってくれました。
こういった地元の方の温かい気持ちに触れることができるのも、旅の良さの1つです。
この川島を後にした頃から雨が降り出し、高知に着いたときにはかなりの雨量となってしまい、祈るような気持ちで四国2日目を終えることとなりました。

そして四国3日目はホテルを出たときには降っていた雨も数分で止み、止んでいる間に少しでも移動をしようと必死にペダルを踏みました。
まず最初に訪れたのが長宗我部元親の菩提寺であり、またその戒名である雪蹊恕三大禅定門から寺名をとった雪蹊寺です。

この雪蹊寺には長宗我部信親の墓があります。
長宗我部元親の嫡男である信親は織田信長から偏諱を受け、また文武両道で元親の期待を一身に受けていました。
しかし島津攻めの際に戸次川の戦いで壮絶な討ち死に遂げてしまい、このことで元親の後継問題が騒動となって多くの一門、重臣を失うことになります。
信親に全ての重臣と7割を越える兵士が運命を共にしたことからも人望があったことが分かりますし、長宗我部家の凋落はこの時から始まったと言ってよいかもしれません。

次に向かったのは、昨秋に行きたいと表明をした若宮八幡宮です。
七つ酢漿草の幟がはためいており、これだけで胸がドキドキとしてきます。
早朝で時間前ながらも無理をお願いして中に上げていただき、ミニチュアの幟と絵馬を購入しました。
長宗我部元親を大河ドラマに、との署名にもしっかりと名を連ねてきたことは言うまでもありません。
ちなみに時間が早かったこともあってか、歴女の姿は見られませんでした。

その若宮八幡宮の参道にあるのが、長宗我部元親の像です。
1998年に建立をされたので高知は3度目にして見るのは初めてで、史跡としての価値は当然ながらありませんが、山内家一色の感のある高知で長宗我部にかかるこういったものが作られただけでも、長宗我部フリークとしては涙が出るほど嬉しくなります。

その嬉し涙が乾かぬうちに、長宗我部元親の墓を訪れました。
以前と同様に案内板は朽ち果てたままでしたし、手前にあった愛馬の塚の説明板は姿を消してしまい、高知市にはもっと長宗我部を大切にしてもらいたいです。
一時は四国全域に覇を唱えた長宗我部元親はゲームのおかげでブームになりつつありますので、やや不純な動機ではありながらも役所が重い腰をあげてくれるきっかけにでもなってくれればと、そう願っています。

ここから桂浜に向かったのですが、雨が止んでくれてとても助かりました。
目的の浦戸城跡は平山城ですから登りが厳しく、傘を差してなんてことは到底無理だと思い知らされました。
これは桂浜から岡豊城跡に向かうために浦戸大橋を渡ったときもそうだったのですが、雨が降っていたら自転車での散策はとても無理で、散々な高知になるところでした。

浦戸城は岡豊城を本拠にしていた長宗我部元親が、大高坂山を経て1591年に居城を遷した城です。
三層の天守を誇るそれなりの規模の城であったようですが、関ヶ原の戦いで元親の四男である盛親が敗れたことで、山内一豊が掛川から土佐に移封をされてきます。
その一豊は元親が断念をした大高坂山に高知城を築いて1603年に遷ったために、この浦戸城は僅か13年で廃城となってしまいました。
今は高知県立坂本龍馬記念館や国民宿舎の建設により遺構は大半が失われてしまい、天守跡には小さな祠が寂しそうに建っていました。

私が確認をできたのは、国民宿舎の奥の石垣、同じく国民宿舎の駐車場の脇の石垣、そして龍馬記念館の奥にある井戸ぐらいでした。
悲しいぐらいの破壊っぷりで、ここでテンションがちょっと下がってしまいました。

その浦戸城跡からの、坂本龍馬の像や土佐犬の闘犬で有名な桂浜です。
前の2回は欠かさずに訪れた場所ですが、幕末に興味が無くなったのと、天気が心配で今回は素通りとなりました。

ここから南国市にある岡豊城跡に向かったのですが、雨は止んだものの太陽が顔を見せていなかったために方角が掴めず、何度か道を間違えてかなり時間を無駄遣いしました。
雨対策でバッグをビニール袋にくるんでいたために、ポータブルナビを出すのを面倒くさがったのが失敗でした。
もっとも日の出とともにホテルを出たために、岡豊城跡にある高知県立歴史民俗資料館の開館時間にはぴったりでしたので、天気の回復もあって焦りはありませんでした。

焦っているのはgooのブログの文字数制限のために中途半端な構成にならざるを得ないことで、かなり頭を悩ませています。
旅程篇は写真の一部を省略する羽目となりましたし、早急に改善をしてもらいたいです。


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四国巡り 史跡巡り篇 徳島の巻

2009-08-25 00:51:35 | 日本史

 

那賀川から徳島に戻り、まずは徳島城を訪れました。
徳島城は天守閣や櫓などの遺構は残されておらず、最初に訪れたときにはただの公園に過ぎませんでした。
その後は多少の整備がされて綺麗になってはいますが、往時の繁栄を思わせるものはありません。

それでも1989年に鷲の門が再建をされたことは喜ばしく、表御殿外郭の門であるために現在の城跡からちょっと離れたところにあるのですが、それなりの偉容を誇っています。
周りがコンクリートの地面となっているのは、場所が場所だけに仕方がないでしょう。

城の周りは堀と石垣に囲まれており、下乗橋や数寄屋橋などが架けられているのですが、そもそもこのあたりは表御殿や奥御殿といった平時の居住地の跡であり、天守閣があった場所からは離れた地となっています。
本丸や二の丸、三の丸があったのは現在の城山の辺りであり、城跡としての整備はされていないとのことでした。

城内には蜂須賀家政の像があります。
戦前は蜂須賀正勝の甲冑姿の像だったそうですが、戦時中に供出をされてしまい、戦後に作り直された際には藩祖ということで子の家政に取って代わられてしまいました。

同じく城内にある徳島城博物館です。
それなりの規模を誇る展示がされていますが、そもそも徳島城が戦国末期の築城であったために、私が興味のあるようなものが少なかったのは織り込み済みです。
蜂須賀家の墓所のある興源寺への行き方を、広域地図のコピーを取って教えてくれるなど、係の方にはとても親切にしていただきました。

その興源寺です。
徳島城からそれなりに離れており、迷うには充分ぐらいの距離がありましたが、いただいた地図のコピーとポータブルナビのおかげで無事に到着をすることができました。

墓所には歴代藩主の墓が整然と並んでおり、きちんとした整備がされているようです。
水辺もあってか親子連れの散策の地になっているようで、小さな子どもの歓声が響き渡っていました。

藩祖である蜂須賀家政の父、正勝の墓は別格なのか、ちょっと離れたところにあります。
蜂須賀正勝は豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃から仕えており、蜂須賀小六の名の方が通りがよいかもしれません。
講談で盗賊のように描かれていることで豪傑のイメージがありますが、むしろ謀臣に近い役回りであったようです。

その正勝が秀吉から阿波一国を賜るものの、老齢を理由に子の家政に譲ったことで、徳島藩の藩祖は家政ということになります。
伊達政宗をして「阿波の古狸」と評されるほど父に劣らない老練な手腕を見せ、また豊臣家には忠誠心があったようで、関ヶ原の戦いでも西軍につくなど微妙な動きを見せます。
東軍が勝利したために家督を子の至鎮に譲って隠居をしますが、その至鎮が早世をしたことで孫の忠英を後見し、81歳まで生き抜くことになります。

家政の子の至鎮が、徳島藩の初代藩主です。
徳川家康の養女を正室に迎えていたこともあり、東軍として関ヶ原の戦いに臨むことになります。
その功績もあって淡路を加増されて25万石余の大封を得ますが、病弱であったために僅か35歳で世を去ります。

その後は忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕と続きますが、短命な藩主が多く途中で松平氏、佐竹氏から養子を取ったことで、現在の当主には正勝の血は流れておらず、斉裕が徳川11代将軍の家斉の子であることから、徳川将軍家に連なる一族となっています。
何だかちょっと残念と言ってしまうと失礼にあたるかとは思いますが、その思いは拭えません。


【2009年8月 四国の旅】
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四国巡り 史跡巡り篇 勝瑞、那賀川の巻

2009-08-24 02:35:36 | 日本史

 

四国の2日目は勝瑞からのスタートです。
JR勝瑞駅から徒歩15分ほどのところにある勝瑞城跡が目的だったのですが、駅前の案内板の地図がアバウトすぎて場所が分からず、以前に訪れたときの記憶に頼って歩いたのが悪かったのか、30分ほど放浪する羽目になりました。
朝早かったこともあり通行人がほとんどいなかったので、道を聞くことが出来なかったのが痛かったです。

ようやくたどり着いた勝瑞城跡ですが、こちらは記憶どおりに城跡と言われなければただの空き地にしか見えません。
それでもトップの写真のあたりは以前は草ぼうぼうでしたから、2001年に国の史跡に指定をされたときにでも手を入れたのでしょう。
残っているのは土塁と堀の一部だけで、城跡と言うよりは中世の館跡と言った方がよいかもしれません。
それでも阿波細川氏、そして戦国期の室町幕府を牛耳った三好長慶の阿波三好氏の居城であり、往時はそれなりの繁栄を誇ったものと思われます。

城跡には阿波三好氏の菩提寺である見性寺があります。
しかしこちらも寺と言われなければ分からないような、一見すると自治体の集会場のようにも見えます。

同じく城跡にある阿波三好氏の墓所です。
三好長慶の曾祖父である之長、父である元長、そして弟の義賢、義賢の子で甥にあたる長治の墓があります。
之長は阿波から畿内に進出をする足がかりを作ったものの細川氏の同族争いの中で命を落とし、跡を継いだ元長も一向一揆に攻められて敗死をします。
兄の長慶を助けて三好氏の全盛を築いた義賢も根来衆との戦いで、著名な戦国武将で初めて鉄砲によって殺されたという不名誉な死に方をします。
その子である長治もかつての主筋であり、異父兄でもある細川真之に攻め殺されるという、何とも呪われたとしか言いようのない一族です。
ちなみに異父弟を殺した真之も、同じ異父弟である十河存保に攻められて自害を余儀なくされるわけですから、これも因果応報と言ってよいのかもしれません。

前回もそうだったのですが、午前の早い時間ですと逆光になりますので、写真を撮ることを考えるのであれば午後に訪れた方がよいでしょう。
残念ながら案内板などが無かったために、どれが誰の墓かが分かりませんでした。
帰ってきてからネットなどで調べても分からず、墓石も風雨でかなり削り取られているために戒名などの記載も確認が出来ず、どうにもなりません。
見性寺の方に聞けば教えていただけるかとも思ったのですが、かなりの早朝であったために躊躇をしてしまい、この件については今後の課題となります。

こちらは勝瑞城跡からほど近いところにある勝瑞城館跡で、三好義賢の館跡と言われています。
勝瑞城跡と同様に国の史跡に指定をされており、第15次発掘調査が行われていました。
しかし見る限りただの野原に過ぎず、所々に案内板が設置をされているものの周りにはその痕跡は見られず、ものによっては1箇所に複数の案内板が置かれているものもありましたので、きちんとした設置がされていないのかもしれません。

勝瑞を出た後は徳島で牟岐線に乗り換えて阿波中島まで向かい、那賀川に降り立ちました。
目的は阿波公方、平島公方とも呼ばれる足利将軍家一族の墓のある西光寺です。
阿波公方は将軍になることができる資格がありながらも阿波で朽ち果てた、戦国の世に翻弄をされた無念の一族です。

山門をくぐってすぐ左に、阿波公方の祖と呼んでもいい3人の墓があります。
足利10代将軍の義稙、義稙の従兄弟の11代将軍の義澄の子であり、12代将軍の義晴の弟でもある義冬、そして義冬の子である14代将軍の義栄です。

足利義稙は初名を義材と言い、応仁の乱で有名な足利義視の子で、従兄弟の義尚の跡を継いで10代将軍に就任をしました。
しかしながら対立をする細川政元に明応の政変で将軍職を追われ、従兄弟の義澄が11代将軍となりますが、大内義興に後押しをされた義稙は義澄を追い落として将軍に復帰を果たすという、足利将軍家では唯一2度の将軍職を継いだことになります。
ところが再び今度は細川高国と対立をして京都を離れて阿波に赴き、そのまま阿波で生涯を終えることになりました。
その義稙と将軍職を争った義澄の子が義冬で、義維という名の方が有名かもしれません。
兄で12代将軍の義晴を要する細川高国を京都から追って堺に在し、堺公方と呼ばれるようになりました。
しかし甥である義晴の子の13代将軍である義輝を擁する細川晴元に追われて阿波に戻り、阿波公方の初代となります。
その義冬の子である義栄は義輝を殺した三好三人衆や松永久秀に担ぎ出されて14代将軍となりますが、織田信長が擁する義輝の弟である義昭が上洛をしたことから阿波に逃げ帰り、そのまま病没をしてしまいます。
このあたりは貴種が政争の具とされて、また同族が骨肉相食む戦いを繰り返すといった、なかなか分かりづらい関係が展開をされました。

山門から見た反対側には義冬の子であり義栄の弟である阿波公方2代の義助らの、阿波公方家の墓所があります。
9代の義根が京都に去るまでの歴代の墓がありますが、西光寺が火事になった際に資料が失われたために、分かっているのは2代義助以降は5代義景、6代義辰、7代義武、8代義宜とその一族の子弟であり、その他は誰のものかも分からないまま風雪にさらされています。

義助は後ろ盾であった三好一族の凋落により身動きが取れなくなりますが、それでも長宗我部元親からはそれなりの処遇を受けたものの、蜂須賀氏が阿波に入国をしてからは生かさず殺さずの待遇となり、それが9代義根の阿波退去に繋がっていきます。

初代の足利義康の血を他家から養子が入ることなく綿々と受け継いでいるのは阿波公方家だけであり、そういう意味では不遇の時代が長かったことが、逆に閉ざされた環境の中で生き続けることで血の断絶を防ぐことができたのかもしれません。

2日目の前半は一般的には地味な場所を回ることになりましたが、地味ながらも室町幕府の末期に畿内で展開をした権力闘争の匂いを感じられる地でもあります。
あまり一般受けをしないことは承知をしていますが、訪れる価値のある場所だとお奨めしたいと思います。


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四国巡り 史跡巡り篇 高松の巻

2009-08-23 01:38:25 | 日本史

 

丸亀の次に訪れたのは、生駒親正の居城であった高松城です。
現在は玉藻公園として開放をされており、桜の名所としても有名で多くの花見客が訪れるそうですが、当然ながら夏に桜は咲いていません。

玉藻公園の入口はJR高松駅に面した西口と、その対角線上にある東口があるのですが、今回は旭門のある東口から入りました。
駅の反対側ですから言ってみれば裏側ではあるのですが、城の周りをぐるっと回ってから中に入る私としては関係のない話です。
この旭門は当時の遺構なのですが、場所が悪いせいか訪れる人はあまりいないようです。

旭門を入ってすぐのところには、旧東の丸艮櫓があります。
この場所は桜馬場であり、旧東の丸という名の通り、元々は別の場所にあったものを移設したものとなります。

艮櫓は国の重要文化財であり、かなり大きな造りとなっています。
それこそ丸亀城の天守閣と比べても規模については遜色はなく、もっとも本丸(天守)にある櫓が天守閣なわけですから、比較をしても意味のない話ではあります。
とても移設をしたとは思えないような石垣ともマッチをした感じではあるのですが、ここには元々は太鼓櫓があったとのことです。

高松城に天守閣は現存していません。
老朽化をしたことで明治の時代に解体をされてしまい、高知城や松山城を凌ぐ四国では一番大きかった天守閣はその姿を消してしまいました。
これまで何度も天守閣の復元が計画をされてきたものの、資料としての写真が1枚しかなかったことで文化庁が許可を出さず、ところが2005年にケンブリッジ大学で別の写真が発見をされたことから、ようやく来年の着工を目指して準備を進めているとのことです。
もし往時の規模で復元がされるのであれば素晴らしいことで、是非とも鉄筋コンクリートではなく木材を使ったものとなることを願っています。
その準備のためでもないのでしょうが、天守閣の石垣を組み直す工事が行われていました。

その工事のために、天守閣跡に渡るための鞘橋が封鎖をされていました。
以前に訪れた際には渡ることができたのですが、この橋自体もかなり老朽化をしていて足元がおぼつかないものでしたので、こちらの補修も合わせてされるかもしれません。

高松城は瀬戸内海の海水を堀に引き込んだ海城ですが、今の堀に引き込まれているのも海水だそうです。
ただ水門でどうやって水位を調節していたかは不明との説明が案内板にありましたので、今は当時とは違うやりかたで引き込んでいることになります。

こちらは北の丸月見櫓です。
国の重要文化財であり、その名の通り城の北側に面して建っていますので、瀬戸内海からの攻撃を防ぐための役割のある櫓なのだと思われます。

艮櫓より一回りほど大きく、これを天守閣だと勘違いをする人がいるかもしれないぐらいの規模があります。
常時は開放をしていないために中に入ることは出来ず、艮櫓とともに眺めるだけで終わりました。
維持管理の問題があるのでしょうが、見るだけではもったいないように思います。

月見櫓に連なるのが、北の丸水手御門と渡櫓です。
堀の水が枯れているので分かりづらいとは思いますが、ここは船着き場のような場所であったようです。
以前に訪れたときには水があったような気がしますので、もしかしたら潮の満ち引きに関係があるのかもしれません。
ただそれにしては石段の位置が低いと思われ、実際のところはよく分かりません。

この水手御門も国の重要文化財です。
水が張っていないこともあってただの門のようにしか見えませんが、堀に水が入って小船でぐるっと散策ができるようになると人気が出るのではないかと、そんな気がします。
堀に入って近寄ろうかとも思ったのですが、ちょっと周りの目が痛かったので遠慮をしておきました。

こちらも同様に国の重要文化財である、渡櫓です。
月見櫓、水手御門とともに当時の遺構で、松平氏の時代に建てられたものです。
水手御門を守るための櫓で、一般的な門に連なる続櫓と同じようなものと考えればよいと思います。

天守閣が無く、また他の櫓にも入ることが出来なかったので、いつもの市街地を紹介することができません。
その代わりと言ってはなんですが、これが瀬戸内海です。
もう少し高さがあればよかったのですが、そうでなくても雰囲気は感じていただけるのではないかと思います。

高松城を後にして、向かった先は弘憲寺です。
生駒親正の墓所があり、その戒名である海依弘憲大禅定門から寺名がとられたのだと思われます。

生駒親正は織田信長、豊臣秀吉に仕えて、讃岐17万石余の大名となりました。
関ヶ原の戦いでは子の一正は東軍に与し、親正は西軍に与することで生駒家の存続を図ります。
東軍が勝利したことで家督を一正に譲って78歳の大往生を遂げた親正でしたが、その努力も虚しく曾孫にあたる高俊が暗愚なために生駒騒動を起こし、生駒家は4代50年余で改易の憂き目に遭うこととなりました。

この弘憲寺を探すのに役立ったのがポータブルナビで、住所検索は丁目までと番地の細かいところを探すことはできませんが、それでも丁目の辺りまで行き着ければ大抵は歩いている人に教えてもらって目的地に達することができます。
この旅の間にも何度も助けられたポータブルナビは、史跡巡りには手放せないアイテムになりました。


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四国巡り 史跡巡り篇 丸亀の巻

2009-08-22 03:45:09 | 日本史

 

初日に広島まで足を伸ばしたのですが、夜に入ってから雨が降り出し、その雨は翌日の朝になっても止まずに不安なスタートとなりましたが、岡山まで戻ったあたりでようやく曇り空に変わり、四国で最初の地となる丸亀に着いたときには薄日が差していました。
昼頃には夏の晴れ空が戻ってきてくれたおかげで、気持ちよく史跡巡りの第一歩を踏み出すことができました。

その丸亀で最初に訪れたのは、当然のことながら丸亀城です。
生駒親正が元々あった砦を利用して築き、その後は丸亀藩の居城として山崎氏を経て京極氏で幕末を迎えることになります。

訪れた者を最初に迎えてくれるのは、大手一の門と二の門です。
両方とも国の重要文化財に指定をされた当時の遺構で、城に来たことを実感させてくれる見事な門構えとなっています。
これだけの遺構が残っているところは全国でも数は少ないので、初っ端から興奮が高まります。

二の門を正面から、そして門をくぐって内側から見たところです。
やや小ぶりながらもしっかりと鉄砲狭間などを備えていますし、バランスのいい造りとなっています。
登城をするために城を訪れた藩士も、おそらくは同じ感慨にふけったことでしょう。

二の門を抜けてすぐにあるのが一の門で、正面から、そして同じく門をくぐって城内から見たところになります。
こちらは堂々とした規模を誇り、ひょいと裃を着た侍が姿を現しそうな錯覚にとらわれます。

一の門を抜けると道は左右に分かれますが、左には本丸に向かう坂道があります。
お年寄りには厳しいのではないかと思えるぐらいの傾斜がある上り坂で、さすがに自転車は諦めて脇に止めて登ることにしました。
登っていくと三ノ丸跡、二の丸跡を経ることになりますが、場所を示す案内板などが無ければただの広場に過ぎないのは仕方のないところです。

そしていよいよ天守閣です。
平山城とは言っても本丸はそれなりの高さに位置していますので、ちょっと汗ばむぐらいの運動量が求められます。
それでもそれだけの価値があると思わせてくれる、見事な天守閣が待っていてくれました。

天守閣も国の重要文化財に指定をされており、江戸時代のものがそのまま残っています。
江戸時代以前の天守閣がそのまま残っているのは全国でも僅か12城に過ぎず、非常に貴重な遺構であることは言うまでもありません。
独立式層塔型3重3階でやや小さく、一見すると櫓のようにも見えますが、正真正銘の天守閣です。
このあたりで私の興奮は最高潮に達し、いろいろな人に写真をメールで送りつけましたが、反応が今ひとつであったのが不満でした。

三の丸の展望台から見た、丸亀市街です。
天守閣の窓はワイヤー入りのガラスがはめてあったために撮影には向かず、仕方なく少し下りてから撮ったのですが、遠く瀬戸内海を臨むことができます。
天守閣からは瀬戸大橋が見えるとのことですが、この位置からは確認ができませんでした。

登ってきた道を下って自転車を止めたところまで戻り、今度は右に向かうと御殿表門と番所・長屋があります。
これらも当時の遺構で、ここまで残っている城は全国でも珍しいと思います。
立ち木も綺麗に整備がされており、これらが脇役として城を盛り立ててくれていますので、丸亀市には感謝をしなければなりません。

そして何より丸亀城の素晴らしさは、この石垣に尽きると思います。
曲線美には思わず見とれてしまいますし、これだけの石垣を積み上げる技術力、労力、そして資金と大名権力の偉大さを実感するのに充分すぎるぐらいの威容を誇ります。
ややマイナーな感のある生駒親正は、実は織田信長の初期からの家臣であり、信長の愛妾である吉乃に連なる一族としての意地が、17万石の大名の支城にしては身分不相応に過ぎる城を築かせたのかもしれません。

ちょっと残念だったのが城の麓にある丸亀市立資料館で、これだけの城を誇りながらも資料館は貧弱に過ぎます。
場所が場所だけに城に関する資料に過大な期待を持ちすぎているのかもしれませんが、どちらかと言えば民俗資料館と呼んだ方がよいと思います。

丸亀ではその他に山崎家の菩提寺である寿覚院、京極家の菩提寺である玄要寺に行ったのですが、両方とも観光案内所のマップに記されていながらも、門が閉ざされており呼び鈴を鳴らしても応答がありませんでした。
江戸大名にはさほどの興味がないためにそれ以上の無理押しはしませんでしたが、ちょっと不完全燃焼な気分になったことは確かです。
それでも丸亀城の素晴らしさを堪能することができましたので、気持ちよく丸亀を後にしました。


【2009年8月 四国の旅】
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千葉城で露払い

2009-07-26 23:41:32 | 日本史

 

大多喜城に一歩でも近づくために週末に100キロ、月に500キロの自転車での走行を自分に課しているのですが、ただ走っているのにもかなり飽きてきました。
そこで昨日は休日出勤の通勤で70キロちょっとを走ったので、今日はお手軽に千葉城を訪れることにしました。
先週末と同様の強風に苦しみながらも片道20キロちょっとですから、1時間弱での到着です。

亥鼻城とも呼ばれる千葉城は、千葉氏の館があったとされている亥鼻公園にあります。
立派な天守閣ではありますが、当時はこういった建造物があったわけではなく、単なる館のようなものであったとされています。
それでもこういった鉄筋コンクリート造りの城であっても、実際に目にすると大量のアドレナリンが分泌をされたような興奮状態に陥ります。

内部は千葉市立郷土博物館になっており、5階建てで常設展、企画展などが催されているのは全国の城と同様で、意外にも多くの人が訪れていました。
日曜日は地元のボランティアの方が展示物の説明をしてくださるようで、受け答えに「自分は詳しい」との雰囲気を醸し出してはみたのですが、展示物を熱心に見ている姿が印象的だったのか、他の入館者を差し置いて30分ぐらいもびったりと説明をしていただきました。
内容は知っていることばかりだっただけに、いろいろな意味で申し訳ない気分でいっぱいです。

城の脇には千葉氏の祖である千葉常重の嫡男、千葉常胤の像が立っていました。
平氏打倒を目指して挙兵をした源頼朝を同族である上総広常とともに助けて、千葉氏隆興の礎を築いたのがこの常胤です。
常胤の子から相馬氏、国分氏、東氏(遠藤氏)などの多くの一族が分派しました。

城に登ったときのお約束、展望台からの千葉市街です。
東西南北とも思ったのですが、海が見える方面だけにしておきました。
また館内では「千葉氏探検シート」なるものがあり、全18問を80点以上ですと記念品がもらえるとのことでしたので、頑張って100点をとりました。
記念品は千葉市郷土館と刻印がされている鉛筆2本でした。

ここからは完全な余談です。
本格的に稼働を始めたジェッター、そろそろ愛称をつけようかと思っているのですが、先週に平坦な道で47.5キロをマークしたので下り坂ならどこまでいくかとの興味に負けて、前後に車がいないことを確認した上でダッシュをしてみました。
結果は59.9キロで、これで転んだら擦り傷ではすまないでしょうから、こういった無謀なことは今回限りにしようと、またヘルメットの購入を真剣に考え始めました。

PSPのナビソフトも、今回の千葉城でデビューを果たしました。
ほぼ千葉街道を一直線なのでナビなどは必要なかったのですが、お試しという意味合いです。
自転車に据え付けるホルダーが存在をしないようなので、車載用のホルダーを無理矢理に加工をして据え付けたのですが、意外に見栄えもいい感じになりました。
日が差すと画面がほとんど見えないことや、音声ガイダンスが周りがうるさくて聞こえないという誤算もありましたが、そこは日陰でチェックをするなりイヤホンをするなりといった対策でどうにでもなりそうです。

MAPLUSポータブルナビ2

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使っているのはポータブルナビ2なのですが、起動時のGPS捕捉に時間がかかるものの、週末や旅先でちょっと使うといった用途であれば充分すぎるぐらいに働いてくれます。
ちなみにオプションではありますが、アムロ・レイやシャア・アズナブル、峰不二子や流川楓と言った音声データも販売がされています。
「アムロ、行きまーす!」の声でナビゲーションをしてくれるという誘惑に、負けそうな自分がいます。

MAPLUSポータブルナビ3

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もっとも本当は新製品のポータブルナビ3が欲しくて6月に予約をしていたのですが、発売が7月上旬から下旬、8月下旬、そしてついには9月末に延期となってしまったため、来月の旅行でも使うつもりなので仕方なく現行バージョンをヤフオクで手に入れる羽目となりました。
新バージョンは大多喜城へ行く際に、きっと私を軽やかに導いてくれることでしょう。

千葉城から自宅に戻るには時間が早かったのと、ちょっと走り足りない気がしたので、グッズでも漁ろうかと千葉マリンスタジアムに向かいました。
敷地内に入ったところ大歓声が聞こえたので何かと思いきや、どうやら甲子園大会の千葉予選が開催をされていたようでした。
あまりの歓声なので朝日新聞のテントが張ってあったところで聞いてみたところ、決勝戦が今まさに終わったところで、公立校であり、かつノーシードだった八千代東が甲子園への出場権を手にしたとのことでした。
時刻にして15時15分、その場に居合わせたのも何かの縁ですから、本大会では応援をしようと心に誓いました。

甲子園と言えば高校野球のお祭りのようなものですが、この週末は船橋市も「ふなばし市民まつり」で賑わっていました。
船橋に住むようになってから5年ちょっとになりますが、このお祭りを目にしたのは実は初めてです。
歩道には屋台が並び、通行止めとなった車道では昼間っから酒を飲んで顔が赤い人がたくさんいて、夏だなぁと思えるような光景でした。

その屋台から流れてくる香りに誘われて無性にお好み焼きが食べたくなったのですが、中学生のときに祭りの屋台で食べたお好み焼きにあたって死ぬ思いをしたことがあったので、無難に近くで目についたお好み焼き屋さんに入りました。
広島風のお店で、店員さんが焼いてくれるタイプのお店は初めてだったので、物珍しさもあって写真を撮らせてもらいました。
温卵豚玉そばは1人で食べるには多いぐらいで、これが今日の晩酌です。

土日とも晴天に恵まれたために、露出をしている部分はかなりの日焼けで肌がヒリヒリとしています。
みっともない焼け方が嫌だったのでグローブはしなかったのですが、ハンドルを握っていたために手の甲は焼けても指が焼けないという、変な日焼けとなりました。
こちらは覚悟をしていたサンダル履きの足は、見事なツートンカラーになっています。

来月の四国旅行に向けて、いい露払いの1日となりました。
どうやら天気が心配な感じとなっていますが、晴れ男の面目躍如といきたいところです。

 

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