電脳筆写『 心超臨界 』

あなたが家族を選ぶのではない
家族は神からのあなたへの贈り物
あなたが家族への贈り物であるように
デズモンド・ツツ

生きるための杖ことば 《 雲在嶺頭閑不徹 水流礀下太忙生——松原泰道 》

2024-06-12 | 03-自己・信念・努力
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雲は無心のままに山頂に浮かぶから、暇をもてあます気もないし、「小人閑居(しょうじんかんきょ)シテ不善ヲナス」邪念も起きない。水は無心のままに谷間を流れるから、多忙で困るという愚痴も出ない。閑静・多忙のいずれにも充実した人生がある。ここに、多忙なままに「雲は嶺頭に在って閑不徹」という場に、自分が坐れる道理がある。


◆雲在嶺頭閑不徹(雲(くも)は嶺頭(れいとう)に在(あ)って閑不徹(かんふてつ))
 水流礀下太忙生(水(みず)は礀下(かんか)を流(なが)れて太忙生(たいぼうせい))
                        ――虚堂録(きどうろく)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p154 )

雲は山頂に静かに浮かび、水は礀間(たにま)を忙しそうに流れる。その雲や水の無心の状態をうたう。中国南宋の虚堂(きどう)禅師(1269年没)が報恩寺を隠退されるときの偈頌(げじゅ=禅意を述べる詩)の転結二句である。

閑不徹の不徹は、閑(しず)かさを強める助けことばで意味よりも雲の無心さを読みとるべきだ。「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」(芭蕉)に通じる無心の深さをいう。不徹は「しみ入る」徹底の徹底といえよう。

太忙生の生も、さきの不徹と対応する語ではないが、やはり水の流れの無心さを味わうべきであろう。「岩もあり木の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる」(甲斐和里子)の一首をおもう。流れて行くさきざきにさまざまな障害があっても、水は無心にさらさらと、たださらさらと流れて行く。

雲は無心のままに山頂に浮かぶから、暇をもてあます気もないし、「小人閑居(しょうじんかんきょ)シテ不善ヲナス」邪念も起きない。水は無心のままに谷間を流れるから、多忙で困るという愚痴も出ない。閑静・多忙のいずれにも充実した人生がある。ここに、多忙なままに「雲は嶺頭に在って閑不徹」という場に、自分が坐れる道理がある。

「忙」は立心偏(りっしんべん=心に同じ)に亡と書く、つまり、心が亡(な)い現象を忙の字形が示している。良心不在・中心亡失を絵にしたような字形だ。また「忙」の偏と旁(つくり)とをタテに配置すると「忘」となるのもおもしろい。

私たちは多忙のあまり忘れごとが多いが、いちばん大切な自分をどこかへ置き忘れたりする。そんなことのないように、心の中心は常に、「閑不徹」でなければならぬと教えられる。
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