電脳筆写『 心超臨界 』

あなたが家族を選ぶのではない
家族は神からのあなたへの贈り物
あなたが家族への贈り物であるように
デズモンド・ツツ

般若心経 《 “子ども叱るな来た道じゃ”――松原泰道 》

2024-05-27 | 03-自己・信念・努力
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たとえば、私はいまは大人ではあるが、私にも子どもの時代が間違いなくあった事実を、まず自分のうえに観察するのです。そして、いま子どもたちがしている過ちやいたずらは、私もその年ごろにしたはずです。それを忘れているのを、わが子がいま私に見せていてくれるのです。たとい、そのいたずらを私が実際にしなかったとしても、する可能性はあったはずです。このように、子どものうえに私を観察できたら、子どもへの叱り方が違ってまいります。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p101 )
3章 「心のカメラ・アイ」を持て――観自在菩薩が教える妙観察智の智慧
観自在菩薩
(1) 音を感じる智慧

◆“子ども叱(しか)るな来た道じゃ”

科学の世界でも妙観察智の機能が肝要です。物が落下する目に見える現象に、目に見えない宇宙引力を見すえるのも妙観察智でしょう。

倫理道徳の善の世界も妙観察智です、先ごろ福岡へ旅行したとき、同地で“老木(おいき)は曲がらぬ”と教えられました。木も老木になると弾力がなくなるので、曲げようとしても曲がらないし、無理に曲げるなら木は折れてしまいます。私は、このことわざから、人間も老いると心に柔軟性を失う事実を反省させられて、素朴な妙観察智を得たことです。

哲学や宗教の世界は、善と聖の世界だといわれます。とくに宗教の世界は、自分が相手になりきって、相手を観察する妙智がそのすべてです。よく「相手の身になって見よ」と言いますが、自分と相手とを相対的な立場に置いて、相手の身に徹することは無理です。自分の立場を超えて、はじめて他者と同化ができるのです。それには合理とは別次の観察の智慧、すなわち妙観察智を持たねばなりません。

しかしそれは、けっしてむずかしいことではないのです。やはり昔のことわざがちゃんと教えてくれます。

児童文学者の国分一太郎(こくぶいちたろう)さんから“子ども叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ”との古諺(こげん)を教わり、思わず「うーん」と唸ったことです。

“子ども叱るな”は、叱ってはいけないというのではありません。叱る前に子どもをよく観察するがよい、というのです。その観察も、仮出所になった犯罪人を観察・補導する更生制度の保護観察とはまったく別次の「妙観察」です。

たとえば、私はいまは大人ではあるが、私にも子どもの時代が間違いなくあった事実を、まず自分のうえに観察するのです。そして、いま子どもたちがしている過ちやいたずらは、私もその年ごろにしたはずです。それを忘れているのを、わが子がいま私に見せていてくれるのです。たとい、そのいたずらを私が実際にしなかったとしても、する可能性はあったはずです。

このように、子どものうえに私を観察できたら、子どもへの叱り方が違ってまいります。居丈高(いたけだか)になって小言の言えるはずはなく、心の中で叱責する資格のないのを詫びながら叱れるでしょう。この柔軟な態度が、かえって突っ張る子の心をやわらげるでしょう。

このこころを拡大して、自分より年少者に出会ったら、過去の自分をその人のうえに観察すると、愛情と智慧のこもる観察の認識が得られましょう。それが妙観察智です。「あれは、私の若いときの私だ」と、文法でいう第一人称の過去の延長線上に、自分自身を観察するのです。

“年寄り笑うな行く道じゃ”も同じです。いまどんなに若くても、誰もが一日一日と老いていくのです。自分より高齢者に出会ったら「未来の自分」をその人に観察して、「あの姿は、数年後の私である」と認識できるなら、おのずと理解と愛情が生まれましょう。それが妙観察智です。

妙観察智は仏教思想に限りません。清教徒のバニヤン(バンヤン)は、清貧に甘んじた宗教文学者です。彼は、ある日のこと、路上で囚人が繋がれて行くのに出会います。街の人々は囚人たちを指して嘲笑するのですが、バニヤンは地面に突っ伏して泣きながら、神に感謝して告白します。

「もしも私が神の教えを聞くことがなかったら、私は必ず罪を犯したにちがいない。あの人たちは、私が罪を犯したときの私のすがたです……」と。

バニヤンの心境を仏教思想でいうなら、やはり妙観察智でしょう。

自分と他者とは確かに同じではありません。他者は他者、私は私です。それぞれに相対的存在です。そこに違いがあります。しかし違いはあっても対立的観念でなく、共通分母や最小公倍数、ないしは最大公約数を見つけるように、仏教思想はすすめるのです。
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