今年も我が家の庭に、シャガの花が咲きました。庭のシャガは5月に入る頃から咲いて、薄青色の花弁に小さな黄色の斑点が少しありますが、全体的には薄い青色に見えるので、とても可憐で清楚な感じの野草です。車庫脇に添って根を張り、年毎に群れを伸ばして咲いています。
過ぎし日に、私たちは金沢市へ旅行に出て、夫の母校へ立ち寄った事がありました。学生時代に夫たちが教室や研究室として学んだ建物が、金沢城郭の中に、まだ残っていました。夫はとても懐かしんで教室の窓ガラスの外から、背伸びをして覗き込んだりしていました。お城を出て、坂道をダラダラと下って行くと、旧制四高(第四高等学校)の赤煉瓦作りの建物へと繋がっています。
坂道の道端に、群生して咲いていたシャガが、夫の目に留まりました。その美しさに旅の記念にと、一株だけ根をつけたままビニルの袋に入れて持ち帰って、私が庭に接している車庫の脇に植えたのでした。
清楚な薄い青の花弁は、5月の空の色を写したように、とても野草とは思えないほど美しく健気に咲いて、年毎に旅の想い出を紡いでくれました。
私たちが夫の母校などに立ち寄る旅に出たのには、もう一つの理由がありました。夫は学生時代の親しかった友人と、「愚痴庵閑話」と後に名づけたメール交換をしていて、詩吟の達人の奥様が外出されると、独りが寂しいらしく、長い電話が来ました。夫婦そろって会ったこともあり、とても親しくおつき合いを続けて来たのでした。
彼は医科大学の助教授(現在の准教授)という立場にあったのですが、後年胸部大動脈瑠と言う病を抱えて、旅行もままならないようになってしまいました。松尾芭蕉の俳句が好きで「奥の細道」をたどる旅をする程にのめりこんでいたのですが。
私たちが金沢へ行くと聞くと、「では金沢市にある芭蕉の句碑を尋ねて、写真を撮ってきて欲しい。想い出の校舎も。」と頼まれたのでした。
私たちも北海道から四国・九州など全国を車や鉄路の旅を沢山してきましたが、このように「芭蕉の句碑を尋ねる」というテーマのある旅はキリシタン殉教の歴史の旅と、三年かかった四国遍路の旅を除けば、初めてでした。振り返って見ると、とても良い記念になりました。
この旅で一番感動した句碑は、一笑塚です。芭蕉がその門下生の中で、特に才能を高く評価した小杉一笑は、師の芭蕉に会うこともなく、36歳の生涯を閉じたのです。一笑の死の翌年この地を訪れた芭蕉は、その死を非常に悲しんで、慟哭の思いを「つかも動け 我が泣く声は 秋の風」という一句に託したのでした。「つかも動け」と言う言葉は、激しい悲しみに突き動かされて、心の底から湧き上がって来た芭蕉の悲しみのことばとして、私は心を捕らえられました。念願寺の山門をくぐった直ぐ左手の、一笑塚の傍らに立ててある説明書きを読んで、涙を誘われずにはいられませんでした。また成学寺の境内には、ツワブキに囲まれた自然石の「一笑塚」もありました。
訪れる人の見えない、閑静な長久寺には、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)」兼六園小立野口の山崎山の登り口には「あかあかと日はつれなくも秋の風」が建っていました。これは有名な句ですから、この句碑は一つだけではなく、犀川大橋近くの川のほとりにも、成学寺にもありました。
この他に「山さむし 心の底や 水の月」(上野八幡神社鳥居の近く)
「春もやや 気しき調ふ 月と梅」(本長寺)
があります。
句碑を巡った後は、その頃には「四高記念室」と「石川近代文学館」と名前を変えた昔懐かしい赤煉瓦の校舎に入って、此処で授業を受けた夫は、廊下を歩きながら、「まるで昔の学友達が39人、後ろにさざめき合いつつ付いてくるようだ」という感想を漏らしながら、一足一足味わうように踏みしめて歩いていました。古い校舎の長い廊下には、そのような光景が現実のように浮かぶのも、不思議には思えませんでした。
四高の歴史の中には、西田幾多郎や鈴木大拙、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星、井上靖など優れた学者や文学者を輩出しています。
私は室生犀星が好きです。新聞の連載で、「杏っ子」を夢中になって読みました。犀星の次の詩が特に好きです。
「寂しき春」
したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま
あをぞらに
越後の山も見ゆるぞ
さびしいぞ
一日もの言はず
野に出でてあゆめば
菜種のはなは波をつくりて
いまははや
しんにさびしいぞ
寂しい、寂しいという室生犀星は、このふる里の犀川の岸辺に、不遇な時代の想い出があり、
ふるさとは遠きにありておもふもの
そして悲しくうたふもの
(小景異情から)
という詩も作りました。「みやこ」が何処か、など様々な解釈があるようですが、ふる里に対する悲しく深い思いを胸にしながら、「遠き都へかえらばや」とうたっていまます。切ない詩です。
優れた先人たちの言葉は、とても心の深くに入り込んで、旅の想い出を一層しみじみとしたものにしてくれました。夫の友人も今は鬼籍に入り、私達も思い出すたびに、楽しい旅ではありましたが、金沢にまつわる悲しい想いも湧いてきて、年のせいかとても寂しくも思えます。写真に解説を付けて製本したものを、彼に一冊送り、我が家に一冊残してあります。
庭のシャガは今年も綺麗に咲き、5月の内に散ってしまいました。清楚で可憐で、つつましやかなその姿は、夫やその学友の、青春の胸のときめきを伝えてくれているように思えました。また来年咲くのを楽しみにしています。
過ぎし日に、私たちは金沢市へ旅行に出て、夫の母校へ立ち寄った事がありました。学生時代に夫たちが教室や研究室として学んだ建物が、金沢城郭の中に、まだ残っていました。夫はとても懐かしんで教室の窓ガラスの外から、背伸びをして覗き込んだりしていました。お城を出て、坂道をダラダラと下って行くと、旧制四高(第四高等学校)の赤煉瓦作りの建物へと繋がっています。
坂道の道端に、群生して咲いていたシャガが、夫の目に留まりました。その美しさに旅の記念にと、一株だけ根をつけたままビニルの袋に入れて持ち帰って、私が庭に接している車庫の脇に植えたのでした。
清楚な薄い青の花弁は、5月の空の色を写したように、とても野草とは思えないほど美しく健気に咲いて、年毎に旅の想い出を紡いでくれました。
私たちが夫の母校などに立ち寄る旅に出たのには、もう一つの理由がありました。夫は学生時代の親しかった友人と、「愚痴庵閑話」と後に名づけたメール交換をしていて、詩吟の達人の奥様が外出されると、独りが寂しいらしく、長い電話が来ました。夫婦そろって会ったこともあり、とても親しくおつき合いを続けて来たのでした。
彼は医科大学の助教授(現在の准教授)という立場にあったのですが、後年胸部大動脈瑠と言う病を抱えて、旅行もままならないようになってしまいました。松尾芭蕉の俳句が好きで「奥の細道」をたどる旅をする程にのめりこんでいたのですが。
私たちが金沢へ行くと聞くと、「では金沢市にある芭蕉の句碑を尋ねて、写真を撮ってきて欲しい。想い出の校舎も。」と頼まれたのでした。
私たちも北海道から四国・九州など全国を車や鉄路の旅を沢山してきましたが、このように「芭蕉の句碑を尋ねる」というテーマのある旅はキリシタン殉教の歴史の旅と、三年かかった四国遍路の旅を除けば、初めてでした。振り返って見ると、とても良い記念になりました。
この旅で一番感動した句碑は、一笑塚です。芭蕉がその門下生の中で、特に才能を高く評価した小杉一笑は、師の芭蕉に会うこともなく、36歳の生涯を閉じたのです。一笑の死の翌年この地を訪れた芭蕉は、その死を非常に悲しんで、慟哭の思いを「つかも動け 我が泣く声は 秋の風」という一句に託したのでした。「つかも動け」と言う言葉は、激しい悲しみに突き動かされて、心の底から湧き上がって来た芭蕉の悲しみのことばとして、私は心を捕らえられました。念願寺の山門をくぐった直ぐ左手の、一笑塚の傍らに立ててある説明書きを読んで、涙を誘われずにはいられませんでした。また成学寺の境内には、ツワブキに囲まれた自然石の「一笑塚」もありました。
訪れる人の見えない、閑静な長久寺には、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)」兼六園小立野口の山崎山の登り口には「あかあかと日はつれなくも秋の風」が建っていました。これは有名な句ですから、この句碑は一つだけではなく、犀川大橋近くの川のほとりにも、成学寺にもありました。
この他に「山さむし 心の底や 水の月」(上野八幡神社鳥居の近く)
「春もやや 気しき調ふ 月と梅」(本長寺)
があります。
句碑を巡った後は、その頃には「四高記念室」と「石川近代文学館」と名前を変えた昔懐かしい赤煉瓦の校舎に入って、此処で授業を受けた夫は、廊下を歩きながら、「まるで昔の学友達が39人、後ろにさざめき合いつつ付いてくるようだ」という感想を漏らしながら、一足一足味わうように踏みしめて歩いていました。古い校舎の長い廊下には、そのような光景が現実のように浮かぶのも、不思議には思えませんでした。
四高の歴史の中には、西田幾多郎や鈴木大拙、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星、井上靖など優れた学者や文学者を輩出しています。
私は室生犀星が好きです。新聞の連載で、「杏っ子」を夢中になって読みました。犀星の次の詩が特に好きです。
「寂しき春」
したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま
あをぞらに
越後の山も見ゆるぞ
さびしいぞ
一日もの言はず
野に出でてあゆめば
菜種のはなは波をつくりて
いまははや
しんにさびしいぞ
寂しい、寂しいという室生犀星は、このふる里の犀川の岸辺に、不遇な時代の想い出があり、
ふるさとは遠きにありておもふもの
そして悲しくうたふもの
(小景異情から)
という詩も作りました。「みやこ」が何処か、など様々な解釈があるようですが、ふる里に対する悲しく深い思いを胸にしながら、「遠き都へかえらばや」とうたっていまます。切ない詩です。
優れた先人たちの言葉は、とても心の深くに入り込んで、旅の想い出を一層しみじみとしたものにしてくれました。夫の友人も今は鬼籍に入り、私達も思い出すたびに、楽しい旅ではありましたが、金沢にまつわる悲しい想いも湧いてきて、年のせいかとても寂しくも思えます。写真に解説を付けて製本したものを、彼に一冊送り、我が家に一冊残してあります。
庭のシャガは今年も綺麗に咲き、5月の内に散ってしまいました。清楚で可憐で、つつましやかなその姿は、夫やその学友の、青春の胸のときめきを伝えてくれているように思えました。また来年咲くのを楽しみにしています。