ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

影を愛しむ

2010年04月10日 | 随筆・短歌
 これから日を追って太陽の光が強くなり、それにつれて影も濃くなりす。寒い夜は外出もほとんどしませんが、暖かくなると夜の外出もあって、月光を浴びて帰るということもままあります。
 影は月や太陽の高さに応じて長さを変えますが、何時でも何処でも私達は自分の影と一緒に生きています。日頃は気が付かないのですが、しみじみと自分の影を見る時、その時の心の有り様で、影に対する感じ方が変わります。
 幸せと思う時は、影も何かしら明るくはずんで見え、悲しい時は暗く沈んでで見えます。幸せ不幸せは自分の心が作り出すものですから、何時も幸せでありたいと願う時は、心は何時も穏やかで豊かでなければ、きっとそうは思えないでしょう。
 ずっと前に通信講座で学んだ仏典に、次のような言葉が載っていて、今も心に残っています。
 
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。ー 影がそのからだから離れないように。(中村元訳「ブッダの真理のことば」より)
 
 確かに私達の行動は、心によって作り出され、その結果は全て自分の心次第と言えます。清らかな心で話したり行動すれば、後の幸せはその人の心がもたらしたものです。「影がそのからだから離れないように」という言葉が身に沁みて残っています。
 影と言えば、何時でしたか、このブログに父の手紙という文を載せたことがありました。両親が私達の家に訪ねてきて、私達や孫達にも義父母にも会い田舎の家に帰った後「おまえ達の暮らしに触れて安堵した。余りに月がきれいだったので、駅からは二人で夜道を歩いて帰った。誰も通らない道に影が何処までも付いてきて寂しくはなかった」と、手紙を呉れました。何時も仲良く二人で行動する両親でした。私達の暮らしに安心して帰った様子が、月の光に描き出された二つの影に象徴されているようで、とても温かく嬉しい手紙でした。手にした時はとてもホッとしたものです。
 私も気が付いてみますと、いつの間にかその両親の年になりました。最近は幸せに満たされた自分の生活に感謝の毎日だと、この前も書きましたが、振り返れば決して平穏な年月ではなく、幾多の苦難を乗り越えて生きて来ました。その頃は先々こんな平穏な日々が待っているとは考えもしませんでした。年を取って、欲が少なくなったせいかも知れません。ごく当たり前の自然現象にも感動を覚えるようになり、例えば自分の身に付いてくる影にさえ愛しさを覚えます。
 最近は年のせいで、足腰に痛みも出てきて、私の歩く姿が少し悪くなりました。影は正直ですから、そんな私を素直に映しています。

背と腰を屈(かが)めし影が付いてくるしゃんと歩けと影を励ます(実名で某紙に掲載)                            ガラス戸にうつむき歩く我うつりいよよ寂しき北風の日は  (実名で某誌に掲載)
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