電脳筆写『 心超臨界 』

あなたはこの世で
自らの能力を使用できるただひとりの人
( ジグ・ジグラー )

セレンディビティの予感 《 なぜ、日本に「アヘン戦争」は起きなかったか――渡部昇一 》

2024-06-22 | 04-歴史・文化・社会
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


日本でも、幕末に武士が、無礼を働いたと思う外人を斬り殺したり(1862年の生麦事件など)、馬関(ばかん)戦争(1863年、長州藩 vs. 仏英米蘭四国連合)や薩英戦争(同年、薩摩藩 vs. 英艦隊)があった。しかし、それはいずれも、きわめて小規模なものであり、かつ、きわめて短期間に終わった。そして、徳川幕府の締結した国際条約を明治政府が受け継ぎ、外人の治外法権や、関税自主権喪失のような不平等条約をも誠実に履行しつつ、漸次国力を蓄え、国制を整備し、半世紀以上もかけて欧米との対等の外交関係を樹立するに至った。


◆なぜ、日本に「アヘン戦争」は起きなかったか

『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p257 )

この例を挙げたのは、20世紀のはじめの中国大陸の状況は、清国正規軍 vs. 各国公使館の武力戦闘が起こるほど非文明的だったことを示したかったからである。今の中国――あるいはどこの発展途上国でも同じことだが――を念頭において20世紀前半の中国を考えるわけにはいかない。

日本でも、幕末に武士が、無礼を働いたと思う外人を斬り殺したり(1862年の生麦事件など)、馬関(ばかん)戦争(1863年、長州藩 vs. 仏英米蘭四国連合)や薩英戦争(同年、薩摩藩 vs. 英艦隊)があった。

しかし、それはいずれも、きわめて小規模なものであり、かつ、きわめて短期間に終わった。そして、徳川幕府の締結した国際条約を明治政府が受け継ぎ、外人の治外法権や、関税自主権喪失のような不平等条約をも誠実に履行しつつ、漸次国力を蓄え、国制を整備し、半世紀以上もかけて欧米との対等の外交関係を樹立するに至った。

ところが中国は、アヘン戦争以来、100年間も諸外国と条約を結んでは、それを守らず、武力衝突の繰り返しを続けたのである。

比較のために、日本の一例を挙げてみよう。

生麦村のあたりで島津久光(しまづひさみつ)の行列を犯したという理由で、薩摩藩士がイギリス人を斬るという生麦事件が文久2年(1862)の夏に起こった。

この時に死亡したイギリス人は1人、負傷者2人である。しかも、落度は、日米の慣習をまったく無視したイギリス人にあった。それにもかかわらず、イギリスは幕府に正式の謝罪と10万ポンドの賠償金を、薩摩藩には責任者の処刑と2万5000ポンドの賠償金を要求した。

幕府は10万ポンド払ったが、薩摩藩は拒否したため、イギリスは軍艦7隻を鹿児島湾に派遣して、いわゆる薩英戦争になったのである。

結局、薩摩も2万5000ポンドを幕府から借りて支払い、責任者処罰のほうは、探し続けて見つけしだい処罰するという形で、うやむやにした。

しかし、この事件の際の、幕府に対するイギリスやその他のヨーロッパ諸国の圧力はひどいものだった。横浜に停泊中のイギリス、オランダ、フランスなどの軍艦8隻の武装水兵が島津久光の宿泊所を襲うという計画さえ実行されかかったほどである。

これはイギリス側の良識で収まったが、幕府や薩摩藩に対する賠償要求は苛烈なものであった。しかもそれを実行しなければ、日本の船を拿捕し、日本の港湾を封鎖し、イギリスとフランスは共同して横浜を自分たちで防衛する体制を作る、などなどすごい脅しをかけたのである。幕府は屈し、薩摩も抵抗の後、町を焼かれ、結局は賠償金を払った。
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