電脳筆写『 心超臨界 』

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( アナトール・フランセ )

読む年表 明治~戦後 《 教育勅語発布——渡部昇一 》

2024-06-29 | 04-歴史・文化・社会
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明治の日本は明治憲法と教育勅語の「二重法制」の国であったということもできる。形式としては明治憲法を日本の法体系の頂点に置くが、実際には教育勅語の精神で国家を統治するというのが、明治政府の本音であった。


◆教育勅語発布

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p190 )

1890(明治23年) 教育勅語発布
二重法制国家における実質的な憲法

明治憲法は文明国の体裁を整えるための“借り着”にすぎないとはいっても、国家を運営するにあたって、その“体質”に適った基本理念はあったほうがいい。理念がなければ、それは単なる「烏合(うごう)の衆」のようなものであり、国家とは呼べない。ところが、明治憲法だけでは、やや不十分と言わざるをえない。そこで、憲法発布の翌年、明治23年に教育勅語がつくられたのだと思われる。

戦前の義務教育では、明治憲法のことをほとんど教えなかったが、そのかわり、子供たちに徹底的に教育勅語を暗記させた。また、入学式卒業式や式日(しきじつ=元旦、紀元節、明治節)などでは必ず校長が教育勅語を読み上げた。それは教育勅語のほうが、実際の「憲法(コンスティチューション)」であったからだと考えれば分かりやすい。日本という国の体質(コンスティチューション)、つまり国体に合っていたのである。教育勅語は明治憲法のような法律の体(たい)をなしていない。大臣の副署(ふくしょ)もないから、明らかに法律ではない。書いてあるのは理念だけだが、「憲法」は本来、国家としての理念を示すのが目的であって、実際の運用は法律に任せればいいのだから、それでもかまわないのだ。

教育勅語がまず説くのは、日本人の伝統的な倫理観である。つまり万世一系の皇室の尊さを述べ、それから「親を大事にせよ」とか「友人や配偶者と仲よくせよ」、「身を謹んで学業に励め」、「人格を修養せよ」というようなことである。このような個人的徳目(とくもく)を並べたのちに、勅語は「一旦緩急(イッタンカンキュウ)アレバ義勇公(ギユウコウ)ニ奉(ホウ)ジ以(モッ)テ天壌無窮(テンジョウムキュウ)ノ皇運(コウウン)ヲ扶翼(フヨク)スベシ」と言う。

教育勅語の中で最も重要なこのくだりを読んで、「やはり教育勅語は軍国主義的だ」と思う人もいよう。昭和になってから、教育勅語の中の「天壌無窮ノ皇運」とか「億兆(オクチョウ)心ヲ一(イツ)ニシテ」という部分が強調されるようになったのは事実であるが、それは勅語本来の精神とは別問題である。感覚としては、「徳川家や大名である主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。これからは国家に忠誠を尽くせ」ということを言いたかったのである。

こうして見ていくと、明治の日本は明治憲法と教育勅語の「二重法制」の国であったということもできる。形式としては明治憲法を日本の法体系の頂点に置くが、実際には教育勅語の精神で国家を統治するというのが、明治政府の本音であった。

現代人の感覚からすると、二重法制は異常な状態のように思われるかもしれないが、律令と式目の関係をみればわかるように、日本は実はすでに長きにわたって二重法制国家だった。憲法と勅語の両立体制は、貞永元年(1232)の貞永式目(御成敗式目)以来、650年におよぶ日本の伝統なのである。憲法上に規定のない首相や元老制を設置しても誰も文句を言わなかったのは、そうした感覚が日本人の中にあったからだと思われる。
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