電脳筆写『 心超臨界 』

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( エドマンド・バーク )

真理のひびき 《 人生に最も注意すべきことは――中村天風 》

2024-07-09 | 03-自己・信念・努力
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[箴言十九]

人生に 最も注意すべきことは 得意の時に
一しお心の備えを 緩めぬよう心かけることである
We must be most careful in life not to be off our
mental guarding still more at the time of our best days.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p126 )

事実において、人々の多くはとかくこうした大切なことを案外軽視する傾向がある。

そして得意感を心が感得した際は、たいていの人がたちまち有頂天になって、その結果として心の備えを緩めがちである。

そして心の備えを緩めると、それから因由的(いんゆてき)に運命や健康上に、往々にして軽視することのできない破綻(はたん)をひき起すことが、事実的にすこぶる多い。

ところが、それを少しもそうかと自覚せず、むしろ当然のように思って何ら反省しない人が少なくない。

それでは、その心の備えを緩めるというのは、そもそもどんなことかというと、要言すれば心の自律的統御をおろそかにすることなのである。

これをもっとハッキリ理解するには、武道のほうでいう「残心(ざんしん)」ということを、正しく考察するのが最もよいと思う。

この「残心」という言葉は、要約すれば、闘い終えたときの心構えということを意味するのである。いいかえると武道に志す者の心の備え方に対する戒めなのである。

わかりやすくいえば、闘う前の心構えと、闘う最中の心構えと、闘い終わったときの心構えに、いささかの差別もあってはならないという戒めなのである。

すなわち、闘い終わったときも闘う最中と同様、かりそめにも安易に心を緩めるなかれということなのである。

特に勝利を克ち得たときは、特にこの心構えを厳重にすべしと戒めている。

なぜならば、誰でも勝利を得ると、勝った! という得意感=安心感が即座に心に生ずるものである。すると同時に心の備えに緩みが生じて、武道家の最も怖れる隙(すき)というものが付随して生じるからである。

この隙というのは、心理学的にいうと、「放心から生ずる有意注意力の欠如」という心理現象なので、この心理現象が精神生命の内容に発生すると、心のもつ応変可能な自在性という大切なものが萎縮される。

これもとどのつまりは精神生命内に存在する一種の報償(ほうしょう)作用なので、そうなると当然、心の働きが萎縮的になって、さらに心身相関の結果として、自然と肉体の活動も消極的な束縛を受けることになる。

すなわち、武道のほうでいう体くずれ、または構えやぶれという状態になる。要するにこの状態を隙というのである。

だから「残心」というのは、事前事後いかなる場合にも隙を作らぬよう心に備えを持てということなので、いいかえると、古諺(こげん)の訓(おし)える「終わりを慎むこと始めのごとくあれ」というのと同様のことなのである。

したがって、ここで最も正しく理解せねばならない肝要な点は、この「隙を作らぬ心=残心」の心構えとはどんな心構えなのかということである。

この心構えの実際の状態がはっきりわからないと、心の備えということが、言葉や文字で一応わかったように感じても、真実なものを実感的に心に把握することはできない。

しからば、「残心」という心構え=隙を作らぬ心構え、換言すれば隙のない心こそが本当の心の構え方だという。その状態とは、そもそもいかなる状態かというと、すなわち終始一貫同一不変の平静の心、古語にいう「一意貫之」(一つの心でこれを貫け)というのと同様の心構えである。これを禅の方では「大定心(だいじょうしん)」といい、また「独坐大雄峯(どくざだいゆうほう)」とも称している。

これをわかりやすくいえば、「大定心」というのは、どんなとき、どんなことにもいささかも動揺せぬ心、いいかえると、いかなる場合にも、怯(お)じず、怖(おそ)れず、急(いそ)がず、焦(あせ)らず、いつも淡々として極めて落ち着いている心である。これをもっと適切な状態でいえば、「何事もないときの心と同様の心の状態」である。あの古い句で有名な「湯上りの気持ちを欲しや常日頃」というのが、この心持ちを最も真実に形容表現している。

要するに、何事もないときの平静の心こそ、大定の心なりということである。

これで、「残心」というのが十分理解されたと思うが、なおよりいっそう理解を明瞭にするには、天風会発刊の「哲人哲語」という書冊の中の八十および百十三頁を読まれることを奨める。

しかしこの「残心」という心構えは、何も武道に志す者だけに対する戒めではなく、すべての人間生活に共通して必要とする心の備え方なのである。

それは何もこの消息(しょうそこ)は格別人生の深いところに想到せずとも、極めて浅いところに存在する事実で、すぐにわかることと思う。すなわち近頃の事業界にみられる現象の一つとして、昨日までさながら旭日昇天(きょくじつしょうてん)のごとき勢いを見せていた企業が、突如として急転直下的に倒産するケースがかなり多いという事実について考えてみるのがよい。

これらのことを概して経済界のフラクチュエーション(変動)と結びつけて推論したり断定したりする人が、専門の経済評論家の中にさえ相当多いようであるが、そのためであろうか、近来しきりと経営方策や企業構想の改善というような推定形成を中心とする方法で、あるいはこれを防止し、あるいはこれを処置しようとする特異な風潮が、何か現状の経済情勢に対応する最良の方法であるように考察されている傾向が顕著にある。

しかし事実は遺憾ながら、それが決して妥当な推定でもまた方法でもないことを、次から次へと倒産者の続出するという現実の事実で立証されている。

それはあたかも、政治家がいくら政策を改善し、あるいは社会機構や設備を考量工夫しても、一向に暮らしよい明朗な世の中が現顕しないのと同様で、つまりこの世の中は各人各様異なる心をもつ人の世界である以上、理論一辺ではとうてい解決するものでないからである。

要約すれば、企業界に倒産者の頻出するそもそもの主因は、仔細に観察するまでもなく、経営者およびその従業者の心に肝心な備えというものが欠如しているからであるということを往々にして発見する。

すなわち、一時的な好況に煽(あお)られてなされた高度成長に眩惑(げんわく)されて熱を上げた得意感……すなわち反省のない調子に乗った有頂天的な精神状態が、すべての悪結果を育てる温床になっているのである。

しかもこの実際傾向は、あえて企業界方面のみでなく、人生に一番大切な健康ということに対してもまた同様である。たとえばよく世間で非常に健康であった人が突然取り返しのつかない大病にかかるという実例がしばしばある。

これも要するに平素の健康に有頂天になっていたわけで、暴飲暴食、その他無軌道的無節制に何の反省もない、すなわち心の備えのない無準備無自覚の生活であえて活きていたからである。

要言すると、この種の人の心をとくと検討すると、平素の人生生活に活きる際、心の備えどころか、心の状態をその時その時によって、猫の目のように変異させてしまって、極言すれば、心というものを天風教義で厳戒している感情や感覚の奴隷にあえてしている。そしてその結果、心は絶えず安定を欠いて動揺の状態にある。

これでは結局、生命の確保と運営の中枢に相当する何よりも大切な神経系統のボルテージが低調になるから、いくら生まれつき健康な人間でも、ある時期が来ると急激に健康状態に変調をきたすのは当然である。

こういうことがあるから、私は常に「完全なる人生」に活きるには、まずその先決問題として心の態度を積極的に堅持せよと力説し、その作成要諦の中に、有事無事若無心ということ、すなわち執着なき心を平常心として、人事世事一切の人生に対応していくべきであることを講述しているのである。

要するにこの平常心をもって人生に処すれば、得意のときにもまたそうでないときにおいても、心に高低する波動的変動が来ないから、あえて特に意識的に用意しないでも、極めて容易にそのままの心で「残心」の要訣と同様の、心の備えに緩みのない理想的な心の態度が現実化しうる。

すなわち、皆さんの多くがご存知の私の愛誦詩句である、あの六然訓言(りくぜんくんげん)の中にある「得意淡然、失意泰然」という心的態度が、特別な努力を要せずして実行できる。

これはせんじつめれば、波動のない平常心には、当然の相対比例として心の態度に何ら著しい落差が生じないからである。

英語の名言集の中に、

“You had better prepared to be happy when you are blue.”
(不幸なときこそ幸せそうに振る舞え)

というのがあるが、これも、特に失意のとき、心に落差を作り出さないということである。いいかえれば心をつとめて無波動的にして、それを平常心とせよという言外の意味のある言葉と考えてよいと思う。ただ問題なのは、普通の人はわれわれ天風会員のように、意のままにならない場合にも如意境(にょいきょう)にあるときと同様の心に、その心を振り替える観念要素の更改法や積極観念の養成法、さらに神経反射の調節法といったものを十分に理解していないから、文句やその言い回しには相当のエクスタシーを感じるかもしれないが、思うになかなか心の状態を変えられぬという悩みを感じているであろうと推測する。

しかしこうした実際問題を考慮すると、お互い天風会員は心の操縦法を会得して居るので本当に幸福だと思わざるをえない。

されば心をより更に、より新たにして、現実にこの箴言を実践することにしよう。

悪い習慣をつけぬようにすることは、悪習慣を破るよりやさしい。


〈参考〉

  私の揮毫(きごう)する六然誦句(りくぜんしょうく)について

私が下の、

  自処超然 処人藹然(あいぜん)
  無事澄然 有事斬然(ざんぜん)
  得意淡然 失意泰然

という六然訓を好んで揮毫することは、修練会を行修した皆さんならよくご存知だと思うが、この誦句は誰あろう、かつて日露戦役のときの有名な日本海の海戦の折、大胆にも海戦に最も危険率が多いといわれる敵艦との対角戦闘法を強行して、なおかつ完全なる大勝利を上げ、がぜん東洋のネルソンという英名を一挙に克ち得た名提督東郷元帥の愛誦句なのである。

詳しくいうと、頃は大正の十年の初夏であった。ある日私が頭山満(とうやまみつる)恩師と当時第一高等学校の名学生監であった谷山初七郎氏の来訪に際し、いわれるままに揮毫していたときのことである。前述の東郷元帥が、私の大先輩である杉浦重剛翁とともどもに来宅されて、そのとき私がかつて中国革命の大志士で誰でも知っている孫逸仙大人から示教された次のような六然誦句、

  超然任天      悠然楽道
  靉然(あいぜん)接人 毅然持節
  厳然自粛      泰然処難

 (超然として天に任せ 悠然として道を楽しむ
  靉然として人に接し 毅然として節を持(じ)す
  厳然として自らを粛(つつし)み 泰然として難に処(おもむ)く)

というのを揮毫しておったのを見て、自分も別の六然誦句を存知して愛誦しているといわれて示されたのが最初に掲記した詩句なのである。

今ここに、たまたま六然誦句を引用した記述をして無量の感慨にひたって、当時を回顧してこの記事を補綴(ほてい)した次第である。


★関連ブログ
「六然訓」を知って以来、少しでもそういう境地に身心を置きたいものと考えた――安岡正篤師
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