電脳筆写『 心超臨界 』

偶然は用意の出来ている人間しか助けない
( ルイ・パスツール )

真理のひびき 《 どんな場合にも慌てない人となるには――中村天風 》

2024-07-24 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


   [箴言二十一]

   どんな場合にも 慌てない人となるには
   平素の言動を 出来るだけ 落ちついて行う様
   心がけるべきである
   In order that we may not be disconcerted in any event, we should try
   to be as self-possessed as possible in our speech and behavior at
   ordinary time


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p190 )

多くいうまでもなく、人間というものは男女の別なく、いかなる場合にもその人生に活きる際、慌ててはいけないのである。

というのは、人生に生ずる錯誤や過失というものは、その原因が、心が慌てたときに多いからである。

慌てるというのは、またの名を周章狼狽(しょうしょうろうばい)というが、これは心がその刹那放心状態に陥って、行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである。

心がこうした状態に陥った時というものは、意識は概ね不完全意識になっているのである。

いいかえると、心があってもなきに等しい状態になるのである。

だから、さまざまの過失や錯誤が生ずるのも当然である。

そしてそういう心になると、時には笑えない滑稽ともいうべきミステークさえ行うのである。

たとえば、手にもっているのを忘れてその物品を紛失したと早合点して、大騒ぎして捜すなどという、常識ではとうてい考えられない珍芸さえ演出するのである。

現に、ある人がタクシーから降りるとき、大切な書類が入れてある手提げを車の中に忘れて下車したと思い、幸いそのタクシーの会社名を記憶していたので、また再び他のタクシーで急いでその会社の車庫に乗りつけ、担当事務員に息せき切って、その種類は命より大切なものであるという事情を詳しく話し、ただしその手提げには他に類似のない特徴がある、その手提げの表面のところにおおきくZとHというローマ字が白い色で書いてあるからすぐにわかると説明した。するとその事務員が怪訝な面持ちで、その手提げというのはあなたがそこに持っているのと同様な品なんですか? というと、ハッと手にしていた手提げを見るや、「アッ! これだこれだ! でもおかしいなあ? たしかに車の中に忘れたと思ったのに……それがどうして今自分の手に持っているのかしらッ?」とさもさも不思議そうにいうので、「あなたは来られた時からそれを持っておられました」というと、とてもきまり悪げに小首を何度もかしげながら、「どうもおかしい? 不思議だ」と何度もくり返しいいながら、よっぽどばつが悪かったとみえてロクに挨拶もしないで、まるで狐につままれたように、どうにも合点がいかないというふうにそそくさと後をも見ずに急いで立ち去った、という話を耳にしたことがある。これは本人としてはまさしく、何とも訳の分からぬ不思議を感じたに違いないと思う。何かの動機か、または偶発的なできごとに、慌てふためいてその結果、意識が不完全状態になって何もかもピンボケになっていたからである。

わかりやすくいうと、周章狼狽の結果、そのとき精神が一時的に朦朧状態になって思慮も分別もなくなっていたからである。

しかしこれは他人のできごとだと軽々しく見過ごすべきではない。厳かに自分自身を省みてみるべきである。

要するにこういう失態は、平素落ちついた心的状態で生活行動を行っていないということが、その主因をなしているのである。

すなわち、人間というものは習慣が第二の天性をなすものであるから、平素の生活行動が落ちつきのない状態で営まれていると、それが知らず知らずの間に習性化して、日常の人事世事に対しても、どうしても軽挙妄動的で対処することになる。

そのために、そういう習性生活をしている人が何か急ぐことや突発的なことなどに直面すると、とっさ的にたちまち前述のように意識が不完全状態になってしまって、その行動も自由がきかなくなったり食い違いが生じたり、まったく考えていなかったことをしでかしたり、または思い違いや勘違いをのべつ行うことになる。

とどのつまりその主因は前記の通り、平素の心がけというものが、重大な消長関係を精神と肉体行動に重大な関聨(かんれん)をもっているためである。

昔、柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)が未だ修行中の折、沢庵禅師に次のような質問をしたことがある。

「一本の剣は扱いやすし、されど、数本ともなればいかになすべきや?」と。禅師答えて曰く、「一本を扱う時と同じ心をもって、数本もやはり一本一本扱うべし」と……。

まことに、これまさに至妙の言である。

わたしはかつて精神研究の時代、聖徳太子という人は手紙を書きつつ、他人と談話もし、また数字の計算もするという、さながら八面六臂(はちめんんぽっぴ)的な驚異的な人であったということを書いてある物の本を読んだとき、前記の沢庵禅師と柳生但馬守の兵法問答を思い起こして、しょせんは心の問題で、結論すれば、精神生命が混乱せず帰一的(きいつてき)に安定しているために違いないと思った。だから精神のコンセントレーション(統一)さえ確実にできれば、誰にでもできることで、さして難しいことではないと考えた。そこで会員諸子がすでに心身統一法の教義から熟知されている、あの意識の明瞭度を集約する方法を践行したら、極めて簡単にその目的を達成し得たのである。であるから皆さんが教えられている方法は、そうした実際経験(換言すれば価値高い実際効果を自分の人生のものにしたという)を収束して組織したものなのである。

だからこそ、もちろん皆さんは日常、教義の践行におさおさ怠りなく精進されておられると確信するが、なおよりいっそうのたゆまざる励精(れいせい)に努められて、常に意識の明瞭度を保持するために心の落ちつきを乱さぬよう心されるべきである。

ただし前記の真意は、肉体行動のスローモーション(鈍重)を意味するものでないことをくれぐれも注意されたい。それどころか、真に俊敏で隼(はやぶさ)のような軽快さは、常に沈着なる大定心より発露するものである。

すなわちこれを結論的にいえば、真に沈着な心こそが、明澄(めいちょう)なる意識を生み出し、明澄なる意識こそがその行動を截然(さいぜん)として遅速緩急によくこれを統御するものである。すなわち武道の極意を把握するものや、その他技神に入るような堪能精錬(たんのうせいれん)の人は、皆この真理にしたがっているからである。

これがあるがゆえに、われらはこの真理を深く尊重し心に銘記して、どんなときでも平素の言動をできるだけ落ちついて行うように心がけよう。

   古諺
  唯滅動心 不滅照心 但凝空心 不凝住心
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« かけがえのない家族 《 ただ... | トップ | ほんとうの心の力 《 人間も... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事