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「近代東アジア国際関係の源流」
東京大学准教授・川島真
[1] 華夷秩序と冊封・朝貢
[2] 明治日本と清の力関係
[3] 最初の歴史教科書問題
[4] 記念碑の記憶
[5] 日中の軍事交流の歴史
[6] 多元的な空間を一元化
[7] 外国語を話す中国人
[8] 国際連盟での日中関係
[9] 歴史力が国の礎に
[10] 連続性の観点 重要に
「近代東アジア国際関係の源流」――[6] 多元的な空間を一元化
【 やさしい経済学 09.10.29日経新聞(朝刊)】
昨今、東アジアでは人的往来が活発になり、外国人の権利義務をめぐる議論が活発に行われている。このような現象は極めて現代的な現象に思われがちだが、戦前日中間の往来に原則としてパスポートは不要で、往来は大変活発だった。文学作品でも夏目漱石や芥川龍之介などが中国物を著すなど、新聞や雑誌をはじめとするメディアのなかでの中国関連情報は比較的日常的なものだった。
それに対して、江戸時代、近世の東アジアではヒトの移動は比較的厳格に管理されていた。自由な海外渡航は認められず、もし間違って他国に漂流しても、彼らを本国に送還させるシステムができあがっていた。
東アジア内部のヒトの往来については、商人と留学生が数多くの研究者によって研究されている。商業研究では、江戸から明治にかけて東アジアに展開した長崎や函館の中国系商人の海産物貿易などの研究がある。開港後、中国の食卓に欠かせない日本の海産物が中国系商人により、直接中国に運ばれたのだ。こうした中国系商人からの自立もまた明治日本の通商政策が課題であった。だが、清の側は日本人商人が国土に入りこむことを嫌った。風貌(ふうぼう)の似ている日本人が、開港場を越えて内地に入ることを危険だと考えたのである。内地に入り込めるようになったのは、下関条約以後のことである。
その下関条約で日本人は治外法権を中国で享受したが、中国人にとっても、日本人にとっても、20世紀前半の東アジアは極めて複雑な法的空間であった。中国では中国人であっても租界や租借地に入れば、中国の司法権から一定程度逃れられた。また、台湾の人々は日本籍を獲得して、日本臣民とほぼ同様の特権を中国で享受できた。そのほか、外国籍を取得した中国人もいた。属人的、属地的に多元的な法空間があったのである。これは植民地などをもつ日本側もそうだった。
このような複雑な法体系が折り畳まれ、国ごとに一元化されるのは戦後のことである。複雑な法制度や空間を早急に一枚紙に折り畳んだため、様々な無理があったようである。中国側では外国人の諸権利や財産を革命の名の下に接収、撤廃した。日本では戦前の預金の保証や軍人恩給などといった、戦後補償についても日本「国民」に限定され、かつての植民地の人々は「外国人」だとして除外された。かつての植民地の人々や外国人の財産や権利義務の問題がそこに生まれた。この歴史的遺産の克服が現代社会に課せられている。
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「近代東アジア国際関係の源流」
東京大学准教授・川島真
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[2] 明治日本と清の力関係
[3] 最初の歴史教科書問題
[4] 記念碑の記憶
[5] 日中の軍事交流の歴史
[6] 多元的な空間を一元化
[7] 外国語を話す中国人
[8] 国際連盟での日中関係
[9] 歴史力が国の礎に
[10] 連続性の観点 重要に
「近代東アジア国際関係の源流」――[6] 多元的な空間を一元化
【 やさしい経済学 09.10.29日経新聞(朝刊)】
昨今、東アジアでは人的往来が活発になり、外国人の権利義務をめぐる議論が活発に行われている。このような現象は極めて現代的な現象に思われがちだが、戦前日中間の往来に原則としてパスポートは不要で、往来は大変活発だった。文学作品でも夏目漱石や芥川龍之介などが中国物を著すなど、新聞や雑誌をはじめとするメディアのなかでの中国関連情報は比較的日常的なものだった。
それに対して、江戸時代、近世の東アジアではヒトの移動は比較的厳格に管理されていた。自由な海外渡航は認められず、もし間違って他国に漂流しても、彼らを本国に送還させるシステムができあがっていた。
東アジア内部のヒトの往来については、商人と留学生が数多くの研究者によって研究されている。商業研究では、江戸から明治にかけて東アジアに展開した長崎や函館の中国系商人の海産物貿易などの研究がある。開港後、中国の食卓に欠かせない日本の海産物が中国系商人により、直接中国に運ばれたのだ。こうした中国系商人からの自立もまた明治日本の通商政策が課題であった。だが、清の側は日本人商人が国土に入りこむことを嫌った。風貌(ふうぼう)の似ている日本人が、開港場を越えて内地に入ることを危険だと考えたのである。内地に入り込めるようになったのは、下関条約以後のことである。
その下関条約で日本人は治外法権を中国で享受したが、中国人にとっても、日本人にとっても、20世紀前半の東アジアは極めて複雑な法的空間であった。中国では中国人であっても租界や租借地に入れば、中国の司法権から一定程度逃れられた。また、台湾の人々は日本籍を獲得して、日本臣民とほぼ同様の特権を中国で享受できた。そのほか、外国籍を取得した中国人もいた。属人的、属地的に多元的な法空間があったのである。これは植民地などをもつ日本側もそうだった。
このような複雑な法体系が折り畳まれ、国ごとに一元化されるのは戦後のことである。複雑な法制度や空間を早急に一枚紙に折り畳んだため、様々な無理があったようである。中国側では外国人の諸権利や財産を革命の名の下に接収、撤廃した。日本では戦前の預金の保証や軍人恩給などといった、戦後補償についても日本「国民」に限定され、かつての植民地の人々は「外国人」だとして除外された。かつての植民地の人々や外国人の財産や権利義務の問題がそこに生まれた。この歴史的遺産の克服が現代社会に課せられている。
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