ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

いつまでも色褪せない人生訓

2016年10月24日 | 随筆
 旅先で、生まれて二ヶ月程の赤ちゃんを抱いた家族と一緒になりました。その赤ちゃんの何と可愛いこと。我が子の誕生時の喜びを、突然想い出したり、人間社会の汚れを知らない赤ちゃんの澄んだ眼や愛らしい顔立ちに、うっとりしました。
 思えば生まれたばかりの赤ちゃんの心は、100%無垢な状態です。自分では何一つ出来ず、全てを父母や誰かに委ねないと生きて行けません。しかし、自然は実にうまく出来ていて、赤ちゃんだというだけで、誰にも愛される可憐さを持っています。思えば本当に不思議なことです。
「誰もが仏として生まれてくる」とはこういうことでしょう。

「おさな子がしだいしだいに知恵づきて仏に遠くなるぞ悲しき」

 一休宗純がこう歌っています。確かに知恵が付くと同時に、自我が芽生え始め、欲望や不快感など様々な様子を見せるようになり、次第に仏とは遠い存在になっていきます。
 しかし、人間の一生を眺めて見ると、成長の合間合間に
 
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ

 と梁塵秘抄にあるように、夢中になって遊んでいる子供たちに、このような感慨を抱くのも、人間誰しもではないでしょうか。
 そして20歳代は、女性が最も美しく、男性は男らしく輝いていきます。恋する時期にふさわしく、魅力的に変身します。現代は様々な社会的要因で、一概には言えませんが、ともあれ鳥や獣が恋してつがいを作るように、人間も恋をし、結婚する準備が出来上がります。
 やがて子が生まれますが、人間が一人前になるには、他の動物に比べて遙かに長い年月をかけて教育する必要があります。
 報道の速さや多様化が進み、様々な形で、ニュースは私達の耳に入って来ます。最近の犯罪の低年齢化や凶暴化、子育てといじめや虐待など、目や耳を覆いたくなるような悲しく辛い現実を直視しなけれはなりません。
 私は恐らく心を込めて子育てをし、社会に役立つ家族という単位は、昔と比較して良いとか悪いとか一概には言えないのではないかと思っています。日本は、様々な問題を抱えつつも、安心安全な社会として、世界に認められているようです。

孔子の論語の中の有名な文章に、
 
「吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」。
 とあります。
現代語訳は不必要かと思いますが、旺文社のものを載せます。

「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった」
(『論語』・旺文社)
 向上心を持って、自分を律して生きて行こうとする人の多くは、年齢に多少の差など感じられるかもしれませんが、同じように「かくありたい」と思われるのではないでしょうか。
 今や人生80歳の時代となりました。「八十にして・・・」と書き加えるとすれば、あなたは何と書きますか。
 私は「感謝を忘れず、人生の最後迄、穏やかに自分らしさを失わずに生きたい」と加えたいように思います。

 論語は2500年以上昔に書かれたものですが、孔子の人間洞察眼の確かさには驚かされます。何故ならこの文章はこのまま長い歴史の中で用いられ、現代を生きる私達の教訓となっているからです。

「仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ」

 これも梁塵秘抄です。