電脳筆写『 心超臨界 』

自然は前進と発展において留まるところを知らず
怠惰なものたちすべてにののしりを発する
( ゲーテ )

真理のひびき 《 人生は侭ならぬものと正しく自覚する時――中村天風 》

2024-06-30 | 03-自己・信念・努力
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   [箴言二十二]

   人生は侭(まま)ならぬものと 正しく自覚する時
   不自由や 不満というものを 少しも苦悶で感じなくなる
   If we rightly take life is such a world as we cannot have it our own
   way, restraint or dissatisfaction will not bring on an agony in the least.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p200 )

およそ人間の苦労というものを仔細(しさい)に検討すると、それは概ね自分の思うこと、考えること、なかんずく欲求することが、自己の思うようにならぬ場合の心のもつれから生ずる心理現象である。

しかし、考えてみよう!

お互い人間が、もしもこの世が己(おのれ)の思い通りになる世界だとしたら、いったいどうであろうか? ということを。

平素人生というものを深く省察したことのない人は、あるいはそうなったら、さぞや人生というものは、なんと幸福なものになるであろう! と思われるかもしれない。

けれど、それが果たして幸福なものであろうか?

私はあえていう。

それは決して幸福なものではありえないと。多くいうまでもなく一切の事物の判断は理論推定よりも、一番確実な「論より証拠」に依存すべきである。

西哲の言葉にも、

「事実は常に無言の雄弁をもって、最後の立証者として、厳然としてその威力を発揮する!」

というのがある。まったくその通りで、広いこの世の中には、思うこと願うことが満ち足りていて、いわゆる幸福だと思えるような人もいないことはない。

しかし、その人々は、客観的に考えられるほど、果たして絶大の幸福感を日々に心に感じて、愉(たの)しい生活を送っているだろうか? 否である! というのは、その人々が、その現在に限りなく感謝満足して、その心の中に、何らの要望も欲求ももたないのなら、それはたしかに幸福であろう。しかし少しでも現在の状態に満足を感じないで、新しい要望や欲求が、心の中に生ずるとしたら、どうであろう?

英国の諺に、

「金持ちほど欲が深い」

というのがある。

この諺は、容易に今まで述べたような消息(しょうそこ)を喝破したものであると思う。

というのも、人間の心の中に生ずる欲望という心理作用は、金持ちであろうとなかろうと、常に次から次へと新規なものを考え出して止(や)むところがないものである。そしてその上に欲求心というものは、満たされても満たされても止まるところなく、際限なく発動するものなのである。

昔の道歌に、

「おもうこと一つかなえばまた二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や」

といのうがあるが、この歌こそ、遺憾なく人間の欲望に対する心理現象を徹底的に批判したものといえる。

だから、しかもその欲望するものがたとえ思いのままに与えられても、欲望心の発動は、断然一点一ヵ所にストップしていないのである。すなわち絶え間なく連続する。

そして、その欲望が満たされようと満たされまいと、いずれにしても、この心理現象の連鎖的反応というもので、絶えず形の変わった苦しみというものが次から次へと心の中に発生して、結局心の平安が乱される。

しかも、こういう状態というものは、人間の精神態度が更改されない限り、換言すると心の持ち方が切り替えられない限りは、いかなる時代が来ようとも、かつまたいかなる身分境遇になろうとも、いつまでも手を変え品を変えて人間を苦労させる。

英国の諺に、“It always has been and it always will be.”(今までそうであれば、これから先もそうである)

というのがあるが、けだしこの言葉は人間の精神態度そのものが更改されない場合の、対人生現実批判に当てはめられると思う。

しかしいずれにせよ、人生かくのごとく常に心の中に何かなしの鬱勃(うつぼつ)たるものをもって活きていたのでは、どんな地位栄誉をかち得ても、またどんな富を獲得しても、ほんとうの活きがいのある価値高い人生は味わえない。

活きがいのない無価値の人生に活きたのでは、人生まったく無意味になり終わる。

無意味の人生とは酔生夢死(すいせいむし)のことである。考えるべしである!

今さらいうまでもなく、人生はただ一回である。

である以上、何としても活きがいのある価値高い人生に活きねばならない。

しかも活きがいのある価値高い人生に活きるには、すべてにおいて何をおいても、心の平安を確保することである。

そして、心の平安を確保するには常に注意深く天風教義の強調する積極的精神の現実涵養(かんよう)である。

ところが、一般世間の人々は、心の平安を確保するのに、常にその条件を外界に求めるために、いつも失敗の苦汁を舐めさせられている。

すなわち、心の平安を確保する条件は、外因にはなくて内因にあるのである。

やさしくいえば、心一つの置きどころという事実こそ、その内容として重視すべき先天的条件なのである。

であるから、その内因を確実なものにするためには、まず第一に、前掲の箴言の通りに、人生はままならぬものというのが、侵すべからざる人の世の常則であると正しく自覚することである。

そうすればこの尊い自覚は、直ちに心の本善と相呼応して、それまでしきりに不自由や不満という心理作用のために苦悶させられていた悪現象が、自然と心の中から雲散霧消され、万が一己(おのれ)の心の欲求するものが満たされないときでもいささかも心を苦しめず、ただ現在あるそのもので満足するという階級の高い心的状態になりえる。

そして、いつも颯爽として、貪欲の炎に、心が苦しめられなくなる。

要約すれば、かくして初めて不滅照心(ふめつしょうしん)の真人としての真の本領が発揮され、期せずしてほんとうの幸福感に包まれた人生に、日々愉々快々として活きることができるのである。

すなわち、これがこの箴言のプリンシプルなのである。
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