電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意すると決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

用意ができたとき師が現われる 《 「破戒」のチケット――小田島雄志 》

2024-09-16 | 03-自己・信念・努力
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禅の中に、「用意ができたときに師は現われる」という教えがあります。自分に準備がなければ、すべては無意味な存在でしかないということです。意志が生まれたとき、手をさしのべる師は現われる。師はいたる所にいる。ふと目にした新聞の記事や子供の質問に答えた自分の言葉であることもある。「師はどのように現われるのか?」との質問への答えは、「これがそうだ」という以外にない。たとえば死にかけた虫を見て、自分の中に同情心がかき立てられた瞬間に、師が出現したことになるのである。


旧満州(現中国東北部)に生まれ育ち、中学3年で終戦。翌年引き揚げてきて、都立大森中学(旧制)に編入学。5年で卒業を控えたある日、浅野時一郎校長(のちに『私の築地小劇場』正続2巻を上梓(じょうし)された芝居好き)が朝礼のときに、「今、藤村の『破戒』を芝居でやっているから見るといい。金のないやつはおれがポケットマネーで半分出してやる」とおっしゃった。素直な生徒だったぼくは、早速校長室に行って申し込んだ。級友十数人と一緒に見たが、校長に半額出してもらったのはどうやらぼくだけだったらしい。


◆「破戒」のチケット

[1] 民衆芸術劇場「破戒」のチケット――この日の感動が今のぼくを
  東京大学名誉教授・小田島雄志
(「こころの玉手箱」08.09.29日経新聞(夕刊))

そう、この一枚の切符から始まった。芝居らしい芝居を初めて見たこの日の感動を忘れることができず、見られる舞台はなんでも見てやろうという歳月をかさねてきて、今では毎月三十本以上、劇場に通うシアターゴーアーになってしまったのである。

旧満州(現中国東北部)に生まれ育ち、中学3年で終戦。翌年引き揚げてきて、都立大森中学(旧制)に編入学。5年で卒業を控えたある日、浅野時一郎校長(のちに『私の築地小劇場』正続2巻を上梓(じょうし)された芝居好き)が朝礼のときに、「今、藤村の『破戒』を芝居でやっているから見るといい。金のないやつはおれがポケットマネーで半分出してやる」とおっしゃった。素直な生徒だったぼくは、早速校長室に行って申し込んだ。級友十数人と一緒に見たが、校長に半額出してもらったのはどうやらぼくだけだったらしい。

1948年1月22日(木)晴、の日記は、「感激、感激! 感激!!」から始まる。民衆芸術劇場(第一次民芸)第1回公演の『破戒』(村山知義脚色、村山・岡倉士朗共同演出)のキャストは、宇野重吉の丑松、滝沢修の猪子蓮太郎、薄田研二の風間敬之進、山口淑子のお志保など。劇場は日比谷の有楽座。

見る者の胸に飛び込んで揺さぶるような彼らの演技に、いったん涙が頬(ほお)を伝い始めるともうどうしても止まらなくなった。帰ってから日記帳にしていた大学ノート3ページ半に、やたら感激のことばを書きつらねたときも、まだ泣いていたような気がする。

このときのぼくは、人を愛すること、師を信じること、自分に正直に対することなどを、「美しい」行為と感じていた。それは、活字ではなく、肉体・肉声を通して直接心にひびく感動をあらわす形容詞を、ほかに思いつかなかったせいだろう。

だいぶあとになって、宇野重吉さんと飲んで、つい余計なことを言ってご機嫌を損じたなと思うと、ぼくは「あの丑松のころの宇野さんでハムレットを見たかったな」と言うことにしていた。するとたちまち笑顔を戻してくれたのである。山口淑子さんに初めてお会いしたとき、あのお志保はすばらしかった、と申しあげると、「あら、私、新聞ではたたかれたのよ」と苦笑されたが、そんなけしからん劇評家もいたのか。
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