ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

風鈴と短歌

2021年03月25日 | 随筆
 
ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚 

 白山神社の春の例大祭が近づいています。日本全国に白山神社と名のつく神社は数えられないほどあるそうです。私の故郷にも今住んでいる地にも、幾つか白山神社があります。
 私がまだ未就学児であった頃、祭りには新しい下駄を一足ずつきょうだい全員が買って貰いました。当時ですから歩く時には軽い桐下駄が良かったのです。浴衣も仕立てて貰って、新しい浴衣に桐下駄で宵宮に行きました。地方の神社にもその頃は参道に出店があって、とても楽しく眺めて歩いたものです。
 その後成人となり、結婚して私達にも子供(男女一人ずつ)が出来ました。親がしてくれたように、私達も子供を宵宮に連れて行きました。新しい浴衣を仕立てて(祖母が縫ってくれました)参道の出店で金魚掬いを楽しんだり、ゴム風船や緑亀を買ってやりました。金魚も緑亀も幾日もしないうちに死んでしまいました。子供達は死骸を庭に埋めてアイスクリームの棒を墓標にして花を供え、手を合わせていました。
 子供の頃に憧れだった綿飴は、大きくてふわふわで美味しそうでしたが、舐めると直ぐに縮んでしまいましたし、両親は土埃が不潔だと云って、滅多に買って呉れませんでした。その頃の羨ましさが記憶にあって、私達はそれぞれ買ってやって、テントの中などで食べさせました。来る日も来る日も楽しい想い出が詰まっていた頃の事です。
 目の前の机の右上に「ビードロの・・・」の小ぶりな額が飾ってあります。これは私が生まれて初めてNHKテレビの「歌壇」に短歌を投稿して、当時選者であられた岡井隆先生に採って頂いたものです。放送時に使った額を、当時入賞の記念に番組の係が送って下さったので、以来ずっと私の机の前の壁に飾ってあるのです。
 想い出というものは、何十年であろうと一瞬にしてその昔に連れて行ってくれます。軒下に飾ってあったガラスの風鈴は、家族の不眠の原因にもなり間もなく軒下には吊さなくなりました。代わりに私の短歌の額の下に吊り下げました。その隣に、磨き上げられた小ぶりな瓢箪も飾ってあり、これは毎年庭木の剪定をして下さる庭師さんの労作で、どちらも大切な想い出の品です。
 日々の心の安らぎに、長い年月をさまざまな物が私の心を慰めて呉れました。現在日々の慰めはヒヨドリと雀でしょうか。雀は居間の窓外に来て、欄間から中を覗き込んでピーコピーコと餌の米粒をねだります。気付かないとガラス窓を嘴でコツコツ叩きます。庭の松の木の枝に、王侯のように止まっているヒヨドリの餌は、小箱に置いたオレンジです。みな家族が近づいても逃げず怖れず、言わば家族にとって人生の道連れと云っても良いようです。懐くとはこういうものか、と思う位に距離が近くても悠然としています。
 この年まで生きて来て、心臓に激しい動悸を覚える程の感激は幾つかありましたが、その一つが「ビードロの・・・」の短歌がNHKテレビに放映された時でした。以来岡井先生に短歌のご指導を頂くご縁が出来ました。幾度が訪れたスランプも「頑張りませう」とリポートの優しい励ましの言葉に支えられて、切り抜けることが出来ました。
 昨年先生はお亡くなりになりました。私は支柱を失った老木のようになって、短歌を詠む気力も体力も消え失せました。俳句ならエネルギーの消耗も少ないかと思い詠んでみたものです。初心者の作としてお見逃し下さい。

約束を忘れし吾に春の風

野火もはや遠き昔よ夢にのみ

失言をリセットしたき竹の秋 


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