オリオン村(跡地)

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ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 中城の巻

2011-10-06 21:21:34 | 日本史

 

沖縄の戦国史には詳しくない、と言うよりは興味の対象外だったのですが、日本100名城スタンプをきっかけに触れることができたのは幸いでした。
そうでなければ訪れることなどは一生なかったでしょうし、知識の幅が広がったことは自分にとっては大きなプラスになります。
いろいろと文化や風習などが違うのでスッと吸収をするにはハードルが高いことは確かですが、それでも全く知らないよりは少しだけでも豊かになっただろうと喜んでいます。
そんな沖縄での第一歩は、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録をされている中城城跡です。

那覇バスターミナルからバスで揺られること1時間ほどで、最寄りの停留所である中城小学校前に着きました。
そこから徒歩で中城城に向かったのですが、歩いてすぐのところで1.9キロ先との標識を見て唖然とさせられたのはあまりに当然でしょう。
何せ舗装はされていますし緩やかではあるものの延々と上り坂が続いており、文句のつけようのない日差しが確実に体力を削っていきます。
かなり歩いたところでようやくに見えてきた城壁を見て、やっとの思いとまだあんなに遠いのかとの思いが錯綜をしたことは言うまでもありません。

そこからさらに汗をかきつつ歩いてやっと到着をした、これが中城城です。
この中城城は沖縄に残されている城跡の中でも遺構が良好に保全をされているとのことで、もちろん建築物などはありませんが石垣や城壁は見事な美観を誇っています。
どちらかと言えば日本の城というよりは西洋の城を思わせる作りなのは、位置関係や歴史を考えれば必然なのでしょう。

城跡に入ってすぐのところに世界遺産の碑と、その全容の模型が設置をされています。
こういった配慮は旅人としてはとても嬉しいことで、他の史跡も大いに見習ってもらいたいものです。
せっかくの名所の見落としがなくなりますし、自分がどこにいるかを感じながら巡ることで味わいが大きく変わってきます。

そんな旅人をまず迎えてくれるのは、がっしりとした城壁に囲まれた裏門です。
いきなり裏門ということに違和感はあったものの、現在の道路の場所からしてそうなったのでしょう。
その感じからしておそらくはもう少し高さがあったものと思われ、時の流れとともに風化をしてしまったのだと思います。

この裏門を抜けると三の郭、そして二の郭に続きます。
日本の城で言えば三ノ丸、二ノ丸といったところだと思われますが、さほどの広さはありません。
沖縄での城の位置づけが有事の際の詰め城なのか、普段からの居住地なのかが分からないので何とも言えませんが、あまり多くの人数が居住できるだけのものではないようです。

そしてこちらが一の郭で、おそらくは本丸にあたる場所です。
発掘調査中なのか正殿跡が工事中の装いを呈しており、ちょっと残念ではありました。
当然のごとく一番高いところに位置しますので見晴らしも絶景で、しかも標高160メートルながらも雲が近くて自分がかなりの高みに達しているような錯覚に陥りそうです。

その一の郭から望む、中城湾です。
手前の柵が登ってくるときに見えた城壁にある柵ですので、その高さが分かることと思います。
まさに下々を見下ろすような感覚になりますし、権力者が高いところに城を築きたくなる気持ちが分かったような気がします。
そして人々が城を見上げることで崇拝の念を抱かせる、そういった効果もあったのでしょう。

裏門と反対側にあるのが正門で、しっかりと中城城をアピールする石碑がありましたので、かつてはこちらが正面玄関だったのかもしれません。
この正門に連なる先にホテルの廃墟があり、もし建設業者が倒産をせずにホテルが完成をしていたら中城城も今とは違った表情を見せていたことでしょう。
もっとも当初は一の郭に建築予定だったらしいので不届き千万な話であり、中城城にとっては正解な建築中止であったと思います。

中城城は6つの郭から構成をされていますが、残りが北の郭、西の郭、南の郭です。
一の郭らのように分かりやすく城壁に囲まれているわけではないのと、その城壁が失われている箇所が多いこともあり、説明板がないと気がつくのは厳しいかなと思います。
そういう意味では件の模型は非常に有効だと思いますし、あとは各々の郭の役割などの説明があれば言うことはありません。

南の郭の脇にひっそりとあったのが、この首里遥拝所です。
この先に国主である尚氏の居城の首里城があり、そちらに向かって礼拝をするための場所とのことでした。
こういった礼拝や火之神に対する信仰は本土、と言った表現が適当かどうかは微妙ですが、それに比べればかなり強いのではないかと思わされます。
これは今帰仁城でも感じたことですが、それはまた後の話です。

中城城趾のちょっと外れにあるのが伊壽留按司の墓です。
ちょっと踏み進むのに躊躇をしてしまう草の生い茂った道を進むと、岩盤をくり抜いたような石室が姿を現します。
沖縄では石室に骨壺を置くといった埋葬法が一般的なようで、町中でも亀甲墓と呼ばれるものを多く見かけました。
伊壽留按司は中城城の城主であった護佐丸の兄で、跡を継ぐのを嫌って豪農になったと言われています。

その護佐丸の墓は、中城城跡からはちょっと離れたところにあります。
係の人に地図を書いてもらって行ったのですが、地元の人もあまり行ったことがないので自慢をしていいと言われました。
幹線道路からはちょっとそれた場所にありますし、しっかりとした階段が整備をされているので危うさを感じるようなものではありませんが、上が見通せないだけにどれだけ歩けばいいかが分かりづらいので、それなりにハードルが高いことだけは確かだと思います。

こちらが護佐丸の墓で、残されているものでは一番に古い亀甲墓とのことです。
沖縄の人の名前は構成がよく分からず、尚氏などはそれでも現在と似たような感じですのでいいのですが、護佐丸ともなると手がつけられません。
家名+称号+名乗りというのが一般的らしく、先の伊壽留按司は家名が伊壽留で称号が按司なのでしょう。
護佐丸は盛春という名乗りがあり、子は盛親と名乗頭が盛である家系ですが、護佐丸が家名にあたるのか、それでは称号は何になるのかはよく分かりません。
その護佐丸は第一尚氏に仕えた名将ながらも晩年に讒言によって攻められ、抵抗をすることなく自害をしています。
そのこともあってか忠節を称えられて人気の高い武将とのことですが、最近の研究では実際に謀反を企んでいた、あるいは第一尚氏を滅ぼして第二尚氏を興した金丸が有力按司を排除するために仕組んだ謀略との説もあるようで、いずれにしても護佐丸を滅ぼしたことで一時の栄えを取り戻した第一尚氏の春はあまりに短く、その僅か11年後に滅びます。

とにかく城であろうと墓であろうと高いところに作りたがるのは旅人のわがままからすれば迷惑至極なのですが、それでも木々に浸食をされないように整備をされているだけでも有難いと思わなければならず、また護佐丸がそれだけ地元の人に愛されているという証左なのでしょう。
もし階段だけであれば酷い状態になっていたであろうことは想像に難くありませんし、その階段がなければ埋もれてしまっていたことは確実だと思います。
これだけの知名度があり、また立派な墓所が地元の人もあまり訪れたことがないというのは意外ではありますが、何はともあれ天気に恵まれたことに感謝感激です。


【2011年9月~10月 沖縄の旅】
ハジミティヤァーサイ沖縄
ハジミティヤァーサイ沖縄 旅情篇
ハジミティヤァーサイ沖縄 旅程篇
ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 首里の巻
ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 今帰仁の巻
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ハジミティヤァーサイ沖縄 おみやげ篇

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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いい写真ですね (カメラ)
2011-10-07 15:04:56
非常にいい写真ですね。
ところでオリオンさんはどのようなカメラを使っているのでしょうか?

少し気になってしまいました。
おそらくどこかに記述しているとは思うのですが・・・どうか知恵を授けていただけますか。

お願いします!
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お返事 (オリオン)
2011-10-08 00:04:52
そんな知恵と言うほどのこともない、単なるコンパクトデジカメです。
LUMIXのTZ7で2年前のモデルですから、さほど新しいものでもありません。
液晶モニターに映る画像と実際の写真がずれている(全体的に上に写る)ので、結構手間がかかります・・・
最近は平衡感覚もずれてきているような気がするので、そろそろ買い替えようかなと思う今日この頃です。
ちなみに野球の試合を撮っているのもLUMIXのFZ28で3年までのモデルですし、一眼レフを扱うテクも財力も私にはありません(笑)
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