電脳筆写『 心超臨界 』

自然は前進と発展において留まるところを知らず
怠惰なものたちすべてにののしりを発する
( ゲーテ )

活眼 活学 《 変化の理——安岡正篤 》

2024-06-14 | 03-自己・信念・努力
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生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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このごろのような頽廃し混乱している世の中に在って、特に大切な密事の一つは、外部の騒ぎや汚れに毒されない清浄な自己内密の生活を持つことである。私は長の年月、たまたま孤坐している時、ふと心に囁(ささや)く古人の語に容(かたち)を改めることがある。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p172 )
[3] 座右銘選話
3 世の頽廃と生の愛惜

◆変化(へんげ)の理

前節の終わりに、唐の戴弘正が密友(真に人生自我の秘密を語り合える友)一人を得るごとに、香を焚いて謝し、これをノートに書き入れたという金蘭簿の故事を記しておいた。このごろのような頽廃し混乱している世の中に在って、特に大切な密事の一つは、外部の騒ぎや汚れに毒されない清浄な自己内密の生活を持つことである。私は長の年月、たまたま孤坐している時、ふと心に囁(ささや)く古人の語に容(かたち)を改めることがある。ここに紹介する『徒然草』の一節もその一例である。兼好法師曰く。

  蟻の如くにあつまりて、東西にいそぎ、南北にわしる人、高きあり、
  賤しきあり、老いたるあり、若きあり。行く処あり、帰る家あり。
  夕(ゆうべ)に寝(い)ねて朝(あした)に起く。いとなむ所何事ぞや。
  生(しょう)を貪り、利をもとめてやむ時無し。身を養ひて何事をか
  待つ。期(ご)する所ただ老と死とにあり。其の来る事速(すみやか)
  にして、念々の間に止(とど)まらず。これを待つほど、何の楽しみ
  かあらむ。まどへる者はこれを恐れず。名利(みょうり)におぼれて
  先途(せんど)の近き事をかへりみねばなり。おろかなる人は又これ
  を悲しぶ。常住(じょうぢゅう)ならむことを思ひて、変化(へんげ)
  の理(ことわり)を知らねばなり。(同書第七十四段)

人間は、時にはやはりこういう諦観を持たなければ、ちょうど根のつかない草木とおなじこと。確かに一種の無常観と言える。この無常観は、このごろ流行の言葉を使えば一つの脱社会で、永遠というものに参ずることである。よく虚無というけれども、こういう無常や虚無というものは、実は非常に積極的、創造的なものである。なおこの文の次に、兼好は続けて、

  つれづれわぶる人はいかなる心ならぬ。まぎるゝ方なく、ただ一人
  あるのみこそよけれ。世に従へば、心外(ほか)の塵にうばはれて、
  まどひやすく、人にまじはれば、言葉よその聞きに従ひて、さなが
  ら心にあらず。人にたはぶれ、物にあそひ、一度(ひとたび)はうら
  み、一度はよろこぶ。そのこと定まれる事なし。分別(ふんべつ)み
  だりにおこりて、得失やむ時なし。まどひの上に酔へり。酔の中に
  夢をなす。走りていそがはしく、ほれて(ぼけること)忘れたる事、
  人皆かくの如し。いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(
  しずか)にし、事にあづからずして心を安くせむこそ、しばらく楽し
  ぶともいひつべけれ。生活(しょうかつ)・人事(じんじ)・伎能・学
  問等の諸縁をやめよとこそ摩訶止観にも侍(はべ)れ。
  (同書第七十五段)

と記している。

組織と機械化の中に自由と意義の喪失を歎じている人々よりも、むしろ時代の波に乗って、はなやかに活動しているように見える人々の方が、たまたま我に返った瞬間、却ってこの感を切にするであろう。

生活人事云々の語はまるで現代語の感を持つが、確かに摩訶止観の語である。この書は天台智者大師(隋初の人)の説法を弟子章安が筆録した有名なものであるが、その巻四下にこの語が出ている。生活とは正に日常生業(なりわい)のための活動であり、人事とは慶弔等のさまざまな人間交際の諸事。伎能とは本職外の雑技雑能。麻雀がどうの、ゴルフがどうのという自慢の類である。学問ということも、真の学問の意味ではない。世渡りのためや、自己を衒(てら)う外道(げどう)の意味であることは言うまでもない。

それでは世に疎くなるという批難や不安を免れまいが、厳しく言えばそれぐらいでちょうど好い。まして宗教人・法師においては、なおさらのことである。兼好もその次に、「法師は人にうとくてありなむ」と言っている。このごろの世相でも少年や青年男女が、いやに早くませてしまって、人間臭く、俗悪になっているのは、決して文明文化ではなく、人間の動物的退化現象にほかならない。兼好流に言えば、正に少青年子弟は世にうとくてありなむである。
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