電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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南京陥落の1月ぐらいは20万人であるが、1ヵ月も経つと、5万人増加している。当時の新聞記者も、落城の数日後には銭荘(せんそう)(両替屋)が開かれていたのを目撃している。治安恢復(かいふく)が口コミで伝わると、続々と難民が帰ってきている。当時の中国人の民衆は、自分の国の敗残兵よりは、日本軍の治安を信用していた。その後、南京は8年近く日本軍の下にあるが、民衆は増えこそすれ減らないのである。
◆なんと、全員殺しても30万に満たない!
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p427 )
では、まず第一に、昭和12年(1937)12月13日の南京陥落の直前に南京にいた人口はどのくらいであったか。それは当時の数多くの証言から、かなり正確に分かっているのである。まず、市民のほうから見てみよう(田中・前掲書『南京事件の総括』161ページ)。
15万人――フランクフルター紙特派員リリー・アベック女史が、
陥落直前の南京を脱出して書いた『南京脱出記』
(『文藝春秋』昭和13年2月号)
15万人――『ライフ』誌
10万人――張群思(ちょうぐんし)少佐(日本軍捕虜)
20万人――劉啓雄(りゅうけいゆう)少将(日本軍捕虜・のち汪
兆銘(おうちょうめい)政府軍官学校長)
12万余――松井大将の『陣中日記』
これらは、いずれも当時の証言であることに注目したい。
では、守備していた唐生智(とうせいち)将軍の数はと言えば、公文書では5万人。しかし、もっと丁寧に見ると、3万5000人ぐらいである。したがって、一番多い見積もりをしても軍民合わせて25万人、一番少ない見積もりで16万人である。よしんば全員殺されても、それだけということになるが、しかも、なんと、陥落直後に人口は急増しているのだ。
今日は忘れられがちであるが、日華事変はあくまでも事変であり、日中戦争ではなかった。おたがいに宣戦布告はしていなかったのである。したがって、当時の南京には欧米諸国の外交機関も赤十字もあり、機能していたのである。
戦争が南京に迫ると、金持ちたちは避難のため退却するものが少なくなかった。一方、欧米人が中心になって、南京安全区国際委員会が作られ、退去しない非戦闘員の市民の保護にあたっていた。この委員会は、安全区に保護している市民の食糧について心配しなければならないから、人口の把握はかなり正確である。
これによると、南京陥落の1月ぐらいは20万人であるが、1ヵ月も経つと、5万人増加している。当時の新聞記者も、落城の数日後には銭荘(せんそう)(両替屋)が開かれていたのを目撃している。治安恢復(かいふく)が口コミで伝わると、続々と難民が帰ってきている。当時の中国人の民衆は、自分の国の敗残兵よりは、日本軍の治安を信用していた。その後、南京は8年近く日本軍の下にあるが、民衆は増えこそすれ減らないのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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南京陥落の1月ぐらいは20万人であるが、1ヵ月も経つと、5万人増加している。当時の新聞記者も、落城の数日後には銭荘(せんそう)(両替屋)が開かれていたのを目撃している。治安恢復(かいふく)が口コミで伝わると、続々と難民が帰ってきている。当時の中国人の民衆は、自分の国の敗残兵よりは、日本軍の治安を信用していた。その後、南京は8年近く日本軍の下にあるが、民衆は増えこそすれ減らないのである。
◆なんと、全員殺しても30万に満たない!
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p427 )
では、まず第一に、昭和12年(1937)12月13日の南京陥落の直前に南京にいた人口はどのくらいであったか。それは当時の数多くの証言から、かなり正確に分かっているのである。まず、市民のほうから見てみよう(田中・前掲書『南京事件の総括』161ページ)。
15万人――フランクフルター紙特派員リリー・アベック女史が、
陥落直前の南京を脱出して書いた『南京脱出記』
(『文藝春秋』昭和13年2月号)
15万人――『ライフ』誌
10万人――張群思(ちょうぐんし)少佐(日本軍捕虜)
20万人――劉啓雄(りゅうけいゆう)少将(日本軍捕虜・のち汪
兆銘(おうちょうめい)政府軍官学校長)
12万余――松井大将の『陣中日記』
これらは、いずれも当時の証言であることに注目したい。
では、守備していた唐生智(とうせいち)将軍の数はと言えば、公文書では5万人。しかし、もっと丁寧に見ると、3万5000人ぐらいである。したがって、一番多い見積もりをしても軍民合わせて25万人、一番少ない見積もりで16万人である。よしんば全員殺されても、それだけということになるが、しかも、なんと、陥落直後に人口は急増しているのだ。
今日は忘れられがちであるが、日華事変はあくまでも事変であり、日中戦争ではなかった。おたがいに宣戦布告はしていなかったのである。したがって、当時の南京には欧米諸国の外交機関も赤十字もあり、機能していたのである。
戦争が南京に迫ると、金持ちたちは避難のため退却するものが少なくなかった。一方、欧米人が中心になって、南京安全区国際委員会が作られ、退去しない非戦闘員の市民の保護にあたっていた。この委員会は、安全区に保護している市民の食糧について心配しなければならないから、人口の把握はかなり正確である。
これによると、南京陥落の1月ぐらいは20万人であるが、1ヵ月も経つと、5万人増加している。当時の新聞記者も、落城の数日後には銭荘(せんそう)(両替屋)が開かれていたのを目撃している。治安恢復(かいふく)が口コミで伝わると、続々と難民が帰ってきている。当時の中国人の民衆は、自分の国の敗残兵よりは、日本軍の治安を信用していた。その後、南京は8年近く日本軍の下にあるが、民衆は増えこそすれ減らないのである。