電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
[ ウィキペディア ]
いつのころからか、「言語道断」はもっぱらふとどきな行為に対して言われるようになった。しかも、そこには強い怒りがこめられている。水戸黄門や大岡越前守(えちぜんのかみ)になり代わって、現代のふとどき者たちに「言語道断!」と大喝したら、少しは溜飲(りゅういん)が下るだろうか。
◆「言語道断」――仏教で真理は言葉にできぬ意
興膳宏(京都国立博物艦長)
(「漢字コトバ散策」2005.03.27 日経新聞(朝刊))
強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された代議士について、同僚の議員たちは「言語道断」と非難したそうだ。「あきれていうべき言葉もない」というのだろう。他にも、1億円の裏金をもらいながら記憶にない政治家、数十年間にわたり偽の名義で自社の株を独占支配しつづけたカリスマ経営者、解放されたばかりのイタリア人記者の車を銃撃した米兵など、「言語道断」のふるまいは尽きない。
「言語」は普通「げんご」と漢音で読むのに、この場合に限って「ごんご」と呉音で読むのは、これがもとは仏典の言葉だからである。「言語道断」が言語を絶するひどい行いに関して用いられる例は、平安朝のころからあり、中国語にも同じ用法がある。だが、仏典では本来、「優れた仏教の真理は言葉では表せない」という意味でしか用いられない。
大乗仏教の代表的な教典である『維摩(ゆいま)経』で、「不二(ふじ)の法門」に入ることの意味を問われた維摩の応答は、「黙然として言うなし」だった。究極の真理は言葉では言い表せないことを、維摩は沈黙によって示したのである。
中国には古くから「言は意を尽くさず」(『易経』繋辞(けいじ)伝)のように、言葉は不完全で、人の心を正確に伝達できないという考え方がある。一種の言語不信論である。ことに道家の哲学にはその考えが根強い。『老子』には、「知る者は言わず、言う者は知らず」とあるし、『荘子』にも「道は言うべからず、言えばすなわち非なり」(知北遊篇)とある。口で言えるような道はまやかしものというわけだ。「言語道断」は、そうした中国生まれの仏教である禅宗が「不立(ふりゅう)文字」を標榜するのも、それと関連する。
いつのころからか、「言語道断」はもっぱらふとどきな行為に対して言われるようになった。しかも、そこには強い怒りがこめられている。水戸黄門や大岡越前守(えちぜんのかみ)になり代わって、現代のふとどき者たちに「言語道断!」と大喝したら、少しは溜飲(りゅういん)が下るだろうか。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
[ ウィキペディア ]
いつのころからか、「言語道断」はもっぱらふとどきな行為に対して言われるようになった。しかも、そこには強い怒りがこめられている。水戸黄門や大岡越前守(えちぜんのかみ)になり代わって、現代のふとどき者たちに「言語道断!」と大喝したら、少しは溜飲(りゅういん)が下るだろうか。
◆「言語道断」――仏教で真理は言葉にできぬ意
興膳宏(京都国立博物艦長)
(「漢字コトバ散策」2005.03.27 日経新聞(朝刊))
強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された代議士について、同僚の議員たちは「言語道断」と非難したそうだ。「あきれていうべき言葉もない」というのだろう。他にも、1億円の裏金をもらいながら記憶にない政治家、数十年間にわたり偽の名義で自社の株を独占支配しつづけたカリスマ経営者、解放されたばかりのイタリア人記者の車を銃撃した米兵など、「言語道断」のふるまいは尽きない。
「言語」は普通「げんご」と漢音で読むのに、この場合に限って「ごんご」と呉音で読むのは、これがもとは仏典の言葉だからである。「言語道断」が言語を絶するひどい行いに関して用いられる例は、平安朝のころからあり、中国語にも同じ用法がある。だが、仏典では本来、「優れた仏教の真理は言葉では表せない」という意味でしか用いられない。
大乗仏教の代表的な教典である『維摩(ゆいま)経』で、「不二(ふじ)の法門」に入ることの意味を問われた維摩の応答は、「黙然として言うなし」だった。究極の真理は言葉では言い表せないことを、維摩は沈黙によって示したのである。
中国には古くから「言は意を尽くさず」(『易経』繋辞(けいじ)伝)のように、言葉は不完全で、人の心を正確に伝達できないという考え方がある。一種の言語不信論である。ことに道家の哲学にはその考えが根強い。『老子』には、「知る者は言わず、言う者は知らず」とあるし、『荘子』にも「道は言うべからず、言えばすなわち非なり」(知北遊篇)とある。口で言えるような道はまやかしものというわけだ。「言語道断」は、そうした中国生まれの仏教である禅宗が「不立(ふりゅう)文字」を標榜するのも、それと関連する。
いつのころからか、「言語道断」はもっぱらふとどきな行為に対して言われるようになった。しかも、そこには強い怒りがこめられている。水戸黄門や大岡越前守(えちぜんのかみ)になり代わって、現代のふとどき者たちに「言語道断!」と大喝したら、少しは溜飲(りゅういん)が下るだろうか。
真理は不立文字、言詮不及ともいわれていますね。一言一句文字通り解釈するのが、カルトの特徴でもあります。「目には目を」や「聖戦(ジハード)」などがそれに当てはまるのではないでしょうか。
仏教で「知信行」と言い、「真理は汝を自由ならしめん」とキリストの聖句にもあり、真理が生活に生きてこそ価値があります。真理の常識化に「ありがとう」
もはいりますね。それを率先垂範されているchorinkaiさんはさすがであり、やっぱりと感心しています。G3
仏教に限らず、優れた真理は言葉では表せない。と私は思っています。
というわけでTB させていただきます。