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読む年表 戦国~江戸 《 関ヶ原の戦い――渡部昇一 》

2024-08-29 | 04-歴史・文化・社会
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関ヶ原の戦いは決定的だった。関ヶ原での勝敗が決まっても、まだまだ争いは続くだろうと戦国時代をずっと見てきた人たちは思っていた。一つの戦場の結果で天下の大勢すべてが決まったことなどそれまでにはなかった。ところが、ほとんどの大名が家康についたのである。混乱に乗じて自分の勢力を伸ばそうと火事場泥棒的に九州で決起した黒田如水や奥州で動いた伊達政宗のような武将もあきらめざるを得なかった。こうして徳川の世がはじまる。


◆関ヶ原の戦い

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p130 )

1600(慶長5年) 関ヶ原の戦い
家康の強運が一夜にして戦国時代を終らせた

秀吉の死後、大名のなかで突出した実力を持っていた徳川家康の独走が目立つようになる。家康を抑えるだけの力があるのは加賀の前田利家のみであったが、その利家が秀吉の死の翌年、後を追うように亡くなると、家康の権勢はいよいよ大きくなった。

五奉行の一人で、秀吉にかわいがられ、かねてから家康と反目していた石田三成は、家康が自分に服従せず挑発的な態度をとっていた会津の上杉景勝(かげかつ)を討つため大軍を率いて東上した機をとらえ、毛利輝元を総大将にして家康打倒の兵を挙げた。この報を聞いた家康軍(東軍)はすぐさまとって返し、三成の西軍と美濃国関ヶ原でいわゆる「天下分け目の戦い」が行なわれることになる。

この「関ヶ原の戦い」に家康はかろうじて勝ったとも言えるが、それまで秀吉に手堅く仕え、他の大名の面倒を見ていたのが勝因の一つであっただろう。

西軍を率いた石田三成は、秀吉の朝鮮征伐(文禄の役)の際には船奉行(ふなぶぎょう)として日本軍を朝鮮に渡航させる任にあたり、後に増田長盛(ましたながもり)、大谷義継(よしつぐ)とともに、朝鮮に出ている軍勢の督励(とくれい)のための奉行として渡った。元来は戦うために出かけたのではなかったが、追撃してくる明の大軍との「碧蹄館(へきていかん)の戦い」には、南の礪石嶺(れいせきれい)の峠から黒田長政、宇喜田秀家勢などとともに打って出て、小早川隆景(たかかげ)の大勝利に貢献もしている。

慶長の役では、秀吉死後の引き揚げ業務を遂行した。しかし、内地にいた三成は、難戦を経験した武将たちからは楽をしていたように思われ、両者の間に感情の対立が生まれた。その上、対明講和の話の時に、小西行長の意見に従い、「加藤清正が講和を妨害している」と報告したため、清正は講和を望む秀吉の怒りに触れた。

清正は“告げ口”した三成を骨の髄まで憎み、「八幡大菩薩、冶部(ぢぶ=石田)とは一生中直(なかなお)りは仕(つかまつ)るまじく候」と言っている。古川柳に「八幡は堪忍ならぬ時の神」とあるように、「八幡」は徹底した憎悪を示す時に口にする言葉であった。このような具合で、石田三成と、前線で戦った加藤清正や福島正則とのあいだには激しい確執があった。秀吉の正妻であるねねは、秀吉が足軽頭(あしがるがしら)くらいの頃から自分が台所で飯を食べさせていた福島正則がかわいかっただろうし、家康は秀吉の死後、未亡人となったねね(高台院(こうだいいん))を丁重に扱っていたから「ことがあれば家康殿につきなさい」と彼らに言っていたらしい。

一方、秀吉が長浜の地をもらって大名になってから家来になった石田三成のような官僚的な武将は、みな秀頼の母淀君についている。本妻ねねにしてみれば、秀吉の子供(秀頼)を産んでくれたとはいえ、あまりいい気はしないだろう。それを担いでいる三成たちよりは、小僧のような頃から世話をし、飯を食べさせてやった連中をひいきする気持ちがあって、家康に味方するようアドバイスしたというのはあり得る話だと思う。関ヶ原の戦いの時も、福島正則は家康のためにいちばん働いている。

明治時代初期、日本陸軍近代化の基礎を築いたドイツの参謀将校メッケルが、関ヶ原の戦いの地図を見せられて、「どっちが勝ったと思いますか」と聞かれ、それは石田方だと答えたという。ところが、ご存じのように石田方には金吾中納言(きんごちゅうなごん=小早川秀秋)の裏切りがあった。さらに大坂城に入っていた西軍の総大将、毛利輝元が出陣しなかった。もし輝元が戦場に出ていれば石田方が勝っていただろう。しかも家康方の主力の徳川秀忠軍は中仙道を関ヶ原に向かう途中、上田城で向かえ撃った真田昌幸にかかずらって間に合わなかった。だから天下分け目の戦いは、勝つべくして勝ったというよりも、運が味方して勝ったというべきだった。

しかし、この関ヶ原の戦いは決定的だった。関ヶ原での勝敗が決まっても、まだまだ争いは続くだろうと戦国時代をずっと見てきた人たちは思っていた。一つの戦場の結果で天下の大勢すべてが決まったことなどそれまでにはなかった。ところが、ほとんどの大名が家康についたのである。混乱に乗じて自分の勢力を伸ばそうと火事場泥棒的に九州で決起した黒田如水や奥州で動いた伊達政宗のような武将もあきらめざるを得なかった。こうして徳川の世がはじまる。
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