電脳筆写『 心超臨界 』

手本は人を教える学校であり
他からは何一つ学べない
( エドマンド・バーク )

かけがえのない家族 《 楽園へのあゆみ――ユージン・スミス 》

2024-07-09 | 06-愛・家族・幸福
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
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■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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  世の中でいちばん大切なものは家族と愛
  ( ジョン・ウッドン )
  The most important thing in the world is family and love.
  ( John Wooden )


◆楽園への歩み

『ユージン 楽園への歩み』
( 土方正志、佑学社 (1993/04)、p27 )

ユージンが沖縄でうけた傷は、かなりひどいものでした。

からだじゅうにくいこんだままの砲弾の破片を取りのぞくために、なんども大手術がおこなわれました。この沖縄での負傷がもとで、ユージンは亡くなるまでに32回もの手術をうけることになります。

必死のリハビリがはじまりましたが、その成果はなかなかあらわれません。

グアム島の病院からアメリカ本土の病院へと、一年以上もつづいた入院生活をおえて、ユージンはやっと自宅にもどることができました。けれども、自宅での療養はつづきました。
(もうぼくは写真を撮れないからだになってしまったのかもしれない……。)

彼自身、カメラマンとしての将来をほとんどあきらめそうになりました。太平洋の戦地から送った写真が大きく評価され、戦後の活躍が期待されていた27歳の若きフォト・ジャーナリスト、ユージンにとって、それは大きなショックでした。

そんなユージンの絶望をすくうきっかけとなったのは、ふたりのおさない子どもたちでした。

ユージンは、日本とアメリカの戦争がはじまるまえの年の1940年、結婚していました。おかあさんと妻のカーメン、そして3人の子どもたちが病床のユージンをささえてくれました。

療養生活はともすれば絶望的になりがちです。ユージンはベッドのうえで、いつも子どもたちが庭で遊ぶのを見守っていました。やがてユージンは、ふたたび写真に挑戦してみようと気持ちをふるいたたせました。きずつくまえに撮っていた死体がころがる戦場の写真とは、まったくちがう写真が撮りたかったのです。

おかあさんとカーメン、一番うえの子どもが外出したある春のおわりに、ユージンはふたりのこどもたちといっしょに庭にでました。暖かいひざしをあびながら自分のまえを歩く子どもたちに、ユージンはカメラのレンズをむけました。

カメラをもつと、きずついた背骨に激痛がはしります。カメラのうえに、まだなおりきっていない顔の傷口から流れでたウミがしたたりおちます。くだけたあごからは、よだれが流れていました。

子どもたちが、森をぬけて明るい場所にあゆみでようとする瞬間、ユージンは痛みをこらえてシャッターを切りました。

「いい写真が撮れた」ユージンは、十分な手ごたえを感じました。

ユージンが大好きなオペラの曲のタイトルをとって、この写真は「楽園へのあゆみ」と題されました。ユージンが戦争のいたでから立ちなおる第一歩の記念すべき写真となりました。(本書表紙写真)
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