電脳筆写『 心超臨界 』

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( ベンジャミン・フランクリン )

歴史を裁く愚かさ 《 「川勝理論」の重要性——西尾幹二 》

2024-03-14 | 04-歴史・文化・社会
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若いのに凄い人が現われたと思った。今までの日本では、わが国は仕方なく、追い詰められて鎖国体制に逃げこんだ、とばかり理解されていた。しかし、川勝氏は、いわゆる鎖国体制は日本にそれをなしとげる経済的余裕が生じ、必然性があったからこそ可能になったのだと説いた。当時の日本の政策を、開国を不可能にした日本の消極性の中に見るのではなく、鎖国を可能にした積極性の中にこそ見るべきだと説いていた氏の論証の独創性に、私はなによりも魅力を覚えたのである。


『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p104 )
第2章 なぜ私は行動に立ち上がったか
2 新しい歴史教科書の創造

◆「川勝理論」の重要性

大略このあたりまでは、かねてから私なりに予想を立て、歴史認識の修正を試みていた範囲である。しかるにヨーロッパの「大航海時代」と日本の「海禁政策(鎖国)」の時代に、地球の西端と東端で「近代世界システム」がほぼ同時に成立したという経緯を、経済史的にきちんと説明してくれた川勝平太氏の理論に出会い、私は目を開かされる思いがし、さらに一段と自らの確信を深めるに至った。

私が川勝氏と知り合ったのは1986年、氏がまだ若く、国際交流基金の受賞論文で渡英する前だった。その論文に私は衝撃を受けた。氏は鎖国をすでに日本の能動的政策行動と解釈していた。日本がアジア物産の一方的輸入から脱却し、自給自足体制を確立し、シナ経済圏からの独立を果たした「近代化」への第一歩を鎖国体制の内部に見届けていたのである。

若いのに凄い人が現われたと思った。今までの日本では、わが国は仕方なく、追い詰められて鎖国体制に逃げこんだ、とばかり理解されていた。しかし、川勝氏は、いわゆる鎖国体制は日本にそれをなしとげる経済的余裕が生じ、必然性があったからこそ可能になったのだと説いた。当時の日本の政策を、開国を不可能にした日本の消極性の中に見るのではなく、鎖国を可能にした積極性の中にこそ見るべきだと説いていた氏の論証の独創性に、私はなによりも魅力を覚えたのである。

氏はそれからインドにも渡り、英国東インド会社の史料調査をして、若き日の発想を理論的に肉づけした(『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考――』NHKブックス)。詳しくはそれを見ていただきたい。

「新しい歴史教科書をつくる会」は平成9年4月10日に第1回の歴史家ヒアリングを、川勝氏をお招きして行った。

その内容はいずれまた活字になると思うのでここでは措くが、本論との関連で氏の論点の一つを拾えば、ヨーロッパにおける「大航海時代」は、日本における「倭寇の時代」でもあり、日本人も東インド会社と交易を行っていたことがあげられる。日本人が南蛮あるいは天竺と呼んだ、今日でいう南シナ海からインド洋に至る地域とである。

この地域からヨーロッパ人同様に、木綿、砂糖、茶、香辛料、陶磁器などを輸入し、多量の貨幣素材(金、銀、銅)を流出させていた。その結果ヨーロッパと同様に輸入品の大衆需要を通して「生活革命」を遂げている。

オランダ船を介しての交易時代になってからもこの傾向はつづく。日本から出て行った金・銀・銅の量は膨大であった。別子銅山を持つ住友本家こそ、オランダの繁栄のいわば源泉であった。日本産の銅は良質で、ヨーロッパ市場の価格を動かし、最大の産銅国スウェーデンをも脅かした(鎖国なんかしていなかった証拠、通商大国であった証拠である!)。

しかし前にも述べた通り、幕府は18世紀後半になると、金銀の流出を停止し、19世紀初頭にはアジア物産の原料並びに加工技術を国内にほぼ完全に移植し、国産化を完成している。「鎖国」ということばの初出のみられるのはまさにこの時代である。

一方ヨーロッパもまたこの頃、アメリカ大陸を発見することによって得た利益、インド交易圏から受け入れていたコーヒーや砂糖や木綿の原料となる栽培植物を新大陸に移植することに成功する。かつてアジアから輸入していたものの大部分を大西洋を股にかけて自給し、次第に大西洋経済圏を形成していく。両者ともに、川勝氏によると、ここに「生産革命」を経験したといっていい。その結果アジア物産の輸入から脱却し、旧アジア文明圏から経済的独立を果たしたという意味において、ヨーロッパと日本は共通の歩調をとっているのである。

加えて日本の場合、「寛永通宝」をはじめ大量の銅銭がアジアに輸出された。例えば今、インドネシアのバリ島では日本産の古いコインで作られた人形その他の骨董品が観光土産になっているほど、膨大な量の古い銅銭がインドネシア、インド、スリランカ、シナ、その他各地に出まわっている。中世の日本はシナ産の銅銭の大量の輸入国であった。しかし、地位はいつしか逆転した。アジアの広域にわたって、日本通貨の経済圏が成立したといっていい。

金・銀・銅の貨幣素材を一国内で自給し、かつ管理していたのは、世界広しといえども、徳川時代の日本だけであった。そしてその力はアジアの広域にわたって伝わり、シナを圧倒した。日本が政治的にはもとより、文化的にも、そしてなんといっても経済的にシナからほぼ完全に独立し、自立した一個の独自の文明に到達したのは、ヨーロッパがイスラムの圧力から離脱し大西洋経済圏を作った15~18世紀とほぼ同じ時代であったといっても恐らく過言ではないだろう。

しかもヨーロッパのように征服や侵略によってではない。奴隷貿易によってではない。日本は国内の経済改革によってこれをなし遂げたのである。1543年ポルトガルから鉄砲が輸入されて、16世紀後半にたちまち世界最大の鉄砲生産国になるほどの技術力を持った日本は、しかし、江戸時代に入ると鉄砲を捨て、国内平和をなによりも大事にする国になった。その伝統は今も生きている。世界の文明国で現代日本ほど治安の安定した国はない(そのことの貴重さ、治安の良さは「富」の一つであるという観念を、子供にも教科書の中でしっかり意識させておく必要がある)。

ヨーロッパにおける「近代世界システム」の成立過程と、日本における「鎖国」体制の成立とが、相似た歴史的意義を担っていたと見る川勝理論は、私にはまことに新鮮で、啓発的であった。そして、しかも、経済史学的には反論のしようもないほどの真実である。

川勝理論に政治や宗教が経済に及ぼす影響への考察がやや不足している欠点が見出されるとはいえ、明治におけるヨーロッパとのわずかな接触で、卵の殻が割れたようなす早さで生誕した近代日本の目的達成度の迅速さと能率の良さを説明するのに、彼のこの理論以上に、具体的で、しかも効果的な歴史説明の仕方がほかにあるとは私には思えない。

「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバー全員の合議決定を経た上での話ではなく、どこまでも私の個人的見解だが、私は新しい教科書で、氏の理論を15~18世紀以後のヨーロッパと日本の興隆を説明するうえでの重要で決定的な柱の一つにしたいと考えている。それは永年にわたって「鎖国」の実在を疑ってきた私の願望――鎖国は近代日本人の卑屈で根拠なきヨーロッパ劣等感の生んだ幻想にすぎぬ!――、私のほとんど宿願ともいうべき歴史叙述一新への、とりあえずなすべき第一階梯(かいてい)ではある。

日本の歴史に「鎖国」はなかった! 海禁政策があったにすぎない。それは最も厳しい出入国管理令の一つと考えればよい。日本人の心は外に開かれていた。燃えるような精神力をもって、遠いヨーロッパの最果てまでを見つめていた。あの時代には自己を守ることが日本にとって最高度の攻撃であったからだ!

そして、それは今の日本人にとっても同じ重さをもって受け継がれねばならない貴重な精神態度の一つであるといっても恐らく過言ではないであろう。
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