電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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ロシュフォートの推定とグルーの警告を読んだアメリカ政府は、驚くべき、もう一つの事件に着手した。海軍当局が北太平洋を「真空海域」と宣言したのである。(中略)1941年当時、米海軍の戦争計画部員だったリッチモンド・K・ターナー少将が、その驚くべき理由を次のように説明した。「われわれは戦争が差し迫っていると考えられた際には、航路を変更する用意をしていた。われわれが船舶の航路をずっと南方のトレス海峡経由に変更した結果、日本機動部隊の航路には、どんな船舶も認められなかったことだろう」
◆真空海域
『真珠湾の真実』
( ロバート・B・スティネット、文藝春秋(2001/6/26)、p263 )
日本が戦争行為を企てていることの二次的な証拠は、東京駐在のジョセフ・グルー大使から送られてきた。大使は密告者を皇居内部に潜入させたようだ。11月5日、裕仁天皇を交えた御前会議で米国及び連合国との開戦が決定された。日本軍部は東南アジア目標地域の侵攻占領に対して承認を与えられ、山本大将も彼の直衛行動を許可された。彼は真珠湾を攻撃して太平洋艦隊を撃滅し、この侵攻作戦に対する干渉を阻止することを承認された。
御前会議の大体の方針がアメリカに伝わった。翌日、グルーから国務長官コーデル・ハルに送られた長い報告書の末尾は、「米国との戦争は芝居がかったやり方で、危険な程突然にやってくるかもしれない」と締めくくられていた。外交交渉が失敗した時には、米国は日本の明らかな戦争準備を見くびってはならない、とグルーは警告していた。戦争のリスクと危険はきわめて大きく、増大しつつあった。この開戦決定は東條英機首相、嶋田繁太郎海相、東郷茂徳外相の3名により裕仁天皇に提出された、とグルーは密告者の名前を伏せたまま報告していた。
皇居内に潜入させた密告者による日本海軍の臨戦準備報告を確認するため、グルーは大使館付海軍武官ヘンリー・スミス=ハットン少佐を鉄道を使った視察旅行で瀬戸内海の日本海軍行動地域に派遣した。
(中略)
スミス=ハットン海軍夫妻の帰京後、間もなく、グルー大使はワシントンへさらに厳重な警告を打電した。11月17日、彼は再び、日本はいつ軍事行動を起こしてもおかしくはないと予測した。グルーは、中国ではない、別の、日本にとって奇襲可能な地域について言及した。グルーはハルに対して警戒態勢をとるよう強調して、「大袈裟に言っているのではない」と警告した。
ロシュフォートの推定とグルーの警告を読んだアメリカ政府は、驚くべき、もう一つの事件に着手した。海軍当局が北太平洋を「真空海域」と宣言したのである。米国及び連合諸国の船舶はすべてこの海域から引き揚げるよう、代わりに(太平洋を横断する)船舶は、オーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を通るよう命ぜられた。1941年当時、米海軍の戦争計画部員だったリッチモンド・K・ターナー少将が、その驚くべき理由を次のように説明した。
「われわれは戦争が差し迫っていると考えられた際には、航路を変更する用意をしていた。われわれが船舶の航路をずっと南方のトレス海峡経由に変更した結果、日本機動部隊の航路には、どんな船舶も認められなかったことだろう」
日本機動部隊が真珠湾への出撃を開始した11月25日(ワシントン時間)、米海軍作戦本部は次の電報をキンメルとサンフランシスコの第12海軍区に送った。
「太平洋を横断する船舶の航路はすべてトレス海峡とする。太平洋艦隊及びアジア艦隊の司令長官は必要に応じ護衛せよ。貴第230258番電参照」
この命令は、南雲中将の機動部隊が単冠湾を出港し北太平洋に出た約1時間後に、出されたものである。
この真空海域命令は、(戦争介入を)切望していたルーズベルトの下で、いかにキンメルが絶望的状態におかれていたかを、如実に物語っている。ロシュフォートから報告される気がかりな傍受電報に基づき、キンメルは多くの機会に真珠湾を防衛するため何事かをやろうと努力してきた。真珠湾が攻撃されるまさにその2週間前、キンメルはハワイ北方海域で日本機動部隊の捜索を命じた。ホワイトハウスの承認なしに、彼は、日本軍が真珠湾攻撃のため航空機を空母から発信させようと計画していた北太平洋海域に、米太平洋艦隊を移動させた。だが、キンメルの賞賛に値する努力は失敗に終わった。キンメルの率いる艦隊が、日本軍の意図している母艦航空機発進海域にいることをホワイトハウスの軍部当局者たちが知ると、彼らはキンメルに対して、太平洋艦隊を北太平洋海域から真珠湾錨地に帰投させるよう、急いで指示した。
不幸なこの反転命令は、度重なる真珠湾調査で、いつも見過ごされてきた。この件については、1941年から46年にかけて(8回も)実施された真珠湾調査のいずれでも、一度ととして、取り上げられたことはない。この件は、1995年に行なわれたストロム・サーモンド上院議員とフロイド・スペンス下院議員による、両院合同真珠湾調査の時も、その調査対象から逃れていた。キンメル提督の遺族の要請により、下院は1995年、真珠湾調査委員会を開いた。しかし、キンメル提督自身も提督の家族もかつて、(太平洋艦隊の)北部太平洋海域への、訳のありそうな出撃と突然の呼び返しについて言及したことはなかった。それにもかかわらず、このことはキンメルがハワイの北方海域を精力的に偵察したことを証明する、無罪弁明の証拠を提供している。真珠湾が攻撃された後で、キンメルはまさにこの種の偵察を怠ったと避難されていたのである。
米国の第二次世界大戦介入に反対する数少ないアメリカ詩人のひとりロビンソン・ジェファーズは、この真空海域命令の影響を次のように歌い、1948年に「真珠湾」というタイトルで発表している。
わが細心周到な将校たちは
見渡すかぎりの海岸線から
船と漁船を、大空から飛行機を
窓から光を取り除いた一方、
この大掃除で、巨大の美しい
一幅の絵ができ上がった
広大な海を見張れ、
人間的な気配は何も感じない、
鷗がこの世界を独占している。
広大な空を見張れ、
一日中、機械で動く物は見かけない
ただ朝と夕暮に好戦的な鷹が一羽
空高くパトロールしているだけだ。
漆黒の夜の闇の中を歩め。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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ロシュフォートの推定とグルーの警告を読んだアメリカ政府は、驚くべき、もう一つの事件に着手した。海軍当局が北太平洋を「真空海域」と宣言したのである。(中略)1941年当時、米海軍の戦争計画部員だったリッチモンド・K・ターナー少将が、その驚くべき理由を次のように説明した。「われわれは戦争が差し迫っていると考えられた際には、航路を変更する用意をしていた。われわれが船舶の航路をずっと南方のトレス海峡経由に変更した結果、日本機動部隊の航路には、どんな船舶も認められなかったことだろう」
◆真空海域
『真珠湾の真実』
( ロバート・B・スティネット、文藝春秋(2001/6/26)、p263 )
日本が戦争行為を企てていることの二次的な証拠は、東京駐在のジョセフ・グルー大使から送られてきた。大使は密告者を皇居内部に潜入させたようだ。11月5日、裕仁天皇を交えた御前会議で米国及び連合国との開戦が決定された。日本軍部は東南アジア目標地域の侵攻占領に対して承認を与えられ、山本大将も彼の直衛行動を許可された。彼は真珠湾を攻撃して太平洋艦隊を撃滅し、この侵攻作戦に対する干渉を阻止することを承認された。
御前会議の大体の方針がアメリカに伝わった。翌日、グルーから国務長官コーデル・ハルに送られた長い報告書の末尾は、「米国との戦争は芝居がかったやり方で、危険な程突然にやってくるかもしれない」と締めくくられていた。外交交渉が失敗した時には、米国は日本の明らかな戦争準備を見くびってはならない、とグルーは警告していた。戦争のリスクと危険はきわめて大きく、増大しつつあった。この開戦決定は東條英機首相、嶋田繁太郎海相、東郷茂徳外相の3名により裕仁天皇に提出された、とグルーは密告者の名前を伏せたまま報告していた。
皇居内に潜入させた密告者による日本海軍の臨戦準備報告を確認するため、グルーは大使館付海軍武官ヘンリー・スミス=ハットン少佐を鉄道を使った視察旅行で瀬戸内海の日本海軍行動地域に派遣した。
(中略)
スミス=ハットン海軍夫妻の帰京後、間もなく、グルー大使はワシントンへさらに厳重な警告を打電した。11月17日、彼は再び、日本はいつ軍事行動を起こしてもおかしくはないと予測した。グルーは、中国ではない、別の、日本にとって奇襲可能な地域について言及した。グルーはハルに対して警戒態勢をとるよう強調して、「大袈裟に言っているのではない」と警告した。
ロシュフォートの推定とグルーの警告を読んだアメリカ政府は、驚くべき、もう一つの事件に着手した。海軍当局が北太平洋を「真空海域」と宣言したのである。米国及び連合諸国の船舶はすべてこの海域から引き揚げるよう、代わりに(太平洋を横断する)船舶は、オーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を通るよう命ぜられた。1941年当時、米海軍の戦争計画部員だったリッチモンド・K・ターナー少将が、その驚くべき理由を次のように説明した。
「われわれは戦争が差し迫っていると考えられた際には、航路を変更する用意をしていた。われわれが船舶の航路をずっと南方のトレス海峡経由に変更した結果、日本機動部隊の航路には、どんな船舶も認められなかったことだろう」
日本機動部隊が真珠湾への出撃を開始した11月25日(ワシントン時間)、米海軍作戦本部は次の電報をキンメルとサンフランシスコの第12海軍区に送った。
「太平洋を横断する船舶の航路はすべてトレス海峡とする。太平洋艦隊及びアジア艦隊の司令長官は必要に応じ護衛せよ。貴第230258番電参照」
この命令は、南雲中将の機動部隊が単冠湾を出港し北太平洋に出た約1時間後に、出されたものである。
この真空海域命令は、(戦争介入を)切望していたルーズベルトの下で、いかにキンメルが絶望的状態におかれていたかを、如実に物語っている。ロシュフォートから報告される気がかりな傍受電報に基づき、キンメルは多くの機会に真珠湾を防衛するため何事かをやろうと努力してきた。真珠湾が攻撃されるまさにその2週間前、キンメルはハワイ北方海域で日本機動部隊の捜索を命じた。ホワイトハウスの承認なしに、彼は、日本軍が真珠湾攻撃のため航空機を空母から発信させようと計画していた北太平洋海域に、米太平洋艦隊を移動させた。だが、キンメルの賞賛に値する努力は失敗に終わった。キンメルの率いる艦隊が、日本軍の意図している母艦航空機発進海域にいることをホワイトハウスの軍部当局者たちが知ると、彼らはキンメルに対して、太平洋艦隊を北太平洋海域から真珠湾錨地に帰投させるよう、急いで指示した。
不幸なこの反転命令は、度重なる真珠湾調査で、いつも見過ごされてきた。この件については、1941年から46年にかけて(8回も)実施された真珠湾調査のいずれでも、一度ととして、取り上げられたことはない。この件は、1995年に行なわれたストロム・サーモンド上院議員とフロイド・スペンス下院議員による、両院合同真珠湾調査の時も、その調査対象から逃れていた。キンメル提督の遺族の要請により、下院は1995年、真珠湾調査委員会を開いた。しかし、キンメル提督自身も提督の家族もかつて、(太平洋艦隊の)北部太平洋海域への、訳のありそうな出撃と突然の呼び返しについて言及したことはなかった。それにもかかわらず、このことはキンメルがハワイの北方海域を精力的に偵察したことを証明する、無罪弁明の証拠を提供している。真珠湾が攻撃された後で、キンメルはまさにこの種の偵察を怠ったと避難されていたのである。
米国の第二次世界大戦介入に反対する数少ないアメリカ詩人のひとりロビンソン・ジェファーズは、この真空海域命令の影響を次のように歌い、1948年に「真珠湾」というタイトルで発表している。
わが細心周到な将校たちは
見渡すかぎりの海岸線から
船と漁船を、大空から飛行機を
窓から光を取り除いた一方、
この大掃除で、巨大の美しい
一幅の絵ができ上がった
広大な海を見張れ、
人間的な気配は何も感じない、
鷗がこの世界を独占している。
広大な空を見張れ、
一日中、機械で動く物は見かけない
ただ朝と夕暮に好戦的な鷹が一羽
空高くパトロールしているだけだ。
漆黒の夜の闇の中を歩め。