電脳筆写『 心超臨界 』

心地よいサマーレインのように
ユーモアは一瞬にして大地と空気とあなたを洗い清める
( ラングストン・ヒューズ )

日本史 鎌倉編 《 能を芸術に高めた足利義満——渡部昇一 》

2024-06-26 | 04-歴史・文化・社会
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義満が少年のころの世阿弥を、単に寵童趣味の相手として取り扱っただけなら、たいしたことではないが、当時は乞食と見なされていた芸人集団を、一挙に国民的芸術の域まで引き上げたのは偉大な功績と言わなければならない。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p231 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(3) 『風姿花伝(ふうしかでん)』――世界に冠たる教育論の誕生

◆能を芸術に高めた足利義満

これは、人の一生と芸術を絡み合わせて説いた傑作である。元来は秘伝の書物であったろうが、このような芸術の本が15世紀初頭に書かれたことに、私はまず驚く。

イギリスではチョーサーが死んだころであるが、これに匹敵するものはない。それは芸術論であるとともに、人生の書である意味において世阿弥は卓抜したモラリストであった。また文章力から言っても優れたエッセイストであった。

観阿弥・世阿弥のころから能は日本の芸術として、急に台頭してくるのであるが、それには将軍足利義満と関白二条良基(よしもと)の存在が大きな役割を果たしている。芸術が興るのは芸術家がいるだけでは足りず、スポンサーが要るのである。そしてスポンサーの種類が芸術の種類となる。

ルネサンスのイタリア芸術は、ローマ法王やメディチ家のような名家があったればこそ、興ったのであり、そのスポンサーの喜ぶような彫刻や絵を、ミケランジェロやラファエロは制作したのである。同じくドイツやオーストリアの貴族の耳が、バッハやモーツァルトやベートーベンを可能にしたのである。

同様にして、足利義満の趣味が日本の能を大成せしめた、と言ってよいであろう。

義満はホモであった。若いころの世阿弥は、顔立ちや姿が、「ほけほけとして、しかもけなりげ」であったというから、今の言葉で表現したらどういうことになるだろうか。

このころ、三条公忠(きんただ)が『後愚昧記(ごぐまいき)』の永和(えいわ)4年(1378)4月7日のところに、次のように記している。

「大和猿楽(やまとさるがく)(世阿弥の観世(かんぜ)座を含む、大和地方の猿楽四座)の児童を、去(さ)る頃より大樹(将軍)が寵愛して、席を同じくし、器を伝えている。このような猿楽は乞食(こじき)のやることである。それなのに、賞翫(しょうがん)して近くに仕えさせるのは、世にも不思議なことである。財産を出して、この児童に物を与える人は将軍の気に入るので、大名たちはあらそって褒美を与えた。それで、その出費は巨万に及んだ」

この記述から見ると、当時は能役者は乞食階級に見られていたのであるが、義満の寵童(ちょうどう)趣味とその鑑賞眼によって、一挙に能の地位は上がったことがわかる。

そして応永15年(1408)3月2日に、後小松(ごこまつ)天皇が室町第(むろまちてい)に行幸なされたとき、義満は猿楽を天覧に供した。この先例によって猿楽は宮廷にも召されるようになった。この意味で、義満は日本文化の大恩人であると言ってよいであろう。

一般的に言って、足利将軍の中には、人間的にはどうかと思う人物が少なくないのだが、妙に芸術的センスの発達した人が何人かいる。義満の金閣寺趣味や能もそれであるし、義政の風流や銀閣寺趣味もそうである。世の中の趣味を一変するというのはやはり権力者として一流だと言うべきである。

義満が少年のころの世阿弥を、単に寵童趣味の相手として取り扱っただけなら、たいしたことではないが、当時は乞食と見なされていた芸人集団を、一挙に国民的芸術の域まで引き上げたのは偉大な功績と言わなければならない。

また、義満の時代に生まれ合わせたという偶然に乗じ、54曲を下らない能楽や、20種もの伝書(芸術論)を書き、さらに役者としても、演出家としても、抜群の力量を示した世阿弥は、日本の世界に誇るべき天才であった。
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