電脳筆写『 心超臨界 』

幸せは外部の条件によって左右されるものではない
自分の心の持ちようによって決まるのである
( デール・カーネギー )

たとえ負けてわれわれが滅んでも祖国を護る精神が残る――永野修身・海軍軍令部総長

2024-08-05 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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いま私の手元に、「新しい歴史教科書を作る会」が発行した小冊子「大人が知らない――こどもの教科書 その① 中学校歴史編」があります。その冒頭のことばを紹介します。

●「日本がきらいになった」、「日本人に生まれてはずかしい」このような言葉が、学校で歴史の勉強をした子供たちの口から聞かれます。「おじいちゃんたちは人殺しだ」という子供もいます。

●学校で歴史の勉強をすると、自分の国を尊敬することができなくなり、自分のおじいちゃんたちを好きになることができなくなってしまうのです。

●日本の過去は真っ暗で、日本人はいつまでも周(まわ)りの国に対して謝(あやま)り続けなければならない――戦後の日本では、そういった歴史教育が行われてきました。これでは健全な子供が育つはずがありません。

●(後略)

こうした教科書の実情を憂える前野徹さんは、日本の子どもたちのために「凛の国」を書きました。下の引用は、日本が大東亜戦争突入に追いこまれる経緯を述べた件(くだり)です。


◆たとえ負けてわれわれが滅んでも祖国を護る精神が残る

『凛の国』
( 前野 徹、青春出版社 (2004/8/1)、p107 )

日本が満州国を誕生させた1932年、米大統領に就任したフランクリン・ルーズベルト(日露戦争の仲介をしたセオドアの甥(おい))は激しい人種差別主義者で知られており、とりわけ日本人は大嫌いでした。

彼も蒋介石を利用して日本を叩きつぶそうと考えたのでした。アメリカはイギリスと手を組んで、当時、フランス領だったインドネシア半島経由で、蒋介石軍に武器弾薬や食糧を援助しました。日本と中国国民党が泥沼の戦いになれば、中国での利権獲得も簡単になります。

さらに1940年になると、アメリカの空軍200人を蒋介石軍に派遣しました。これはとんでもない国際法違反です。宣戦布告もなしに、日本との戦闘に参戦したのですから。当時、日本とアメリカは中立条約を結んでいたので、重大な国際条約違反でもあります。

同時にアメリカは日本への締めつけも始めました。39(昭和14)年、日米通商航海条約の破棄を一方的に通告し、40(昭和15)年に条約は効力を失いました。

日本政府はたまらず、インドシナ半島を支配していたフランスと協定を結び、米英の支援ルートを断ち切ろうとしました。しかし、この時点でも日本はアメリカと戦おうなどという気はなかったのです。物資の豊富なアメリカと戦っても1年ももたないとわかっていたからです。

にもかかわらず、アメリカはイギリス、中国、オランダと交渉し、共同戦線を張って日本を経済的に封鎖しようとします。これを各国の頭文字をとってABCD包囲網といいます。Aはアメリカ、Bはイギリス=ブリティッシュ、Cは中国=チャイナ、Dはオランダ=ダッチです。日本はアメリカのABCD包囲網に対抗するために、ドイツ、イタリア、と日独伊三国同盟を結びます。

そして翌41年には、米英の中国支援ルートを断ち切ろうとインドシナ半島に出兵しました。この日本の動きにアメリカは日本への石油の全面輸出禁止を実施します。当時、日本は石油の99パーセントを輸入に頼っており、そのほとんどがアメリカと蘭領東インド(現インドネシアでした。石油が入ってこなくなると、軍艦も自動車も動きません。工業もストップしてしまい、国が成り立ちません。アメリカと戦争するしか道は残されていませんでした。

とはいえ、できれば外交によって戦争は避けたい、というのが日本の本音でした。対米戦争をするかどうかを決める御前会議で、昭和天皇は、和歌を詠(よ)まれました。

よもの海みなはらからと思う世に
         など波風のたちさわぐらむ

世界中の人々はみんな兄弟だと思っているのに、どうして争うのだろうか――という和歌に託して、平和的な解決を望まれたのでした。そこで日本政府は最後の外交努力を一生懸命行いました。しかし、アメリカから突きつけられた要求は、とても日本がのめる内容ではありませんでした。

中国からの全面撤退、日独伊三国同盟の即時破棄など激しい要求が並べられていたからです。このアメリカからの要求書はアメリカの当時の国務長官の名をとって「ハル・ノート」と呼ばれています。

ハル・ノートは日本へのアメリカの最後通牒(つうちょう)でした。どうだ、のめないだろう、だったら戦争を仕掛けてこいという……。

日本の指導者たちは悲痛な覚悟で戦争を決意します。御前会議で発言した永野修身(おさみ)海軍軍令部総長の言葉が当時の指導者たちの苦しい胸の内をよく表しています。永野総長の発言は次のような趣旨でした。

「戦わなくても国は滅びる、戦っても国は滅びるのなら戦おう。戦わなくて滅びれば、身も心も民族永遠の亡国だが、戦って国を護る精神に徹すれば、たとえ負けてわれわれが滅んでも祖国を護る精神が残り、子孫がこの国を再建してくれるだろう」

1941(昭和16)年12月8日、かくして日本は真珠湾を攻撃、大東亜戦争に突入しました。
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