電脳筆写『 心超臨界 』

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( ルイ・パスツール )

読む年表 戦国~江戸 《 家康が江戸幕府を開く――渡部昇一 》

2024-07-26 | 04-歴史・文化・社会
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家康は、平家を名乗った信長・秀吉に交替する者として源氏と称して将軍になり、鎌倉幕府、北条幕府、足利幕府に次いで新しい江戸幕府を開いた(ちなみに、戦国武将の家では系図の売買や新規作成――つまりインチキ――は珍しくなかった)。そして鎌倉幕府の例に従って、権力の中心を京・大坂周辺ではなく関東に――この場合、江戸に――移したのである。


◆家康が江戸幕府を開く

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p136 )

1603(慶長8年) 家康が江戸幕府を開く
源氏と称して征夷大将軍となった家康

家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたのは関ヶ原の戦いから3年後、慶長8年のことだ。そのときから家康は源氏と称した。正式には「征夷大将軍・氏長者(うじのちょうじゃ)、淳和(じゅんな)・奨学両院別当(べっとう)、牛車兵仗(ぎっしゃへいじょう)、従一位(じゅういちい)右大臣」。将軍になったということは源氏であるという宣言である。

当時は源平交替思想があった。平家を滅ぼした源氏の後の北条氏は平家で、その後の幕府を継いだのが源氏の嫡流の足利氏だから、次に派遣をとるのは平家だという考え方である。信長は元来、藤原氏であるが、自らは平家の出身と称していた。征夷大将軍は源氏の系統からしか出ないので、信長は将軍にならなかった。自分がつぶした足利幕府が源氏だから、自分は平家でならなければならなかったのである。

秀吉は天正10年(1582)頃までは平秀吉(たいらのひでよし)と言っていた。信長の後継者ということだろう。しかし、関白になると平氏では都合が悪いから一時、藤原秀吉となったが、そんな高貴な生まれでないことは誰もが知っているから、慣習によらず、源平籐橘(げんぺいとうきつ=源氏・平氏・藤原氏・橘(たちばな)氏)ならざる豊臣家というのをつくり、将軍を飛び越して関白太政大臣(だじょうだいじん)になった。

一方、家康の家系は、元来は加茂氏であり、秀吉が豊臣を名乗る頃までは藤原家康と称していたのである。家康が従五位下三河守(じゅうごいげみかわのかみ)に任ぜられた時はまだ藤原家康であった。その後、天下の権を握り、征夷大将軍になるため――この称号は源氏固有のものと考えられていた――源氏になる必要が生じ、三河の吉良家の系図を譲り受け、これに松平氏や徳川氏を結びつけて、新田氏の子孫ということになった。新田氏の先祖は八幡太郎義家で、源氏の大棟梁である。

かくして家康は、平家を名乗った信長・秀吉に交替する者として源氏と称して将軍になり、鎌倉幕府、北条幕府、足利幕府に次いで新しい江戸幕府を開いた(ちなみに、戦国武将の家では系図の売買や新規作成――つまりインチキ――は珍しくなかった)。そして鎌倉幕府の例に従って、権力の中心を京・大坂周辺ではなく関東に――この場合、江戸に――移したのである。

家康が、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵からその中期に至るまでの鎌倉幕府の事蹟(じせき)を記録した『吾妻鏡(あづまかがみ=東鑑)』を座右に置いて参考にしたことはよく知られている。関東が源氏の本拠で、京・大坂はその出先という発想をそこから学んだのだ。

2年後の慶長10年には将軍職を秀忠(ひでただ)に譲った。そしてその翌年には諸大名を江戸に留めるようにした。その後数年の間に、加藤清正、浅野長政、池田輝政、浅野幸長(よしなが)など、主立った豊臣恩顧の大名たちが死に、関ヶ原から14年もたった頃になると、もう徳川幕府に反抗できるような大名は一人もいなくなった。徳川家の将来に禍根を残す可能性があるのは秀吉の遺児、豊臣秀頼(ひでより)のみであった。
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