電脳筆写『 心超臨界 』

誠実な心が誠実な行動を生む
( ブリガム・ヤング )

僕の映画のほとんどは福永さんと「草の花」に捧げてきた――大林宣彦

2024-05-18 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
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20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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「こころの玉手箱」――映画作家・大林宣彦
( 09.11.05日経新聞(夕刊))

 [1] ブリキの映写機の玩具
 [2] 平和を教えてくれたピアノ
 [3] 福永武彦著「草の花」


東京で文学部に進んだ年長のいとこがいて、夏休みになると新刊を携えて帰ってきた。その中に、新潮社から書き下ろしで出たばかりの福永武彦著「草の花」(1945年)があった。(中略)300㌻近い小説を、僕は3、4回読んだだけで暗記してしまった。ちょうど楽譜を暗譜するように、福永さんの文章は構成のしっかりした楽曲と同じで、一語たりとも欠落しようがない。同時に僕はこの小説に出合って、小説家になるのをあきらめた。僕以上にうまく僕の物語を書く作家がいては仕方がない。


[3] 福永武彦著「草の花」――作品が自分の心情に重なる

少年のころ描いた僕の未来図は、医者になって売れない小説を書くというものだった。映画は好きだが、監督など撮影所に入れなければなれない時代。それは到底無理に思われた。中学、高校と文芸部を作り、物語を書き、自分で装丁して何十冊と書棚に飾った。

やはり医者にならず、東京で文学部に進んだ年長のいとこがいて、夏休みになると新刊を携えて帰ってきた。その中に、新潮社から書き下ろしで出たばかりの福永武彦著「草の花」(1945年)があった。

サナトリウムにいる「私」を通して語られる青年・汐見の物語。若くして死んだ友人・藤木と、その妹・千枝子に寄せたそれぞれに純粋で孤独な愛を描いた小説だ。僕はこれを読んだとき、変な言い方だが「僕が書いた本だ」と思った。それくらい登場人物と僕の心情が重なっていた。

300㌻近い小説を、僕は3、4回読んだだけで暗記してしまった。ちょうど楽譜を暗譜するように、福永さんの文章は構成のしっかりした楽曲と同じで、一語たりとも欠落しようがない。同時に僕はこの小説に出合って、小説家になるのをあきらめた。僕以上にうまく僕の物語を書く作家がいては仕方がない。

18歳で上京したときも、真っ先に「草の花」で千枝子の家がある大森の高台を訪ねた。千枝子の不在を確かめるためだ。そうしなければ、虚構の世界から一歩も現実に踏み出せない気がしていた。

福永さん自身にはお目にかからなかったが、夫人とは84年に福永さん原作の「廃市」を撮って以来、おつきあいがある。映画「廃市」を鑑賞された夫人は、不思議そうな顔で尋ねられた。「大林さん、福永にお会いになりました?」

「いいえ」「じゃあ、福永の書斎はご覧になっていませんわね」。今度は僕が「なぜですか」と尋ねる番だ。夫人の言によれば、映画に出てくる時計も万年筆も、全く福永さんの書斎にあるものと同じだという。「ご存知でしたか」と問われて驚くばかりだった。

でも思えば、それくらい僕は福永さんと一体化して生きてきたのだ。僕の映画のほとんどが、福永さんと「草の花」に捧(ささ)げてきたといっても過言ではない。
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