一昨日から三陸沖に地震が発生して、津波も観測されました。またニュージーランドでも地震があり、日本人も大勢犠牲になりました。ニュージーランドも日本も、地震がよく起きる所のようです。何時起きるか解らないし、発生を防ぎようのない地震は怖いです。
私も結婚してまだ子供もいない頃に、夫の生死が二日程不明になるという地震を経験しました。電話も通じませんでしたが、やがて夫が生きていることが解ってからも、一週間は帰宅できず、私一人がやっと勤務先からアパートに帰宅しました。箪笥や棚はすっかり倒れていました。田舎から実家の父が早速見舞いに来てくれました。(父は関東大震災に遭って、命カラガラ東京から歩いて田舎の実家へ帰って来た地震の経験者です)田舎の家は海から直線距離で、約1㎞位山あいに入った所でした。私が独身で家に居た頃に、父は「もし津波が来たら、何処へ逃げたら一番早く安全な場所へたどり着けるか」ということを地図を広げて等高線を示しながら、話してくれたことを思い出しています。
2003年秋に私たちは東北6県の旅に出ました。岩手県の宮古から大船渡まで、リアス式海岸を通って、途中で宿泊しながら唐桑半島という所へ行きました。其処に津波体験館というのがあって、好奇心の強い私はホテルから独りで出かけました。皆さんもご存じだと思いますが、東北地方では、1896年(明治29年)に明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)に昭和三陸地震、1960年(昭和33年)にチリ地震津波がありました。その後も幾多の地震と津波の被害にあっています。いずれも多くの犠牲者と家屋倒壊の被害が出ました。
入り組んだ海岸線は、場所によって想像を絶する高い津波が押し寄せて、(明治の津波では最高28m余り)被害を大きくしたようです。津波を防ぐ為の高さ10mの防潮堤と防潮扉も、車で通った道のりの途中にありました。これによって、チリ地震の津波は可成り被害が防げたそうです。(最初に防潮堤を築いた田老町では死者はゼロだったと聞きました)しかし大きな津波ではこれでさえ軽々と越えそうな気がして、恐ろしかったことを覚えています。
津波体験館では、床が地震と同じように揺れ、周りのスクリーンにドツと津波が押し寄せて、身の周りはすっぽり波に覆われてしまいました。すごい迫力で、まさに生きた心地がしませんでした。夫に物好きだとからかわれましたが、良い経験になりました。
巨釜(おおかま)というところには、高さ16mの大理石の「折れ石」が海中に立っていて、津波によって先端から2m程の所で折れたと書いてありました。松林の地面に小さな穴があって、その深い底から、とどろく波の音が聞こえて不気味でもありました。
帰りに厳美渓まで行きましたら、その年の地震(宮城県北部連続地震)で、まだ一部工事中であり、以前来た時より少し美観が損なわれていました。名物の「かっこう団子」は、以前と同じく人気があって、勿論私たちの口にも入りました。
厳美渓では、川の水が渦を描き大きな石に幾つもの丸い穴を開けています。あの柔らかい水が、石を刳り抜くのですから、そこにはどれ程の長い時間が横たわっているのでしょう。そして私たち人間は何百代生まれ代わって、この渓の水の流れを見続けて来たのでしょう。自然の持つゆったりと大きく永い時間に比べて、私の一瞬でしかない人生の短さとを比較して見つめていました。
私が今回地震や津波について書き始めたのは、三月三日の記念日について調べ始めたことによります。勿論三月三日はひな祭りで、家族に「随分年を取ったお雛様なんだな」とか、「雛ではなくて鄙だからね」、と田舎育ちの私がからかわれていたのです。何と言われようと、娘の為に手作りにしてやった木目込みのお雛様を一対、毎年必ず飾って「今年もまたひな祭りが来ましたよ。私たちは皆元気で幸せに暮らしています。きっと貴女が守ってくれているのね。有り難う」とお参りし、桜餅や雛あられを供えます。そして夕食にはお寿司を作ることを恒例にしているのです。
ところで三月三日とインターネットで引きましたら、地震の記念日と書いてありました。耳の日というのは、知っていましたが、地震の日とは知りませんでしたので、興味を覚えて調べてみました。すると1933年3月3日に起きた昭和三陸地震の日を、地震の教訓を生かす訓練の日として、被災地では毎年地震や津波の訓練が行われているという記事が載っていたのです。すっかり私が全国の地震の記念日と勘違いしていたのでした。
そこに今回の地震です。「災害は忘れた頃にやってくる」という諺を思いながら、日頃から心して備えをしたいものだと思っています。
今回のニュージーランドの地震で被害に遭われた皆さんやそのご家族、3月9日以来の津波で、養殖のわかめやホタテ貝などに被害が生じた皆さんに、心からの同情を禁じ得ません。
私も結婚してまだ子供もいない頃に、夫の生死が二日程不明になるという地震を経験しました。電話も通じませんでしたが、やがて夫が生きていることが解ってからも、一週間は帰宅できず、私一人がやっと勤務先からアパートに帰宅しました。箪笥や棚はすっかり倒れていました。田舎から実家の父が早速見舞いに来てくれました。(父は関東大震災に遭って、命カラガラ東京から歩いて田舎の実家へ帰って来た地震の経験者です)田舎の家は海から直線距離で、約1㎞位山あいに入った所でした。私が独身で家に居た頃に、父は「もし津波が来たら、何処へ逃げたら一番早く安全な場所へたどり着けるか」ということを地図を広げて等高線を示しながら、話してくれたことを思い出しています。
2003年秋に私たちは東北6県の旅に出ました。岩手県の宮古から大船渡まで、リアス式海岸を通って、途中で宿泊しながら唐桑半島という所へ行きました。其処に津波体験館というのがあって、好奇心の強い私はホテルから独りで出かけました。皆さんもご存じだと思いますが、東北地方では、1896年(明治29年)に明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)に昭和三陸地震、1960年(昭和33年)にチリ地震津波がありました。その後も幾多の地震と津波の被害にあっています。いずれも多くの犠牲者と家屋倒壊の被害が出ました。
入り組んだ海岸線は、場所によって想像を絶する高い津波が押し寄せて、(明治の津波では最高28m余り)被害を大きくしたようです。津波を防ぐ為の高さ10mの防潮堤と防潮扉も、車で通った道のりの途中にありました。これによって、チリ地震の津波は可成り被害が防げたそうです。(最初に防潮堤を築いた田老町では死者はゼロだったと聞きました)しかし大きな津波ではこれでさえ軽々と越えそうな気がして、恐ろしかったことを覚えています。
津波体験館では、床が地震と同じように揺れ、周りのスクリーンにドツと津波が押し寄せて、身の周りはすっぽり波に覆われてしまいました。すごい迫力で、まさに生きた心地がしませんでした。夫に物好きだとからかわれましたが、良い経験になりました。
巨釜(おおかま)というところには、高さ16mの大理石の「折れ石」が海中に立っていて、津波によって先端から2m程の所で折れたと書いてありました。松林の地面に小さな穴があって、その深い底から、とどろく波の音が聞こえて不気味でもありました。
帰りに厳美渓まで行きましたら、その年の地震(宮城県北部連続地震)で、まだ一部工事中であり、以前来た時より少し美観が損なわれていました。名物の「かっこう団子」は、以前と同じく人気があって、勿論私たちの口にも入りました。
厳美渓では、川の水が渦を描き大きな石に幾つもの丸い穴を開けています。あの柔らかい水が、石を刳り抜くのですから、そこにはどれ程の長い時間が横たわっているのでしょう。そして私たち人間は何百代生まれ代わって、この渓の水の流れを見続けて来たのでしょう。自然の持つゆったりと大きく永い時間に比べて、私の一瞬でしかない人生の短さとを比較して見つめていました。
私が今回地震や津波について書き始めたのは、三月三日の記念日について調べ始めたことによります。勿論三月三日はひな祭りで、家族に「随分年を取ったお雛様なんだな」とか、「雛ではなくて鄙だからね」、と田舎育ちの私がからかわれていたのです。何と言われようと、娘の為に手作りにしてやった木目込みのお雛様を一対、毎年必ず飾って「今年もまたひな祭りが来ましたよ。私たちは皆元気で幸せに暮らしています。きっと貴女が守ってくれているのね。有り難う」とお参りし、桜餅や雛あられを供えます。そして夕食にはお寿司を作ることを恒例にしているのです。
ところで三月三日とインターネットで引きましたら、地震の記念日と書いてありました。耳の日というのは、知っていましたが、地震の日とは知りませんでしたので、興味を覚えて調べてみました。すると1933年3月3日に起きた昭和三陸地震の日を、地震の教訓を生かす訓練の日として、被災地では毎年地震や津波の訓練が行われているという記事が載っていたのです。すっかり私が全国の地震の記念日と勘違いしていたのでした。
そこに今回の地震です。「災害は忘れた頃にやってくる」という諺を思いながら、日頃から心して備えをしたいものだと思っています。
今回のニュージーランドの地震で被害に遭われた皆さんやそのご家族、3月9日以来の津波で、養殖のわかめやホタテ貝などに被害が生じた皆さんに、心からの同情を禁じ得ません。