電脳筆写『 心超臨界 』

人の心はいかなる限界にも閉じ込められるものではない
( ゲーテ )

国際組織での中国外交もまた昨今の研究対象の一つである――川島真さん

2009-11-03 | 04-歴史・文化・社会
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 「近代東アジア国際関係の源流」
 東京大学准教授・川島真

  [1] 華夷秩序と冊封・朝貢
  [2] 明治日本と清の力関係
  [3] 最初の歴史教科書問題
  [4] 記念碑の記憶
  [5] 日中の軍事交流の歴史
  [6] 多元的な空間を一元化
  [7] 外国語を話す中国人
  [8] 国際連盟での日中関係
  [9] 歴史力が国の礎に
  [10] 連続性の観点 重要に


「近代東アジア国際関係の源流」――[8] 国際連盟での日中間界
【 やさしい経済学 09.11.02日経新聞(朝刊)】

中国は第2次大戦に参戦することで4大国の一員と見なされ、国際連合の安全保障理事会常任理事国となった。中国から見れば、このイスは積年の目標である国際的地位の向上の、また主要戦勝国としての象徴である。

国際組織での中国外交もまた昨今の研究対象の一つである。1899年と1907年に開催された国際連盟の前身ともいえるハーグ平和会議、そして国際連盟も注目されている。戦前期の連盟では日本が常任理事国で中国は非常任理事国に毎回立候補した。1920年代半ば、ドイツの常任理事国としての加盟にともなう、理事会の組織改革に際して、中国は常任理事国枠の拡大を主張し、自らが常任理事国になるべく働きかけた。結果は芳しくなかったが、日本はこれには反対していない。

当時の国際組織では人口比に基づいた経費分担金が定められる傾向にあった。そのため、5億の人口を抱える中国には多くの負担が課せられたが、戦前期には人口の多い国こそ大国といった人口観が依然強い影響力をもち、多額の負担が国家の威信を示すとも考えられていた。もっとも、財政破綻寸前の中華民国政府に余力はなく、滞納するのが常だった。

北伐を成功させた蒋介石の南京国民政府は、国際連盟との関係をいっそう緊密なものとした。中国は連盟と協力して、国内の衛生建設(衛星体制の構築)やアヘン禁止運動を展開したのである。1930年代初頭には連盟の幹部が続々と中国入りし、協定に基づいた国家建設が進められた。昨今、当時の連盟の国際協力事業が改めて注目されているが、中国はその主要な実験場でもあったのである。

1931年に満州事変が起きた時、南京の国民政府には国際連盟の幹部がおり、ジュネーブでは中国は非常任理事国として連盟理事会に直接的な抗議活動を展開してきた。日本が連盟を脱退した後も、中国と連盟の協力事業は継続した。国際連盟という場での外交戦によって中国は自らを日本に対して有利な立場に置くことができていた。

国際連盟で中国外交を支えたのは顧維鈞や施肇基、王寵恵とった英語を話す近代的ナショナリズムだった。第2次世界大戦中に国際連合の組織が決まると、中国はその呼びかけ国になり、安保理常任理事国のイスを手に入れた。顧維鈞らは国連の諸制度策定に加わり、加盟国の選定では、戦争中に日本を支持したり、満州国を承認した南米の国の国連加盟に反対するなどした。日本の国連加盟は1956年のことである。

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