ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「心」は何処にあるのでしょうか

2018年08月23日 | 随筆
 昨日まで甲子園では高校球児の熱い闘いが繰り広げられていました。力一杯の清々しい闘いは、全国民をテレビに吸い寄せたようで、私達が二人で通うスポーツジムでも、皆さん目の前のテレビ画面で、甲子園の熱戦を観戦しつつからだを動かしていたようです。
 どの試合にも、それぞれ感動の場面がありました。我が県は早くに敗退しましたから、何となくどちらかを応援して観ているのですが、敵味方に関係無く、思わず胸が熱くなる場面もありました。考えてみると、この感動を感じる「心」とは一体何処に存在しているのでしょうか。
 手元にある電子辞書の広辞苑で「心」と引いてみますと、「人間の精神作用のもとになるもの。またその作用。」とあり、
①知識・感情・意志の総体 ②思慮。思惑。③気持。心持。④思い遣り。なさけ。⑤情趣を解する感性⑥望み。こころざし。⑦特別な考え。裏切り、あるいは晴れない心持。とあります。
又、(比喩的に用いる)として
①おもむき。風情(ふぜい)。②事情。③趣向。くふう。④意味。⑤わけ。なぞ解きの根源。⑥(歌論用語)歌の主題・題材・発想などをいう。
 この複雑な心情を支配する(心)とは、何処の部位にあるか、と聞けば、胸を指す人もいますが、心臓の何処かに心を感じる部位があるという証明はされていないようです。心臓移植をしても、手術が終われば、元の自分を取り戻していますが、心臓に心があって移植に依って個性が変わるというのは、ドラマの中だけのようです。
 では脳かといっても、右脳は創造的思考、左脳は論理的思考を司っていますが、ここに心が存在するかというと、矢張り無いようです。それらの感じるものを、何処かで繋いでいると言うことになると、そこにも心の働きが在るはずで、そのような部位は見つかって居ないというのが、真実のようです。
 私達は、相手の目を見詰めても心が伝わり、握手しても心は伝わります。たとえ自分の感じる範囲のものであっても、確かに伝わるものはあります。目も皮膚も心を持つのでしょうか、意識を向けるところに心が集中して移動するのでしょうか。不思議です。
 過日2歳の子供の行方がわからなくなって、ボランティアの方(尾畠さん)に助け出されました。尾畠さんが、インタビューに応じて居た時、ふとトンボが飛んできて、彼の指に止まりました。このような事は滅多にはありません。皆さんの中にもご覧になった方は多いと思います。
 たとえ一瞬止まっても、直ぐに飛び立って逃げて行きます。トンボが「味方又は仲間」と認めての行動なのか、何だか尾畠さんから目に見えないオーラのようなものが出ているように思えました。
 全くの善意で行動する人には、その信念が人々の尊敬を集めます。地位やお金や権力ではなく、無欲の善意に心を打たれるのでしょう。そういう人の心が発するオーラには、動物も心を許すのでしょうか。
 インドの聖者であるシュリー・ラマナ・マハシルという人は、非暴力を大切にされたといいます。その非暴力の人の周りに、沢山の動物たちが集まって来たといいます。まるで尾畠さんのようです。
 お釈迦さまの涅槃図を見ると、どれも沢山の動物たちが人々の後ろで嘆き哀しんでいます。
 法隆寺の五重塔の心柱の四方に仏教世界がありますが、北面の釈迦涅槃の像の近くには、泣き叫ぶ侍者の群像があります。そのリアリティに満ちた塑像は、ひときわ感動的で、私はいつまでも忘れられません。
 釈迦涅槃の絵図は様々な所にありますが、京都三大涅槃図と呼ばれるのは、泉涌寺(せんにゅうじ 皇室のみ寺)と東福寺と本法寺だそうです。どれも拝観しましたが、本法寺の壁面一杯の涅槃図が新しいですが、誰も居らず静かな中でゆっくり拝観出来ました。
 東福寺には魔除けの猫というのもあります。妙心寺塔頭の東林院にも涅槃図はあります。聖者と言われる人には、人間も動物もごく自然に親しく接するのだ、と確信のような気持ちになりました。
 心は体中の端端にも行き届いていて、祖先から引き継いだDNAに支配される所もあるでしょうけれども、その人が永い年月をかけて培った知性とか、教養とか、人柄に大いに依るところがあるのでしょう。
 困っている人が居れば何処へでも行く、という小畠さんや、インドの聖者のように、自然な行動の中であっても、神仏の意志と共にあるような存在は、私には新鮮な驚きでした。
 広い世の中には、このような方もおいでなのだと、力づけられたように思っています。
 迷いの人生で、心の存在を探しているよりも、このような感動から学ぶ事の方がずっと大切ですね。