皆さんは「これはもう奇蹟というしかない」という経験をされたことがありますか。私は今迄生きて来た人生の中で、何回も信じられない様な経験をしました。開設してから10年目に入ったこのブログで、それらは紹介しましたから、きっと想い出す人もおられることでしょう。
立山の登山中に、逢う筈もない遠い故郷の実家の隣人と、ほんの僅かな時間なのに出会った話も、車で京都府丹後あたりを走っていて、「明日はこの橋を渡って次の旅先へ行けばよい」と私も夫もそう思ったのに、実はそこは海辺で橋などのない所でした。その上私と夫が見た橋の色も形も違っていたのでした。
その日泊まる予定のホテルにたどりつけたのも、雨の日暮れで普段は人の居ない所に、その日に限って働いていた人が数人いて、ホテルまでの道を教えて貰えたからです。もし、もう少し遅くて夜に入っていたら・・・、と思うとゾッとします。
北海道12日間の車の旅では、霧の摩周湖が、珍しく良く晴れた日だったので、奇蹟的に小島までもハッキリと見え、幸せでした。その日泊まった川湯温泉の、ホテルで知り合ったご家族が、私達の住んでいる市から開拓民として入植した人の末裔でした。
はるばるこのような所へ来ていて、浴場で出会って名乗り合うことになるなんて、神さまの思し召しとしか、考えられません。お互いに奇遇を喜び、親しく話しを交わす事になりました。
すれ違っていて当たり前のところを、わざわざ合わせて頂くと云う事は、矢張り奇蹟なのでしょうね。どれも忘れられない思い出になりました。
過日、五月晴れのある日の出来事です。思いがけない時間に、とても逢いたかった人に逢う事が出来ました。それは何時もの日課と言うよりは、その日に限って私の段取りが間に合わず、朝朝の花鉢への水やりも遅くなり、身支度も間に合わなかったのです。
その日に限って、普段より遅い時間のウォーキングになってしまいました。いつもの道順に従って歩いて居て、神さまの思し召しとしか思えない、素晴らしい出会いに恵まれました。
相手は天使のように可愛い、私達夫婦の大切な4歳の友人です。様々な人と出会うという奇蹟は、確かに神さまからの贈り物ですが、今回ばかりは、これがラストチャンスだと聞いて、沢山のハイタッチをして貰いました。小さな手とあの満面の笑顔と、跳び上がって喜んでくれた友人は、一生忘れられない思い出になりました。
お母様のお勤めが変わって、もうその日が最後でしたのに、何と運の良いことだったのでしょう。それも何時もの時間ではなく、まごまごしていて遅くなったのに、何故神さまは会えるように時間調整して下さったのでしょうか。神さまには特別の時間のお計らいがあるようです。
もう先の短い私達に、せめてもの贈り物だったのかも知れない・・・と私達は何度も話しては、感激を新たにしています。奇蹟とか偶然とか言われる出来事は、誰しも人生の中で、数え切れない程あるのでしょうが、これを神様からの贈り物と受け止めれば、一層印象強く心に残るのではないでしょうか。
加えて忘れられないのは、父や母の思い出です。これはきっと誰もがそうなのでしょうけれど、父母の恩の深さを思うと「私は未だ未だ父母を乗り越えられない」と思います。父は筆まめでしたから、嫁いだ後も私に手紙を書いてくれました。「多分こういう手紙はもうそろそろ書けなくなるのでは」と思った頃から、私は折りにふれて届く父の手紙を保存していました。今も私の机の引き出しに、晩年の何年間かの手紙がしまってあります。
わが家へ訪ねて来て呉れた時の手紙には、夜遅く駅から家まで、「とても月が美しいので、二人で歩いて帰った」とあります。達筆で愛情に満ちていましたし、何時も仲の良かった父母の様子が伝わって来て、私には何歳になっても、とても書けない手紙です。
いつでしたか「私は大勢の子供達の中でも、父には特に可愛がって貰ったように思う」と夫に言いましたら、夫は「本に書いてあったのだけれど、矢張りそう思う人がいて、他のきょうだいに聞いてみたら、みんな同じくそう思っていたそうだよ」と言いました。
初めてこれを聞いた時は、信じられない気持ちでしたが、後に良く考えてみると、親というものはそういうものなのかも知れない、と納得するところもありました。母はとても公平な人でしたから、どのきょうだいも分け隔てなく、同じように接していたと思っています。
母は晩年、私の住む市に引っ越してきて、弟に最後までお世話になり、穏やかに過ごしました。私も毎週弟の公舎へでかけては、弟の出勤後の話し相手をしました。最後は病院で亡くなりましたが、少しは恩返しのまねごとができたのかな、と有難く思っています。
亡くなる近くになっても、最後の一人になった女学校の友達に手紙を書く時には、何時もさらさらと和歌(母の女学校時代は短歌と言わず和歌でした)を最後にしたためていました。私はその才能に目を見張りました。母は女学校の授業では和歌は得意だったと言っていましたが・・・。和服に袴で革靴を履き、オルガンの前に立った母の二十歳頃?の写真が残っています。父も母ももう可成り前に亡くなりました。
私は実父母よりも義父母と暮らした時間の方が、ずっと長く、そう言う面では、義父母の恩もとても深いものがあります。毎朝食後にお座敷の仏壇の前に夫と座って、般若心経を上げるのが日課です。遺影を眺めながら思い出を紡ぎ、その時間は特に心が救われる思いがする時間です。
私の大切な友人達も、夫の友人達もそれぞれ思いがけない出会いによって、今の温かく穏やかな老後の人生があるのですから、この大きな奇蹟には、矢張り神のご配慮があったものと、感謝しなければならないと思っています。
様々な事件や事故があって、毎日テレビを賑わせながら五月は過ぎて行きました。世界に戦が無く平和に過ごせて、皆々さんが幸せでありますように、今こそ人類は知恵を絞って欲しいと、念じないではいられません。
4歳の友人の掌が余りにも優しく、余りにも温かったのが忘れられません。これからの人生が幸せに満ちたものでありますように、祈っています。
立山の登山中に、逢う筈もない遠い故郷の実家の隣人と、ほんの僅かな時間なのに出会った話も、車で京都府丹後あたりを走っていて、「明日はこの橋を渡って次の旅先へ行けばよい」と私も夫もそう思ったのに、実はそこは海辺で橋などのない所でした。その上私と夫が見た橋の色も形も違っていたのでした。
その日泊まる予定のホテルにたどりつけたのも、雨の日暮れで普段は人の居ない所に、その日に限って働いていた人が数人いて、ホテルまでの道を教えて貰えたからです。もし、もう少し遅くて夜に入っていたら・・・、と思うとゾッとします。
北海道12日間の車の旅では、霧の摩周湖が、珍しく良く晴れた日だったので、奇蹟的に小島までもハッキリと見え、幸せでした。その日泊まった川湯温泉の、ホテルで知り合ったご家族が、私達の住んでいる市から開拓民として入植した人の末裔でした。
はるばるこのような所へ来ていて、浴場で出会って名乗り合うことになるなんて、神さまの思し召しとしか、考えられません。お互いに奇遇を喜び、親しく話しを交わす事になりました。
すれ違っていて当たり前のところを、わざわざ合わせて頂くと云う事は、矢張り奇蹟なのでしょうね。どれも忘れられない思い出になりました。
過日、五月晴れのある日の出来事です。思いがけない時間に、とても逢いたかった人に逢う事が出来ました。それは何時もの日課と言うよりは、その日に限って私の段取りが間に合わず、朝朝の花鉢への水やりも遅くなり、身支度も間に合わなかったのです。
その日に限って、普段より遅い時間のウォーキングになってしまいました。いつもの道順に従って歩いて居て、神さまの思し召しとしか思えない、素晴らしい出会いに恵まれました。
相手は天使のように可愛い、私達夫婦の大切な4歳の友人です。様々な人と出会うという奇蹟は、確かに神さまからの贈り物ですが、今回ばかりは、これがラストチャンスだと聞いて、沢山のハイタッチをして貰いました。小さな手とあの満面の笑顔と、跳び上がって喜んでくれた友人は、一生忘れられない思い出になりました。
お母様のお勤めが変わって、もうその日が最後でしたのに、何と運の良いことだったのでしょう。それも何時もの時間ではなく、まごまごしていて遅くなったのに、何故神さまは会えるように時間調整して下さったのでしょうか。神さまには特別の時間のお計らいがあるようです。
もう先の短い私達に、せめてもの贈り物だったのかも知れない・・・と私達は何度も話しては、感激を新たにしています。奇蹟とか偶然とか言われる出来事は、誰しも人生の中で、数え切れない程あるのでしょうが、これを神様からの贈り物と受け止めれば、一層印象強く心に残るのではないでしょうか。
加えて忘れられないのは、父や母の思い出です。これはきっと誰もがそうなのでしょうけれど、父母の恩の深さを思うと「私は未だ未だ父母を乗り越えられない」と思います。父は筆まめでしたから、嫁いだ後も私に手紙を書いてくれました。「多分こういう手紙はもうそろそろ書けなくなるのでは」と思った頃から、私は折りにふれて届く父の手紙を保存していました。今も私の机の引き出しに、晩年の何年間かの手紙がしまってあります。
わが家へ訪ねて来て呉れた時の手紙には、夜遅く駅から家まで、「とても月が美しいので、二人で歩いて帰った」とあります。達筆で愛情に満ちていましたし、何時も仲の良かった父母の様子が伝わって来て、私には何歳になっても、とても書けない手紙です。
いつでしたか「私は大勢の子供達の中でも、父には特に可愛がって貰ったように思う」と夫に言いましたら、夫は「本に書いてあったのだけれど、矢張りそう思う人がいて、他のきょうだいに聞いてみたら、みんな同じくそう思っていたそうだよ」と言いました。
初めてこれを聞いた時は、信じられない気持ちでしたが、後に良く考えてみると、親というものはそういうものなのかも知れない、と納得するところもありました。母はとても公平な人でしたから、どのきょうだいも分け隔てなく、同じように接していたと思っています。
母は晩年、私の住む市に引っ越してきて、弟に最後までお世話になり、穏やかに過ごしました。私も毎週弟の公舎へでかけては、弟の出勤後の話し相手をしました。最後は病院で亡くなりましたが、少しは恩返しのまねごとができたのかな、と有難く思っています。
亡くなる近くになっても、最後の一人になった女学校の友達に手紙を書く時には、何時もさらさらと和歌(母の女学校時代は短歌と言わず和歌でした)を最後にしたためていました。私はその才能に目を見張りました。母は女学校の授業では和歌は得意だったと言っていましたが・・・。和服に袴で革靴を履き、オルガンの前に立った母の二十歳頃?の写真が残っています。父も母ももう可成り前に亡くなりました。
私は実父母よりも義父母と暮らした時間の方が、ずっと長く、そう言う面では、義父母の恩もとても深いものがあります。毎朝食後にお座敷の仏壇の前に夫と座って、般若心経を上げるのが日課です。遺影を眺めながら思い出を紡ぎ、その時間は特に心が救われる思いがする時間です。
私の大切な友人達も、夫の友人達もそれぞれ思いがけない出会いによって、今の温かく穏やかな老後の人生があるのですから、この大きな奇蹟には、矢張り神のご配慮があったものと、感謝しなければならないと思っています。
様々な事件や事故があって、毎日テレビを賑わせながら五月は過ぎて行きました。世界に戦が無く平和に過ごせて、皆々さんが幸せでありますように、今こそ人類は知恵を絞って欲しいと、念じないではいられません。
4歳の友人の掌が余りにも優しく、余りにも温かったのが忘れられません。これからの人生が幸せに満ちたものでありますように、祈っています。