ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

難解な表現

2008-11-25 08:02:42 | オーラソーマ

アザイアクトから、プラクティショナーに向けての新しいニュースレターが届きました。

いつも思うのですが、アザイアクトからの文章というのは、どうしてこうも持って回ったようなわかりにくい難解な表現なのでしょう。

どのくらいわかりにくい表現かということで、ここである記事をそのまま皆さんにもご紹介いたしましょう。

それは「漏れるティーポット」と題したコラムで、自分自身をティーポットにたとえると自分自身のエネルギーを否定的なことに無駄につかってはいませんか?というような記事でした。

そして、ある茶人のエピソードを使って紹介しているのですが、その部分を抜粋してみます。

『高い位にある、とても名高い人にお茶を出す準備をしていた茶の達人の素晴らしいストーリーを最近私は読みました。彼は自分の両手のひらが湿っていることに気づきました。その結果として、彼は自分の弟子のところにもどり、彼らにもう自分は彼らのマスターである価値がないことを伝えました。なぜなら彼がまだ階級と言う概念に動かされていたからです。それは謙虚さの欠如に彼がまるで囚われていたかのようでした。どちらにしても彼はその状況で対等で居ることができませんでした。


自分は普通で、十分ではない。彼は自分自身をジャッジしていました。そしてそれゆえにそのジャッジがその役人に投影され、「もし自分が失敗したら、その役人は自分を見下すだろうか?」と思いました。そしてさらに悪いことには、そういった投影に打ち勝とうとして、私たちはさらに踏み込んで、仮定をし、ジャッジする者をジャッジしてしまう傾向があります。

ある種のお茶のほうが、ほかのお茶よりも優れているといえるのでしょうか?あるいはある反応の方が他の反応よりも優れていると? それは、違いをつくる煎じる期間への私たちの態度です。こういったことを新しく測ってみてはどうでしょうか? どんな否定性もジャッジも、私たちが物事を本来見れるようにははっきりと見れていないことを意味しているに違いないとしたらどうでしょうか? このようにして、その茶の達人はもう一度物事の基盤に戻る必要があることを知りました。結局のところ彼はまだ教えたくないと思いました。

私たちは漏れるティーポットでしょうか? 自分の貴重なエネルギーを否定性に、助けにならないものに自己を同一化することに無駄にしていますか?』

ふう~っ。

こうして書き写していても疲れます。

私にわかったのは、最初のくだりで、ある茶の達人が位の高い人にお茶を出すときに人を立場の高さで見ることをせずに対等に向き合うのが茶の精神なのに、いざとなるとそういう人の前でまだあがっちゃってる自分に気づいて愕然とした、ということだけです。


それですら、私は1回目に読んだときには、何のことだかわかりませんでした。

というのは、単に「手のひらが湿っていた」という事実しか書いていないために、茶の葉という乾燥したものを扱うのに湿っていては役に立たない、ということを言いたいのか?と勘違いしてしまったからです。

つまり、手のひらが湿っていたことを文字通りに受け取りすぎたわけで、それがあがっている証拠とは受け取らなかったわけですね。

それ以降の文章にいたっては、もはや何をいっているのかちんぷんかんぷん。

アザイアクト流に言うならば、

「私は、この文章において、自分を見失っていることに気づいたようです。それは私の内に問いかけるべきことなのか、ライターに問いかけるべきことなのかすら不明です。少なくとも私にわかっていることは、私は文字を追っているだけで、文脈を追うことができていることではない、ということだけです。これは私が文字を読む視力はあるのだ、ということを喜ぶべきことかもしれません。」

とでも言いたい気分ですわ。

これは、いったい、英語が理解できる人ならば、原文を読めばさほどわかりにくいことではないのかどうか知りたいところです。
欧米の人はこういった持って回った言い方に慣れているのでしょうか?

それとも、翻訳の段階であまりに直訳がなされているためにこうなるのでしょうか?

いずれにしても、アザイアクトの文章にはもう1人、通訳を間にいれてください、と皮肉ではなく言いたくなります。

そもそも、昔から本を読むことは好きでしたが、海外文学にはどうしてもなじめませんでした。

今でも覚えていますが、「少年少女名作文学シリーズ」というようなある有名な名著に挑戦しようとしたときです。

登場人物にはウィリアムとメアリーがいました。

ふん、ふん。このふたりが主人公ね、と読み進めます。

すると、突如として、ビルという人物があらわれるのです。

なんじゃ、これは?  えーと、いつから紹介されてたっけ? この人・・と前のページに戻って何ページも何ページも本を繰ります。

しかし、わからない。

そんな人が何人もあらわれ、もうストーリーがよくわからないので、読むのをやめてしまいました。

ずいぶん、後になってわかりました。

ビルがウィリアムの愛称だってことに。

今でこそ、ビル・クリントンやウィリアム王子に代表されるように、日本人の誰もがビルとはウィリアムの愛称だということを知っているかもしれません。

しかし、小学生や中学生が知らんよ、そんなこと。

ウィリアムがウィリーになるならまだしも予測をつけようもあるというものだけれど、なんでウィリアムがビルなの?! どこにも「ビ」も「ル」も入ってないじゃん!

まあ、これは幼い私の読書におけるトラウマですが、このように欧米では当たり前の言い回しや表現で、日本人にはなじみがない、というものが往々にしてアザイアクトの文章のなかにはあふれているのではないか?と私はかなり懐疑的なのです。

アザイアクトは、シドニー・シェルダンの超訳でも多少みならって、もう少しかみくだいた表現にしてほしいわ。

少なくとも、アザイアクト日本支部に働いている日本人の人がこの文章を全国のプラクティショナーにそのまま印刷して渡せばいいと思っていること自体が信じられない。


なんだか、アザイアクトからの文章を読むと、そのたびにかゆいところに手が届かないようなもどかしさを感じる私なのでした。


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清濁併せ呑む

2008-11-24 07:20:11 | オーラソーマ

オバマ氏がどうの、厚生省事務次官が殺されてどうの、というトップ記事にまぎれて、ふとこんな記事が目に留まりました。

「ぜんそく原因細胞解明」。

なんでも、アレルギー性ぜんそくをはじめとした気道が過敏で病気になるものの原因となる細胞を突き止めた、という話です。

私はぜんそくではありませんが、アレルギーはもっています。

花粉症の時期になるとそれはもうたいへんなんです。というわけで、ちょっと興味を引かれて、その記事を読んでみました。

へぇ~、何が原因だったんだ?と読み進めた私は、が~んと頭を殴られたようなショックを感じました。

それによると、マウスを使った実験で、免疫を担う「NK細胞」(ナチュラル・キラー細胞)の一部に、ほこりやダニなどのアレルギーの原因物質からつくられるたんぱく質の「IL25」と結合する受容体があることを発見した、というのです。

研究グループによると、人間も同じ仕組みで発症していると考えられるから、この細胞の機能を抗体治療などで抑えれば、ぜんそくの症状の悪化を防げる、と言っています。

NK細胞」(ナチュラル・キラー細胞)というのは、専門的なことは何もわかりませんが、テレビの健康を取り上げた番組をチラチラ見ていると、よく登場する名前です。

つまり、あれでしょ。悪いヤツが体に侵入してきたりすると、このNK細胞がやっつけてくれるんでしょ。ナチュラル(自然な)キラー(殺し屋)なんだから、自分の体を守るために働いてくれる善玉の細胞なんでしょ。

じゃあ、このNK細胞を増やすにはどうしたらいいの、っていうと「笑って過ごすことだ」と聞きました。早い話が、精神的に落ち着いてなんでもポジティブに考えて過ごしていれば、自然にNK細胞も多くなり、病気にもかかりにくくなってよし、なんでしょ、と思い、NK細胞とはとにかく善玉のヤツなんだ、と固く信じていました。

そのNK細胞に! 悪いヤツとくっついちゃう性質のものが潜んでいたなんて!

こりゃ、ちょっとショックじゃありませんこと?

だって、たくさん居れば居るほどいい、って思ってたものが、いやあ、モノにはやはり限度ってものがありまして・・・こいつはこいつでクセモノのとこ、あるんすよぉ。一部の悪いヤツとはすぐ手を組もうとするんで、その働きを抑えることも時には必要なんですよね、という話ですわ。


つまり、話を進めれば、楽しく笑って過ごしてばかりでもいかん、ということ?

え? それは極端?

どうなんでげしょ。

でも、これで私はふとある言葉を思い出したんです。

「清濁併せ呑む」。

つまり、清らかなこともそうでないことも、区別なくあるがままを受け入れる。

ひいては、そういうことが出来る人は、度量が広いよなあ、と言うときに使われる言葉ですよね。

今回のNK細胞の話は、白黒の線引きというのは実にむずかしい、世の中ってほとんどがグレーゾーンが多いですもんね、という概念ではなく、白だと思っていたら、白のなかには黒の要素もあるんだね、と言う話ですもんね。

こりゃあ、もうこうなったら度量が広いも狭いもなく、「清濁併せ呑む」しか仕方ないってことでしょう。

Photo それで、54番の「セラピス・ベイ」を思いました。

セラピス・ベイとは、上下ともクリアの無色透明のボトルです。

今、くしくも「無色」と書きましたが、見た目にはまったく無色に見えるのですが、実はこのボトルは無色ではありません。

むしろ、全ての色を含んでいる、ということなのです。

光を通して色をつくる加減法でできているオーラソーマの色の場合、色は数を加えて混ぜれば混ぜるほどより光が当たり、ペールとなり、最終的にはまったくクリアになってしまいます。

目に見える色としては無色透明でも、実はそこはあらゆる色の宝庫、どんな色よりも色数が多い、という言い方もできるわけです。

これは「清濁併せ呑んでいる色」といえないでしょうか・・

何もかもを知っていて、それでいて何もかもを受けいれている色・・

このボトルとワークすると多くの人が、自分の今までつらかったことや真正面から立ち向かわなければならなかったけどつい目を背けていたことなど、さまざまなものを今一度見せられて、つらくてつらくてなかなか1本使いきれない、と言います。

大体、107本も色とりどりのカラフルなボトルが並ぶなかで、上下ともまったくクリアのボトルに惹かれる人、というのはやはりちょっと特異なような気がします。

自分の人生と向き合いどきなのか、よほど「清濁併せ呑んできて」自分自身が無垢なクリアな状態になってしまったのか、よくわかりませんが、私は今までに一度も自分自身では選んだことがありませんし、当分、惹かれることもないでしょう。

だから、このボトルとはなかなか縁がないな、と思っていたら・・

なんと!

数本のボトルを発注したら、中に1本先方の手違いでなぜかこの54番のセラピス・ベイが入っていたのでした。

これは、いよいよ私にこのボトルとワークしろ、ということなのかもしれない・・


私は割りと、こういう縁というのを大切に考えるところがあります。

手違いなら、正せばもちろん変えてもらえるわけですが、まあまあ、これも何かの縁だから、というように。

もちろん、その反対のときもあります。

すごく自分が望んでいたことなのに、なぜか縁がないと、もういいや、ってあきらめてしまうことも。

以前に、大好きな岩盤浴で新しくて広くてお値打ちな店ができたので、行って見たら、なんと年中無休のふれこみなのにもかかわらず、従業員のための研修ということで急遽お休みになっていたことがありました。

そのときは、あれあれ、ウンがなかったこと、と思ったくらいでしたが、改めて1ヶ月後くらいに再チャレンジしてみたら、なんと、またお休み!
こうなると、もうこのお店とは縁がなかったのね、と思い、何か私はそこに行かないほうがいい、という波動があるのかもしれないとまで思い、2度と行かないようにしようと決めてしまいます。(だから、その後はそのお店には行っていません・・)

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番のセラピス・ベイを眺め、う~ん、使い時なのかどうか・・

でもつらくてつらくて、なんて日々が訪れたら滅入りそうだなあ・・

年末は忙しいからもう少し寝かせておいて、ちょっと余裕ができてからにしようかなあ・・

なんて、ぐずぐず考えております。

腹のくくりどきかも、ね。



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数字の持つ意味

2008-11-22 06:50:59 | 精神世界

「はじめに数字ありき」。ピタゴラスはそう言いました。

「はじめに音ありき。」「はじめに色ありき。」結局なんでもいいんです。すべての源は波動ですから。


というわけで、でもありませんが、再び「都市伝説」からです。

あらゆる商品につけられているバーコード、あれは、どれもみな、バーコードの両端と真ん中が「6」を表すコードになっているそうです。つまり、「666」・・・

きゃーっ!オーメンだわ~

もともとバーコードは商品につけられるものではなく、「1億総背番号制」ではありませんが、人間を識別するために人につけられるものだったとか。

欧米の話ですから日本のように「1億」ではすみませんよね。


アップル社のロゴマークは黒い点々をつなげてつくってあるものだけれど、その黒点の数がすべて「6」で構成されているとか・・・・

今はあまりこのマークはつかわなくなったらしいけど。

ビルゲイツがフリーーメイソンなのかしら・

オーラソーマでもボトルのナンバーには意味があると言われています。

実際にはボトルが出来た順番にナンバーがふられているだけなのですが、その数字が意味をもっている。

創設者のヴィッキー・ウォールの父親はカバラのマスターでした。

カバラの奥義は一子相伝でしか伝えられません。

ヴィッキーは7番目の子供で女の子でしたから、父親からカバラの奥義を学ぶことはできませんでした。でも、ヴィッキーの能力を見抜いていた父親はそれとなく一緒に遊んであげるような中でカバラを伝えたのではないかしら。

で、ヴィッキーは見よう見まねでカバラを学んだ、と。


というわけで、オーラソーマのボトルの数字やその読み取り方にはカバラの数秘が生きています。

そのリーディングの際には大概一桁になるまでリダクションしていくのですが、

どうして、一桁の「1」~「9」までの数字にそんなに意味があるのだろう、と不思議には思いませんでしたか?

10以上の数字には意味がなくなるの? とか、1~9というサイクルではなくて、人間は12ヶ月のサイクルで暮らしているのだから、12までのサイクルとして捉えたほうが自然ではないか、とか。


それは、「命の誕生」に由来するもののようです。

ひとつの命が生まれるとき、細胞分裂を繰り返します。

1が2となり、2が4となり、4が8となる。

そして、8となったとき始めて「命」と呼べるようなものとなるらしいです。

そしてそのときには、その外にもうひとつ細胞があるということだから、全部で9。

私のサイクルナンバーは今年が「6」で来年が「7」。

飛躍を遂げる年なのですが、一気にコトを運ぼうとするのではなくて、むしろ、静かにいろんな情報を吸収して過ごしたほうがいいらしい。

ふむ、ふむ。

納得。自分のタイプからしても、本当に自分のものとして腹に落ちないとそのあと動けないので、そのためにも私にとっては勉強は大切なことです。


ちなみにダーリンのサイクルナンバーも出してみた。

なんと!

全く、同じ・・・

バースナンバーやらテーマナンバーやらほかの数字は全部違うのに(まあ、それで当然なんだけど)、サイクルナンバーだけ全く同じ!

よかったぁ~

だって、ひとりが心静かに過ごすべき年なのに、もうひとりは外に向かってどんどん飛び出していくべき年、ということになれば、なんだか生活がはちゃめちゃになってしまいそうだけれど、ふたりとも目指すものは違ってもサイクルが同じであれば、生活の足並みが揃うから。


今年の「6」と言う数字は「家族への愛情に目が行くときだから、結婚も離婚も多いでしょう」とありました。

私たちが今年結婚したのも、この「6」というサイクルによるものだったのかなあ。

以前に、四柱推命の人に言われたことがあった。

「運命は確かに変えることができるけれど、流れに乗る人は人生がスムーズに流れる。本人が気づいているか気づいていないかは別として、流れに逆らうようなことをしている人は、物事がうまくいかなかったり、つらい人生を歩むことになる。あなたの場合は、知らないまにだったんでしょうけれど、今までの人生は比較的、うまく流れにのって逆らわずに来ていますよ。」って。

ラクするためだけに運命どおりに生きようとは思わないけれど、結果的にそうなっているということは、私のばあいはもともとのブループリントを直感で探り当てることができている、ってことなのかなあ。

まだまだこれから何があるかわかりませんが、来年はひとまず、ダーリンともども次の年への新たなステップのためにも、アウトプットよりもインプットを中心に心静かに過ごしたいと思っております。(・・とはいいつつ、インプットすると溜め込まずにアウトプットも適度にしないと、次のインプットするものが入ってこないんだよね~。お金も一緒だと思うけれど。惜しまずにアウトプットはするよん。)


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専門大店の増殖

2008-11-21 07:59:19 | 社会・経済

H&M」というスウェーデン版ユニクロが大人気だそうです。

ここが人気の秘密は、ユニクロのように例えばフリースならフリースを大量生産することによってコストを抑えるのではなくて、けっこうおしゃれでトレンディなデザインものが多く、売り切れごめんのある程度数をつくって売りさばいたら、はい、終わり、次いきますよ~というところらしい。

そして、それが結構お値打ち、ときたら消費者心理、たしかにくすぐられるわな~。

Hm_005 先日、日本第一号店の銀座店につづいて、原宿店もオープン、しかも原宿店には「コム・デ・ギャルソン」とのコラボ商品が登場、ということで銀座店よりも並ぶのではないか、とテレビのワイドショーでも煽るように取り上げていました。

コム・デ・ギャルソンでなら、3万円はくだらないであろうシャツとかが7900円らしい。

そんなニュースを見た矢先、会社の人がちょうど出張で東京原宿にいき、打ち合わせにちょっと間があいたので、「どれ、どうせ並んでいて入れないだろうけど、その様子だけでも話のネタに。」と思ってH&Mに行って見たら、なんと意外にも15分ほどで入れそうだ、ということ。

そこで名古屋にいた私に電話がかかってきました。

「今から、H&Mをちょっと見てきますよ~」

「えっ! だったら、頼めるなら頼んでもいいかな~」と野次馬根性丸出しのわたくし。

「あのさ~、買えたら、あったら、でいいんだけど、コム・デ・ギャルソンとのコラボ商品、1万円以下でよさそうなものあったら、何でもいいから買ってきて。」

「わかりました。」

というわけで、20分後、再び電話が鳴り、

Hm_004 「ゲットしましたよ~! 水玉模様のシャツ。紺のは全部売切れでしたけど、何とかこの色ならサイズ切れを起こしながらも若干残ってました。」

「ありがと~!」

そして、次の日。

そのシャツを前述の会社の人から受け取るとき、その人いわく、

「いやあ、まいっちゃいましたよ。帰りの新幹線のなかからずっとみんながチラッ、チラッとH&Mの袋を見るんですよぉ。なんかすごく視線を感じてヘンな気分でしたぁ。」

「どういう種類の視線? ケッ、マスコミにのせられて行ってきてらあ、って感じの冷たい視線なの?」と聞くと、

「いやいや、そうではなくて、羨ましいな、っていう羨望の視線ですよ。あれは多分。」

へえ~、そうなんだぁ。

と、その袋を受け取って名古屋から岐阜に帰ろうとしたその日の会社がひけてからのHm_003 とき。

やはり、私も同じような視線をバシバシ感じたのでした!

みんな、欲しいけれどそのためだけに東京に新幹線代使っていくのもな~、って感じなのかなぁ?

その後、再びテレビでH&Mから出てきた人をインタビューしているのを見て驚きました。
みんな、一人当たり10万とか20万円も買ってるんだ!

そこで思いました。

この人たちがさほどお金持ちとは思えないし、たぶん10万~20万というのは、どう多く見積もっても、1シーズンに賭ける被服代もしくはそれ以上でしょう。

ということは、本日H&Mで買い物をしたことによって、この人たちは洋服に関しては、もうこの秋冬どこにも買い物には行かないに違いない。
今まで、1シーズンに45店の店で買いまわりをして、それぞれの店で1着か2着ずつくらい2万円程度を落としていたとしたら、その店は今年は0円ということですよね。

う~ん、これはすごい世の中になってきたなぁ、というのを実感しました。

昔から、小さな町の商店街のそばに大きな百貨店やらスーパーやらが出来ると商店街ではたちまち客単価が落ちるので、建設反対運動が起こったりしていましたよね。

でも、それは買うほうの立場からすると仕方がないじゃないの、と思っていました。

自由競争の民主主義国家に生まれたんだし。

なんでもかんでも反対じゃあ、話にならないよ。そんなことにエネルギー使うんなら知恵を絞って、なんとか品数はたくさんある、っていう専門大店や量販店に勝つ工夫をしたほうがいいんじゃないの、なんて冷ややかに見ていました。

でも、それは20000円だった単価が18000円に落ちた、とかの場合でしょう。

20000円あった売り上げが一気に0円になる。

ある日、突然出現した外資の専門大店によって。

確かにこれではおまんまの食い上げでしょう。

これは、いきなり後ろからハンマーで頭をなぐられたような不意打ちで、愕然とするし、手の打ちようがないと立ち上がる気力を失ってしまうのを責められないな、と。

こつこつと昔から親の商売を受け継いで生きてきた人たちにとっては、とても生きにくい世の中になっているのだな、ということを痛感しました。

なんでも変化が極端すぎるように思います。

スローライフを提唱するのなら、食べ物やエコだけではなくて、人々が生活をしていくための基盤である生活に密着した商売のことから考えていかないとそのうち、破綻する人はどんどん増えてしまうでしょう。(ま、コラボ商品を買った私が言うのも気が引けますが・・)




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「平和」と言う産業

2008-11-20 07:57:41 | 社会・経済

先週、テレビの「世界一受けたい授業」を見ました。

時々、この番組はとても興味深い、ほかのメディアでは決して取り上げないことをやってくれます。
このときは、戦争を停戦させるために武器を回収する請負人という人が登場して、世界のあちこちで起こっている戦争や紛争についての生の声を届けてくれました。

驚いたのは、この方の肩書きが単にどこかの大学の教授であったこと。(日本人の男性です。)

そりゃあもちろん、「武器回収請負人」なんて仕事名はないにせよ、いったいどこからそういう職業の要請があるのか・・

それはやはり日本政府だそうです。

この方いわく、(すみません。先ほどから「この方」というような言い方をしているのは、たんに名前を失念したからです。)

「戦争は広告によって起こる。」

アメリカが湾岸戦争に突入を決定したのも、遡れば、アメリカ議会があるときクウエート人の少女を証人によび、この少女が涙ながらにイラク人がいかにひどい虐殺を母国でくりひろげたか、を述べたことにより視聴者が同情し、一気に世論が高まったからだ、と言います。

そして、なんと、この少女は実はアメリカで生まれ、アメリカで育ち、一度も母国に足を踏み入れたことなんてなかった少女だったのだとか!

これにはびっくりです。

そして、この少女を証人喚問に呼んだのはある大手広告PR会社が仕組んだことだ、というのです。

またまた、びっくり!

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世紀に入ってからいくら戦争は情報戦だ、とはいってもそれは相手の動静を知るためのものだとばかり思っていました。

戦争自体が広告により仕組まれたものだった、なんて!

彼はつづけました。

「第二次大戦で日本がした無条件降伏などという戦争の終結の仕方は、今後二度とありえない。

ときどき、私自身も前線に行って、説得していると何が正しいことなのか、わからなくなる。結局、『正義』が大切なのか、『戦争をやめさせる』ことを優先するのかギリギリの選択を迫られることになる。そんなとき、とりあえず戦争をやめさせることのほうを私は取るしかなく、決してそれが正義でない場合もある。」と。

その例として、アフリカの最貧国であるシエラレオネでは、何十万人も虐殺した首謀者に何の罰も与えず、政府の副大統領に据えることによって内戦が終結したということを話されていました。

そして、最後に、

「結局、戦争が始まるのがそれをやったほうが儲かる産業があるから、ということであれば、逆に平和になったほうが儲かるという産業をつくればいいわけです。」と。

いかにも正義という机上の空論より、目の前の戦争をやめさせるほうを選択してきた、現場の声らしい声だな、と思います。

確かに死ぬか生きるかという状況にいつもさらされていれば、正義なんてみみっちいものに過ぎない、ということはそんな経験をしたことのない私にもなんとか想像はつくもんね。

「踊る大捜査線」の青島刑事の名セリフ「事件は会議室でおこっているんじゃない。現場で起こっているんだ。」を持ち出すまでもなく、平和と言うぬるま湯につかっている私が、生きるか死ぬかの最前線を経験してきている人に言えることは何もありません。

でも、何かしら一抹の釈然としないものを感じたことも確かなんです。

それは、なんなんだろう・・?


「平和と言う産業をつくってしまえばいい。」
それは確かに世界の現状を考えたとき、そのとおりでしょう。

でも、それはある一定の方向へ導く力強いものがあったとき、180度の方向から逆の、同程度の力で引っ張るとバランスのとれた世界が出現する、ということにすぎないのであり、やはり決して根本的な解決ではない、ということを下々の我々がきっちりと認識したうえでないと、またそのバランスが少しでも崩れた場合、極端に走る世界が出現すると思えて仕方がありません。

平和を産業とした商売が横行した場合、何か悪いことでも起こるの?結構なことだらけじゃないの?と思われるかもしれませんが、そして私にもほら、こういうことが考えられるじゃないの!と言うものを提供できるわけではありませんが、ただ何でもバランスが極端なものになると良いことではない、という予感がするだけです。

以前にも書いたことがあるように思いますが、オーラソーマはそもそも「自分自身のバランスを取り戻す」セラピーです。

そもそも「癒し」とは副交感神経が強く働き、交感神経がおやすみすることですが、それはその場限りの癒しであり、決して「気づき」は得られません。

癒されながら、イクイリブリアムボトルの色の液体を身にまとい、それによって何かしらに気づく。これで初めて、副交感神経と交感神経のバランスがとれ、ちょうどよいポジションに自分の身をおくことができるのがオーラソーマです。

まったく、よく出来たシステムだわ~。

「平和と言う産業」。

そういう意味ではオーラソーマはすでに平和をビジネスにしているものなのかもしれません。

そして「平和」が「平和のなかにいることには気づかないぬるま湯のような状態」のことを言うのであれば、「平和をビジネスにした産業」が成り立つのもむずかしいでしょう。だって、それが平和のおかげで成り立っているのかどうか判別がつきませんもん。そもそも「平和」というのはそういう性質があるものなのかもしれませんね。

それに比べて「戦争」はそれを「起こした」から成り立っているビジネスというのが明確になるぶん、それを産業にする人たちも現れるというわけです。


前に「プラーナ2」で、「一般に説得力のある人というのは、プラーナのエネルギーを無意識に使いこなしている人のことだ。」と書きました。

それでいくと、戦争を起こすのも、それを集結させて真逆のベクトルの平和と言う産業をつくりだすのも、世界でもっとも説得力のある一握りの人が起こしていることであるといえるのでしょうか・・

そういう意味で、「説得力」をいつもいつも真に受けてはいけない、ということであれば、自分もその説得力を(使うかどうかは別としても)、身に付けないといけないということになります。

そのためには「呼吸」が宇宙とつながっていることを認識する必要がある、ということ。

う~ん。

自己鍛錬の道というのは簡単なようで、険しいものですね。

少なくとも、「平和」を産業ととらえてビジネスにする人たちは、それが「お金になるから」ではなくて、「本当の意味での人類の魂の救済になるから」ということを根本に据えたうえでやってほしいし、産業にすることを正義のようにふりかざして、マスメディアにこなれていない状態で垂れ流すのはやめて欲しい、と思いました。




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