「無くて七癖あって48癖」ということわざがあります。癖が無いといっても七つくらいは誰にも癖がある、とも「無くて」の 「な」 に合わせて七癖になったとも言われているようです。
同じように、48癖は、相撲の48手のように、「沢山」を現す言葉として使われているようです。(現在の相撲協会の決まり手は82手と先日知りました。)
ところで、女三人集まれば姦しいと言われるように、元来女性は男性よりもお喋りで、男性は寡黙な人が多いと聞きます。確かに、私の友人知人を眺めても、ご主人の方が寡黙のカップルが多いようです。お喋りも多分DNAに支配されているのでしょうから、お喋りの人を黙らせたり、寡黙な人に多くを語らせることは至難の業と言えそうですし、また不得手な行為を強要するようなことは、慎むべきことです。
いみじくもお釈迦さまは、次のように言っておられます。
黙しても批判され
多く語っても批判され
少し語っても批判される。
この世に批判されない者は無い。
どんなに偉大な人にも、批判の目は注がれて、それを受け流すことができなければ、悩み苦しみの原因になります。人は日々生活をしている限り、様々な苦労を抱えて、批判に耐えて生きているというのが、日常の身の回りの人々の有りようと言っても、過言ではないでしよう。
そんな時に心の安らぎを何処に見出すか、皆さんはどう対処しておられますか?
小さなこだわりなら、音楽を聞く、読書をする、運動をする、散歩して来る、など皆さんも様々な工夫をしておられることかと思います。要するに拘っている心を別の方向に向けさせて、こだわりの苦しみから抜け出すということです。
しかし、そう何時も気分転換で抜け出せるものばかりではありません。大きな障害が目の前に立ちはだかった時、それをかわして拘らないということは、中々出来そうにありません。
けれどもそのこだわりを捨てなければ、苦しみは続きます。このことをつらつら考えて見ますと、多くは既に済んでしまった事であることが多いのです。結論が出ているにも関わらず、思い出してこだわることが、私のように後ろ向きに生きがちな人間に、しばしば見られる訳です。
やはり済んだ事として、流して生きるしかありません。流せれば、これも後の人生の為の勉強だったと思えて、有り難くさえ感じることが出来ます。禍は福を含み、福は禍を含んでいると言えます。「あの時の方が良かった」等とこだわるのは、愚かな事です。 長所と短所が表裏のように、どちら側から眺めるか、それが問題なのだと思います。いとたやすき事とはいきませんが、結論としては、やはりこだわらないことが心を安らかに生きていくこつである事は理解出来ます。
良寛禅師は、「災難に遭うべき時節には遭えば良く候。死ぬべき時節には死ねば良く候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」と言っておられます。
心の安らぎは、やはりあれこれ無い物ねだりをせず、こだわらない心、もし何か引っかかりがあっても、さらりと流し去って行ける柔軟な心であるかどうかに掛かっているのでしょう。
深呼吸でもして、過去は過去に返して、今目の前の春の花を眺めたり、春の風を感じたり・・・、そんなことに心を向けて、安らかな気持ちになりたいものです。「言うは易く行うは難し」ですが、そこを抜け出すように、私も努めなければいけませんね。
戦後70年。国民の象徴であられる天皇陛下が、皇后陛下と共に、ベリリュー島を訪れられて、戦禍に散った多くの兵士や原住民、苦難の中を戦い、生き延びて来た国民を偲ばれて、深く頭を下げておられました。そういう人々によって、今日の私達の生活が、衣・食・住に困窮することなく、生活出来ていると思えば、やはり私の悩みやこだわりは贅沢なのです。困難に立ち向かい、先に逝かれた人々に、常に尊崇の心をお持ちになり、現在を生きる国民の幸せを念じて下さる両陛下に、改めて感謝すると共に、このような両陛下をいただく日本国民は、世界一幸せな民族であると改めて思いました。
時まさに春です。とらわれた心を解き放ち、苦しみを流し去るように、鳥も花も若葉も、一斉に誘いかけてくれています。
同じように、48癖は、相撲の48手のように、「沢山」を現す言葉として使われているようです。(現在の相撲協会の決まり手は82手と先日知りました。)
ところで、女三人集まれば姦しいと言われるように、元来女性は男性よりもお喋りで、男性は寡黙な人が多いと聞きます。確かに、私の友人知人を眺めても、ご主人の方が寡黙のカップルが多いようです。お喋りも多分DNAに支配されているのでしょうから、お喋りの人を黙らせたり、寡黙な人に多くを語らせることは至難の業と言えそうですし、また不得手な行為を強要するようなことは、慎むべきことです。
いみじくもお釈迦さまは、次のように言っておられます。
黙しても批判され
多く語っても批判され
少し語っても批判される。
この世に批判されない者は無い。
どんなに偉大な人にも、批判の目は注がれて、それを受け流すことができなければ、悩み苦しみの原因になります。人は日々生活をしている限り、様々な苦労を抱えて、批判に耐えて生きているというのが、日常の身の回りの人々の有りようと言っても、過言ではないでしよう。
そんな時に心の安らぎを何処に見出すか、皆さんはどう対処しておられますか?
小さなこだわりなら、音楽を聞く、読書をする、運動をする、散歩して来る、など皆さんも様々な工夫をしておられることかと思います。要するに拘っている心を別の方向に向けさせて、こだわりの苦しみから抜け出すということです。
しかし、そう何時も気分転換で抜け出せるものばかりではありません。大きな障害が目の前に立ちはだかった時、それをかわして拘らないということは、中々出来そうにありません。
けれどもそのこだわりを捨てなければ、苦しみは続きます。このことをつらつら考えて見ますと、多くは既に済んでしまった事であることが多いのです。結論が出ているにも関わらず、思い出してこだわることが、私のように後ろ向きに生きがちな人間に、しばしば見られる訳です。
やはり済んだ事として、流して生きるしかありません。流せれば、これも後の人生の為の勉強だったと思えて、有り難くさえ感じることが出来ます。禍は福を含み、福は禍を含んでいると言えます。「あの時の方が良かった」等とこだわるのは、愚かな事です。 長所と短所が表裏のように、どちら側から眺めるか、それが問題なのだと思います。いとたやすき事とはいきませんが、結論としては、やはりこだわらないことが心を安らかに生きていくこつである事は理解出来ます。
良寛禅師は、「災難に遭うべき時節には遭えば良く候。死ぬべき時節には死ねば良く候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」と言っておられます。
心の安らぎは、やはりあれこれ無い物ねだりをせず、こだわらない心、もし何か引っかかりがあっても、さらりと流し去って行ける柔軟な心であるかどうかに掛かっているのでしょう。
深呼吸でもして、過去は過去に返して、今目の前の春の花を眺めたり、春の風を感じたり・・・、そんなことに心を向けて、安らかな気持ちになりたいものです。「言うは易く行うは難し」ですが、そこを抜け出すように、私も努めなければいけませんね。
戦後70年。国民の象徴であられる天皇陛下が、皇后陛下と共に、ベリリュー島を訪れられて、戦禍に散った多くの兵士や原住民、苦難の中を戦い、生き延びて来た国民を偲ばれて、深く頭を下げておられました。そういう人々によって、今日の私達の生活が、衣・食・住に困窮することなく、生活出来ていると思えば、やはり私の悩みやこだわりは贅沢なのです。困難に立ち向かい、先に逝かれた人々に、常に尊崇の心をお持ちになり、現在を生きる国民の幸せを念じて下さる両陛下に、改めて感謝すると共に、このような両陛下をいただく日本国民は、世界一幸せな民族であると改めて思いました。
時まさに春です。とらわれた心を解き放ち、苦しみを流し去るように、鳥も花も若葉も、一斉に誘いかけてくれています。