電脳筆写『 心超臨界 』

人間は環境の産物ではない
環境が人間の産物なのである
( ベンジャミン・ディズレーリ )

師玉木文之進のみごとさを生涯の誇りにする――吉田松陰

2024-05-11 | 03-自己・信念・努力
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どの藩でもそうであったが、民政機関には賄賂(わいろ)や供応がつきもので、とくに下部の腐敗がはなはだしかった。当然文之進の性格からすれば、それを激しく悪(にく)みはしたが、しかしそれらの患部を剔(えぐ)りとるという手荒なことはせず、みずから清廉(せいれん)を守り、かれらが自然とその貪婪(どんらん)のわるいことをさとるようにしむけた。松陰の文章を借りれば「自然と貪の恥づべきを悟る如くに教訓するのみ」。


『世に棲む日日(一)』
( 司馬遼太郎、文春文庫、p29 )

この稿での松陰は、なお少年である。

この少年と深いかかわりをもった玉木文之進について、いますこし触れておきたい。

村を出て官についた文之進は、しだいに民政家として藩にみとめられ、やがて数郡を宰領(さいりょう)する地方官になり、のちさらに抜擢(ばってき)されて藩の重役になる。

その吉田代官のころのことを、松陰はのちに「吉日録」に書きとめている。

文之進が代官として赴任した厚狭(あさ)郡吉田(良田)郷という土地は、藩内でも貧窮地帯として知られていたが、代々熱心な行政者を得なかったためにその実情はほとんど藩庁に知られていない。文之進は貧農の実情調査からはじめた。

その台帳をつくり、一軒ごとかれ自身が出むいて行って調査をした。大庄屋(おおじょうや)や本村(ほんそん)庄屋といった直接の行政者をひきつれ、いちいち家をたずね、土間に入り、その家族の顔を見、主人からその貧状を聞き、ときにはあまりの貧しさにぼう然とし、その不幸ばなしに涙をこぼした。従っている庄屋が、この代官の異例のふるまいに最初はあきれたが、しだいに推服するようになり、貧民の救恤(きゅうじゅつ)をわすれていた自分たちの怠慢をわびた。文之進は、べつに叱らなかった。

叱らないといえば、文之進はいっさい下僚(かりょう)を叱ったり攻撃したりしたことがない。どの藩でもそうであったが、民政機関には賄賂(わいろ)や供応がつきもので、とくに下部の腐敗がはなはだしかった。当然文之進の性格からすれば、それを激しく悪(にく)みはしたが、しかしそれらの患部を剔(えぐ)りとるという手荒なことはせず、みずから清廉(せいれん)を守り、かれらが自然とその貪婪(どんらん)のわるいことをさとるようにしむけた。松陰の文章を借りれば「自然と貪の恥づべきを悟る如くに教訓するのみ」。文之進は、子弟を育てるについては苛烈きわまりない教育者であったが、民政家として民にのぞむや、別人のように優(やさ)しい人物であったことを、松陰はこの師のみごとさとして生涯の誇りにした。

「百術不如一清(ひゃくじゅついっせいにしかず)」

というのが、ながい藩役人生活における文之進の座右の銘であり、そのことばを印に刻(ほ)ってつねに使った。行政上のテクニックなどは行政者の一清に如(し)かない、と信じたこの人物は、維新後は中央政府に仕えなかった。

維新前、親戚の乃木(のぎ)家の嫡子(ちゃくし)希典(まれすけ)をあずかり、教育した。このときも苛烈きわまりない教育をした。その希典の弟正誼(まさよし)を乃木家からもらって養子にし、さらにこれにも同様な教育をほどこした。

その養子正誼が、明治9年前原一誠(まえばらいっせい)の反乱にくみし、非業(ひごう)にたおれた。どうやら文之進は内々この乱に関係していたような形跡があるが、しかし表むきは、

「こういう反乱の徒を出したのはわが教育の罪である」

とし、明治9年11月6日、先祖の墓のある山にのぼり、自害した。
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