ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

お陰様で「ばあさまの独り言」も一年になります

2010年03月01日 | 随筆・短歌
 去年の三月三日に、深く考えもせずに思い立つままに自分のブログを持ってしまいました。何を書くともなく、その時どきの私の思いを書き連ねて来たのですが、早いもので、もう一年が直ぐそこに来ています。
 皆様にはこんなばあさまのつぶやきにお付き合い頂きまして、本当に感謝しています。今回で111回目となりますが、一文載せる度に現在も150~160人くらいの方に読んで頂いています。殆どの方は見知らぬ方達であり、こんな文章でも読んで頂けるとは、身に余る光栄だと感じています。有り難うございました。
 載せたブログは全てプリントして綴ってありますが、パラパラとめくって見ますと、とても沢山の想い出が詰まっていて、何となく我ながらジーンと来てしまいました。書ききれなくて行間に埋もれている喜怒哀楽をも積み重ねてみますと、私と家族、今は亡き両親、義父母、娘、そして友達などの様々な人生が織りなされていて、書いておかなければ忘却の彼方に埋もれていた筈の、貴重な想い出が生き返って来ました。
 ブログを通して旧交を温めた人もいたり、家族からその友人にと輪が広がって、私自身の人生に深みと広がりを与えて頂き、有り難い事だと思っています。
 歳を取ると、辛かった想い出や、苦労した想い出、憎んだり憎まれたりした嫌な思い出が段々薄らいで良い想い出だけが、一層増幅されて残るようになっている自分に気付きます。それはとても不思議なことですが、きっと神様が良い想い出を抱いて、残りの時間を心豊かに送るように、とのご配慮によるものだと思っています。
 先日息子に「忘れた方が良いこともあるよ」と言われて、歳と共に思い出せなくなっている記憶力を嘆くよりは、忘れることを有り難いと受けとめなければ、と思ったことです。 もし記憶の全てを覚えていたら、老人にとってこんな残酷なことは無く、きっと生きて行けなくなるでしょう。
 30年位前のことです。一緒に勤めていた少し年配の女性が、ある日「先に死んだ人が勝ち、先に呆けた人が得」と仰いました。その頃私には義父母がいましたので、その老後の生活をどのように支えていくか、私は何時退職すべきか、夫と思案中でしたから、自分の死など考えても見なかった年頃でしたので、この言葉の意味の重さに気付き、以後忘れられない言葉になりました。
 女性である私としては、夫の面倒を看てあげないと、食事や身の周りなど上手く出来ない人ですから可哀想な気がして、是非自分は後で死にたいと思っていました。ご近所の奥様ともそんな話しをして、「お互いがんばりましょうね」と言っていましたのに、その方はその後一年も経たずに、脳卒中で身体が不自由なご主人を残して、亡くなってしまわれたのでした。
 私の姉も昨年夫を見送って、「どんな状態でも良い、傍にいて呉れるだけで有り難かった」と話していました。
 そして私もまた先日体調を崩したことで、家族を残して先立つことの心残りをひしひしと感じたのです。必ずしも先に逝く方が幸せとは言い切れません。
 「ただ居るだけで幸せ」なのは何と言っても家族であります。そして次が良い友達と言えましょう。相田みつをの詩の中に、次のようなものがあり、私の大好きな詩です。
紹介して締めくくりにしたいと思います。
 
 「ただいるだけで」

   あなたがそこに
   ただいるだけで
   その場の空気が
   あかるくなる
   あなたがそこに
   ただいるだけで
   みんなのこころが
   やすらぐ  
      そんなあなたに
      わたしもなりたい
            みつを

 私もこのような家族に囲まれ、友達を持っていますが、見知らぬ沢山の読者さんにも、同じような気持で、深く深く感謝を捧げたいと思っています。

梅咲きぬあなたがいればそれだけで何もいらない春となりたり  (あずさ)

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