電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

読む年表 明治~戦後 《 第二次上海事変――渡部昇一 》

2024-07-06 | 04-歴史・文化・社会
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蒋介石が狙(ねら)ったのは、「日本がシナを蹂躙(じゅうりん)している」というイメージを作り出し、国際世論の同情を集めようとすることであった。蒋介石は一般市民を犠牲にすることを厭(いと)わないばかりか、あえて欧米人の被害者を出すことで欧米の目を向けさせようとしたとも言われる。そのようなことで無差別爆撃をやったとすれば、これこそ“戦争犯罪”と呼ぶべきものであろう。


◆第二次上海事変(シャンハイじへん)

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p238 )

1937(昭和12)年
《 第二次上海事変(シャンハイじへん) 》
国際世論の同情を集めるため無差別爆撃を行った蒋介石(しょうかいせき)の犯罪

通州(つうしゅう)で虐殺が行われる一方、上海でも日本人の生命に危険が及んでいた。居留民(きょりゅうみん)保護のため駐屯(ちゅうとん)していた日本の海軍陸戦隊(米海兵隊とは違い、本格的な陸戦の装備を持っていない。居留民保護のための便宜(べんぎ)的な軍隊)に対し、国民政府軍の蒋介石(しょうかいせき)が戦闘をしかけたのである。

この「第二次上海事変(シャンハイじへん)」も、例によって戦後の東京裁判史観では「日本が蒋介石軍に対して攻撃をしかけた」ということになっている。だが、上海にいた日本海軍陸戦隊4千名に対して蒋介石軍は正規軍10個師団5万人を配置した。日本総領事館と商社の電話線を切断し、多くのシナ人を含む一般市民が逃げられないように道路をすべて封鎖したうえで民間人がいるに決まっているホテルなどを爆撃したのである。その結果、3千6百名あまりの死傷者を出した。この一事をみただけでも、日本が“侵略”したというような話でないのは明らかではないか。

蒋介石が狙(ねら)ったのは、「日本がシナを蹂躙(じゅうりん)している」というイメージを作り出し、国際世論の同情を集めようとすることであった。蒋介石は一般市民を犠牲にすることを厭(いと)わないばかりか、あえて欧米人の被害者を出すことで欧米の目を向けさせようとしたとも言われる。そのようなことで無差別爆撃をやったとすれば、これこそ“戦争犯罪”と呼ぶべきものであろう。

8月13日に蒋介石軍の攻撃が始まり、海軍陸戦隊だけでは日本人居留民を護(まも)りきれないことが分かったので、翌14日、日本は陸軍の派兵を決めた。すなわち、通州の惨劇を繰り返してはならないということである。急遽(きゅうきょ)派遣された第3師団と第11師団が上海附近に上陸したのは8月23日であり、それまでの10日間の海軍陸戦隊の奮戦は特記に値する。

上海戦線には、中国が10年も前からドイツの参謀将校を招いて作った陣地と武器が待ちかまえており、上陸した日本陸軍は日露戦争の旅順(りょじゅん)攻略戦のような人員の被害を受けた。国民政府が上海地区にトーチカや機関銃陣地などをドイツの参謀将校の指示に従って配備し、日本軍を誘い込もうとしたことは明らかである。第一次欧州大戦で近代的な陣地戦を経験したドイツの参謀将校を招いて堅固(けんご)な陣地を作ってから日本人居留地区に攻撃をしかけ、その救援に来た日本軍を殲滅(せんめつ)することなら可能であると蒋介石は考えたのである。

これは半ば正しかった。日本人居留民の保護に急派された日本軍は、それまで経験したことがないほどの将兵の死傷者を出したのである。この上海での戦闘にケリがついたのは杭州(こうしゅう)湾に急ぎ派遣された第十軍(柳川平助(やながわへいすけ)中将)が上海戦線の背後(はいご)を衝(つ)いたからであった。

いまからみて残念に思うのは、こうした陣地があり、その利用を蒋介石が考えていたことを、日本軍が事前に知らなかったことである。日本陸軍上層部のインテリジェンス(諜報(ちょうほう)活動)の怠慢(たいまん)というべきであろう。
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