ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

災難を逃れて「すまない」と言う日本人

2017年01月15日 | 随筆
 災難というものは何時やって来るかも知れず、予知出来るものもあるようになりましたが、「運命」としか言いようのない場合が多くみられます。
 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」と、これは良寛禅師の有名なことばです。悟りきった良寛禅師ならこその言葉です。
 幾つかの災難に逢った時に、日本人の取った行動を見ていますと、日本人の死生観とか、運命共同体としての一体感、控えめな態度等に、心を打たれることがありす。
 特攻隊員であった人が、たまたま自分が出撃する日が近い時に終戦になり、生き残った人が居られました。復員後に医科大学に進まれて、最後の役職は大病院の院長になられたのですが、その方の生き方は、身を粉にして働いて職務に邁進する生き方でした。
 小児科医でしたから「子供は何時病気になるか分からない」と仰って、一年で病院を休むのは、正月元旦のみで、日曜日も出勤されていました。勤務に対する情熱に対して、勤めて居られた職員の皆さんにも大変尊敬されていました。「私は特攻の生き残りだから、先に出撃して亡くなられた人達に、生き残った私は申し訳ない」と仰っておられたそうです。
 何故か、土日になると病気になったわが家の二人の子供達も、急に高い熱を出したりして、その都度お世話になりました。難しい病気に罹った時は、発売されたばかりの薬を処方して頂いて、助かったこともあり、そのご恩は決して忘れられません。
 戦没画学生の画集を何冊か、夫がその医師に頂いたのがご縁で、私達も夫の車で長野県の「無言館」へ二度訪れることに繋がりました。亡くなられるまで夫は親しくおつき合いをさせて頂きました。
 激戦の生き残りで、同じく「生き残ってすまない」という元兵士は沢山おられます。例えば「戦艦大和」の乗組員で、搭載した主砲を一度も撃つことなく、鹿児島県の坊ヶ崎で、烈しい戦火の中を沈没したのですが、海に飛び込みからくも助かった人もありました。手近に木材のような捕まっていればかなりの時間は海の上に生きて居られた人達が、漂い続けて助け上げられました。当時の乗組員は3300名とも言われ、生き残った人は、その内の276名だったそうです。
 今から五年前に、呉で精密に作られた十分の一の戦艦大和を見学して来た私達は、残された遺品や、資料、人間魚雷の実物も展示されていて、痛々しい思いで眺めて来ました。敵機の待ち受ける中を出航し、日本海軍の消滅を目の当たりにした証人となってしまったのです。その偶然を「生き残りの私は、先だった仲間に申し訳ない」と戦後隠れるように暮らして居られた人、家族に一言も戦争について語らなかった人、体の続く限り働き続けた人など、その使命感・温かさ・思いやり等々、本当に頭の下がる思いがし、また心の痛みを感じます。
 次は良きライバルでありながらも、良き友人だった仲代達矢さんと平幹次郎さんの二人についてです。
 俳優の仲代達矢さん(83歳)が昨年訪米先のニューヨークで、10月22日に亡くなった俳優、平幹二朗さん(82歳)について、「いい競争相手でした。非常に悲しいです」としみじみと話されたということです。
 仲代さんは、俳優座で平さんの一期先輩でした。俳優座でシェイクスピアの「ハムレット」で仲代さんが主役を演じた際、平さんはハムレットの親友ホレイショー役だったそうです。
 「(ハムレットが決闘で死ぬ最後の場面で)僕が死んで、口を開けて倒れていたら、ホレイショーが抱えて泣くところで、平さんの涙が口に流れ込んできた」と、平さんの迫真の演技を回想して仰ったそうです。
 先日の日経新聞にも、仲代さんは、「役者は十年はとにかく修行一筋でなければならない」と役者としての基本をしっかり身に付ける修行の重要さに、力を込めて書いて居られました。平さんはお風呂でのヒートショックか、お一人で亡くなられているのが発見されましたが、告別式には共演者が多かった中で、栗原小巻さんが弔辞を読み、『「強い意志」と「純粋な精神」はご子息・平武大さん(佐久間良子さんとの間の長男)に引き継がれています。』 と言っておられまます。
 共演者双方が尊敬し逢う仲というのは、偉大な役者であるが故に、一層惜しまれます。私も仲代達矢さんの大ファンで、或る冬に、折角チケットを買って楽しみにしていましたのに、当日はかつて経験の無いドカ雪で交通機関が混乱して、とうとう公演に間に合わず、もったいないことをしてしまいました。その仲代さんが、追悼文の中で、「僕だけが生き残って申し訳ない」と言っているのです眞の友情がなければ、この言葉は生まれて来ないでしよう。
 最後は昨年末の新潟県糸魚川市の火災の時のことです。もし南寄りの強風が吹き荒れた日で無ければ、火元の一軒だけの火災ですんだのでしょうが、結果的に140棟の大火災になりました。
 その日たまたまかかり付けの病院の予約日で、出掛けていた私の友人が、持って出たハンドバック一つで、帰って来たら家が燃えて無くなっていたと言います。
 彼女はどのような運命を頂いて来たのか、結び付いた糸に引き寄せられるように、偶然糸魚川市に住まいを持ち、今回の火災に遭ったのでしょうか。心遣いの細やかな方で、私は胸の痛みに耐えられない思いでいます。
 私と同年ですから、これから先の住まいの調達から、お箸の一本に至る迄の家財道具を全て揃えなければなりません。引っ越しのように業者に頼めば、元あったようにして貰えると言うわけには行かないのです。
 どれほどかの気力・体力が必要でしょう。本当に何とお見舞いを言ったらよいのか、言葉にもならないくらいでした。
 新しい最近の家は、不燃性の高い外壁なので、少々の火では燃えないそうですが、あの回り込むような火の粉が、古い住宅の大屋根の下の隙間や、火勢で割れたガラス戸などから家に入り込み、中から燃て行ったそうです。風によっての飛び火が多くあり、あちこちから火の手が上がって、わが屋敷跡に近づくことも出来なかったと言います。
 私達夫婦も、外出から帰った後にテレビを付けて知り、心配の余りテレビの前に釘付けになりました。
 しばらくは、身を寄せて居られる家も分からず、遠いのでお見舞いもできませんでしたが、やっと連絡が取れるようになりました。
 ところがご近所の燃えなかった人達が、「お宅は燃えなくて良かったですね」と言う言葉を掛けられるのが、「燃えてしまった家の人を思うと申し訳なくて辛い」とテレビで言っていました。ご近所の人達も、たやすくそう言う声はかけられないと聞きました。 災難は突然やって来たので、当然「申し訳ない」という言葉は不要なのですが、何と実直な人達なのでしょう。
 このように、お互いに気を使い逢う心は、矢張り日本人の「大和魂」の中に延々と引き継がれて来たDNAとでもいうものなのでしょうか。
 見事な心ばえにただ頭が下がります。ご近所同志がお互いに助け合いながら、先の大戦を初め、幾つかの苦難を乗り越えて来た人達には、血液よりももっと濃い心の交流があるのだと教えられました。
 DNAが不変に近いものならば、これからの日本社会も希望を持てるのですが、少しずつ傷付いて変異してしまったのなら・・・と、現実社会で日々ニュースになる幼児虐待や、いじめなどの残酷な事件に、些かの不安も感じています。
 
 



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