ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

機械化は人間の心までも

2013年10月29日 | 随筆・短歌
 戦後間もない頃の日本を思い出しますと、身のまわりに在る電化製品は、アイロンとラジオくらいのものだったような気がします。毎日の生活の労働も、一つ一つ家族の手に依ってなされ、暑さ寒さにも忍耐強く生きて来たように思われます。
 ところが今はどうでしょう。身の回りにある電化製品は、数えられない程豊かです。手洗いから洗濯機へ、薪やガスの釜から電気釜になり、お風呂もトイレも電化して、取り分け冷蔵庫の普及により、食品の保存が飛躍的に改善しました。最近はレトルト食品も増えて、レンジオーブンで、簡単に出来たてのようなお総菜が味わえます。
 しかしその代わり、ひとたび停電が起きると、冷暖房、炊事も出来なければ、手などかざせば水のでるセンサーも動かず、水さえ出なくなります。こうなれば戦中の生活レベルさえ維持出来なくなってしまうのです。
 家の中は、オートマチックの機械器具がやたらに整備されていて、セキュリティの装備により、家の出入りや通信さえも、心もと無い感じです。この様な機械化は時代と共にスピードを上げ、身の回りのロボット達は益々活躍して便利になるでしょうが、果たしてそれで幸せか、と言えばどうなのでしょう。
 機械化によって余剰の時間が生まれて来ますが、人々はその時間をどのように使っておられるのでしょうか。仕事を持つ人は益々仕事に没頭し、家族や友人との会話の時間がむしろ減って、ゲームに興じたり、漫然とテレビを見たり、直接会って話さずに、メールで繋がる危うい関係が増えているようです。
 つまり生み出された時間が心を豊かにする方向に使われずに、返って孤立感を深める結果になっているように思えてならないのです。
 このような状態について最近危機感を持つ人が増えてきていると、様々な人達が指摘しています。何時も愛読している末永遍(あまね)氏の「新・心の原風景~苦悩の克服」の10月8日付けの文章によりますと、時代をさかのぼって仏教哲学の鈴木大拙博士(明治3年~昭和41年)の言葉を借りて次のように書いてあり、先覚者は、当時も今と同じように危機感を持っていたのだと、その慧眼に驚くと共に一層危機感を強く感じています。
 少し長くなりますが、以下に引用させて頂きます。

=======(ここから引用文)

・・・『鈴木大拙全集 第十九巻』(岩波書店 2001年刊)にこんなことが書いてありますので引用します。これは1927年に『随筆 禅』という題で出版されたもののようです。
「創造本能が、器械そのもの、又は社会生活の器械化に圧迫せられて、その頭の出しどころがなくなると、自分の本体を匿して仕舞ふが、その働きは色々の相を仮りて暴(あ)ばれ廻る。表面の相だけ見ると何もわからぬ、さびれ行く人心などと云つて、只大体の観察をするに止まるだらうが、その実根ざしは深いのである。色々の原因と事情もあるだらうが、近代人の性的放縦も此圧迫から来るものでないかと、予は考へる。創造本能が去勢せられて仕舞ふと、やたらに劣等な安価な浅薄な刺戟に走るのが人間の心理である。経済上の事情で晩婚の止むを得ないのも、一の原因であらう。又近代の科学が何にもかにも、その観察法や分析法を応用しまはるので、性的ミステリーも白日の下で詮議せらるるようになつた。近代人が性的謹慎の情がかけて来て、一方に放縦の傾向を養ふやうになつたのは、是等の事情にも、固より関係あるが、内面的に心理的に考へると、今云うた器械の暴力に堪へられぬところから、性的に自暴自棄となつたものであると見るべきであらう。」
 簡単に述べ直してみると大体以下のようになるでしょうか。創造本能については、「人間をして人間たらしむる創造本能」と書かれています。
 「人間が機械に使われるようになり、人間本来の創造本能が生かされなくなった。創造本能が満たされないという欲求不満は、ストレートに表れず、様々な形を取って表に出て、問題を起こす。諸問題の表面を見てもそういったことは分からないのであって、実は深いところに原因がある。近代人の性的無秩序も、この欲求不満から来るものではないか。創造本能が抑えられると、やたらと下劣で安っぽくて浅っぺらな刺激を求めるようになるのが人間の心理である。経済上の理由で晩婚が避けられないのも性的無秩序の一つの原因だろう。また科学の進歩により、性的知識があふれるようになった。近代人が性的な面で慎みがなく、無秩序になってきたのはそういったことにも関係があるが、内面的・心理的な原因を考えると、機械によって人間らしさを奪われた反発から、性的に自暴自棄になったと考えるべきだろう」
 ここでいう創造本能というのはものを創り出す本能というわけですが、人間の根本意識、禅を学ぶ人が修行により至る意識、これは創造せずにいられないようなものだといいます。この宇宙を創っている意識だとのことです。まあ、生の営みそのものとも言えるのでしょう。ですから創造本能が損なわれるということは生命が損なわれるということなのでしょう。機械が創造本能を損ねている、と大拙博士は説いておられるわけです。
 現代人は性的な面ではもはや無茶苦茶と言っていいでしょう。これはなぜなのか、私もずっと考えてきて、たまたま最近、大拙博士と似た考えを持つようになっていたのでした。愛情不足で育つと性欲が強くなるという話も聞いたことがありますが、いくら愛情に欠ける時代だとはいえ、みんながそんなに愛情不足で育ったとは思えません。自由な時代になったからかとも考えましたが、性以外の面では現代人はそこまで極端には自由を謳歌していないような気がします。仕事のストレスということもあるでしょうが、ストレスのはけ口ならば性以外にもいくらでもありそうです。警察官までが性に関する事件を起こしますが、性衝動を抑えられない人が急激に増えているのはなぜなのか、これらの理由もそれなりの説得力はあるものの、今ひとつしっくり来ないでしょう。
 私は「機械やコンクリートに囲まれ、自身も機械的な生き方を強いられ、人間的なあり方ができなくなってくると、人間が持っている最も強い動物的本能、性欲を満たしたくなるのではないか、人間らしさ、生き物らしさが損なわれる時代になったから、最も生き物らしい行動である性行動が強まっているのではないか」と思うようになったのです。大拙博士は百年近くも前にこのように書いておられますが、昭和初期ですらそういう考えがあったということになります。
(中略)
 もし本当にそういったことが原因であるならば、現代人の性的な無茶苦茶ぶりは、本人のせいにばかりしては気の毒だということになります。世の中全体に責任があると言っていいのでしょう。しかし人間らしいあり方を取り戻すのは、世の中全体がそうなるには長い時間がかかるでしょうから、まず自分自身が何とかしなくてはなりません。
 今やっている仕事が人間性を無視する仕事だったとしても、それはすぐには改善できませんから、やはりまず、プライベートの面で人間性を取り戻す工夫をしなくてはなりません。休日には自然の豊かな所に行くとか、機械にばかり頼らずに五感を、体を使う、土に触れる、食べ物も出来上がったものを買うよりも自分で作る、サプリメントに頼らずに料理をしっかり味わって食べる、メールではなく直接会うことで人と接する、人や動物とスキンシップを取る、植物を育てる、時計を見ずに過ごす、などなど、できることは色々とあると思います。創造本能を満たすという意味では、趣味に没頭するのもいいかも知れません。
 (中略)
 そして何よりもお勧めしたいのは、刺激を避けてじっくりと心を落ち着ける時間、何も考えない時間をもうけるということです。禅僧が「一日一度はゆったりと坐り、心を落ち着けましょう」と説くのは心の健康のためにそれが不可欠だからでしょう。一つのことにとらわれると他のことにもとらわれやすくなります (後略)

=======(ここまで引用文)

 私は仏教には疎いのですが、鈴木大拙博士の偉大さは、今年春に金沢の「鈴木大拙記念館」で、博士の履歴や作品にふれて、一層身近に感じると共にとても尊敬しています。あの時代に既に同じ危機感を持っておられたということに驚きました。また末永氏の解説による現代社会の病相や、その考察にも納得がいきました。
 人間本来の生き方はどんなものか、見つめ直して、もっともっと心豊かな社会を作っていかないと、取り返しがつかなくなってしまうのではないかと、末永氏のブログから痛切に感じました。機械文明の発達は、私達の心を機械化するために生まれて来たものではないと改めて思いました。
 
老ゆる程心豊かな国にしあれ願う心に咲く冬薔薇(ふゆそうび)(あずさ) 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歌に心揺さぶられて | トップ | 野球から受けた感動 »

随筆・短歌」カテゴリの最新記事