ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

海のほとりで

2011年06月17日 | 随筆・短歌
 先日ようやく少し暇を見つけて、余り遠くない海の傍の温泉ホテルに一泊してきました。日頃は海が見えませんので、夕日の美しい海が見たくなって出かけたのです。幸いホテルは日本海を眼下にした眺望が素晴らしく、その上お魚がとても美味しくて、心ゆくまで海を堪能してきました。
 旅行好きな私達ですが、海の傍まで行って渚に立ち海水に手を浸す、ということは最近特に少なくなりました。家族で海水浴に良く行った頃は既に遥か遠く、考えて見ますと、四国は高知の桂浜、九州は長崎県の平戸島の根獅子(ねしこ)浜、本州は宮古の浄土ヶ浜、北海道は知床半島のウトロ、この辺りが砂浜であり、直ぐに想い出す縁の深い所です。
 手を海水に浸して見ると、この海は何処まで続いているのか、と自然に考えてしまいます。世界の七つの海全てに繋がり、沢山の民族と海を介して手を繋ぎ合っている気がして来ます。赤ちゃんは世界中の何処の赤ちゃんも産声は「ラ」の音だと聞きました。人間のDNAのせいでしょうか。人類は一つ、という気が、海に手をひたしていると益々強く感じられます。
 今は亡き私の兄は、私達に「一度はヨーロッパあたりに行って来なさい。地球が小さく感じられるから。」と何度も勧めましたが、外国へ行くことが嫌いで、日本にはまだ見たいところが沢山あるという夫と一緒ですから、未だ海外旅行には行ったことがありません。
 最近の日経新聞に、塩谷靖子さんの「燈ともせと」という随筆が載っていて、とても興味深く読みました。八歳で失明した全盲の多才な人なのですが、42歳から声楽の勉強を初めて、CDも出しておられると知って聴きたくなり、早速インターネットで取り寄せました。
 「わかれ道」というアルバムですが、その中に寺山修司作詩、中田喜直作曲の「悲しくなったときは」という歌がありました。どの曲もしみじみと心を打つものではありましたが、特にこの詩に引かれましたので、部分的に掲載させて頂きます。
 ・・・
 どんなつらい朝も どんなむごい夜も
 いつかは終わる
 人生はいつか終わるが
 海だけは終わらないのだ

 悲しくなったときは 海を見にゆく
 一人ぼっちの夜も 海を見にゆく

この部分が最後で、この曲は終わります。
 海は沢山の汚れを浄化し、多くの魚貝類や海草を育み、食料を与えてくれています。海がなかったら、人間もその他の動植物も生きては行けません。海水は蒸発して天に昇り、雨となって地をうるおします。広い海を見ていると確かにそこから、母のような温かいぬくもりが伝わって来る気がします。私の問いかけに律儀に応えてくれるような優しさを持っています。
 波の殆ど無い静かな海は、それだけで温かく穏やかに私を受け入れてくれます。海に太陽が沈む時は、私に向かって一直線に黄金色の帯が足許まで届き、まるで私を輝きの中に導いてくれているようです。
 しかし、太陽の沈み方は水平線に近くなると俄然早くなって、みるみる沈んでしまいます。また明日逢えると思っても、この日の太陽はこれが見収めです。美しい夕日に逢えた日は、今日一日がとても幸せだったと思えて、名残惜しさと感謝の念が湧いて来ます。  災害に苦しんでおられる人々や、復興に日夜努力しておられる方達に申し訳なく思ったりしながら、この日の贅沢に感謝しました。

 転がれる波打ち際の虚貝(うつせがい)白きを拾ふ遍路となりて

 殉教の血で紅に染めしとふ根獅子(ねしこ)の海はコバルトブルー
                           (全て実名で某誌に掲載)

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