ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

水害の想い出

2018年07月21日 | 随筆
 平成30年7月の、豪雨の被災者の方達に、心からお見舞い申しあげます。思いがけない大被害に戸惑ったり、途方に暮れている方もおられると思います。水が引けて後の残土の始末には、大変な労力を要します。他人ごととは思えない私は、復旧に力を注いでおられる皆さんや、ボランティアの方達には、日本国民の一人として深く感謝しています。
 私も過去に、(高校生時代)実家の直ぐ裏を流れていた、日頃は水深十センチ位の清流が溢れて、床上浸水になったことがありました。川幅4m位でしょうか。小学生の頃は、よく小魚を釣ったり網で掬ったりして、楽しい水遊びの川でした。
 そんな川がどうして氾濫したかと云うと、家の前の道路に続いた川を渡る木製の橋が、コンクリートに改修された後、豪雨で流されて来た木の枝の束(当時はかまどを使う人の焚き木)やゴミがつかえてしまったからなのです。以前なら、洪水時は橋の方が流されたのでしょうけれど、丈夫に改修されたのが原因とは、皮肉なことではあります。
 川上で低い堤防を乗り越えた水が溢れて、わが家の庭や家の縁の下に水が押し寄せました。やがて床上に迄押し寄せて、畳を押し上げて、箪笥や家具が倒れました。
 父はその頃、徒歩で通える高校に勤めていて、帰路に離れた大河に掛かる橋の上から、わが家が水害に遭ったことを知ったそうです。「命さえあれば何とかなる」と帰って来た父が言った言葉が、今も耳に残っています。
 水が引けてからは、ご近所の人達が大勢集まって、縁の下の泥を掬って下さいました。濡れた畳は捨てるしか無く、床は当時の小型消防車のホースで洗い流して貰いました。それからの日々は、家族で床が乾く迄、毎日の床磨きが大変でした。拭いても拭いても隅に細かい土汚れが残る気がします。私達姉妹と母で、せっせと床磨きをしました。
 やがて新しい畳も入り、ふすまや戸障子も以前よりも奇麗に張り替えられて、家は内装し直したように明るくなったのが、せめてもの救いでもありました。
 父はたまたま古文書の類いを、土蔵の二階から沢山出して来て居て、「専門家に依頼して調べてもらう」と言って居たのですが、書類も流されて水濡れになり、読めなくなったり価値がなくなったりしたことが惜しまれる位で、家族の暮らしには、さして問題もありませんでした。
 暫くは二階の部屋で家族は寝泊まりして、何処かへ避難することもありませんでした。手伝って下さった皆さんに感謝しながら、やがて平常通りの生活に戻りました。
 今回は土砂崩れがありましたから、被害の程度は大違いです。ご苦労を察し、又慣れない避難所暮らしや、この熱波という異常な暑さの中では、さぞ心身ともに疲労されていることと思い、テレビを見ながらその辛さが身に浸みて分かります。
 この度は広い地域で被害がありましたから、義援金は家族などが、特にお世話になった県に、拠出させてもらおうと思っています。
 四国遍路で「この先馬路村」と言う標識を見たり、そんなご縁から、日常は馬路村の「ポン酢しょうゆ ゆずの村」を愛用しています。又、愛媛県では、卯之町の明石寺にお参りして梵鐘を撞き、開明学校を見学したりしもしましたし、坊ちゃんの湯や子規記念館にも行きました。美味しい鯛飯も頂きました。
 岡山県は何かとお世話になったり親しく見学し、倉敷の美術館や美観地区、後楽園や岡山城、林原美術館の素晴らしい展示物を見学したことも想い出深いです。今も私の机には、火襷(ひだすき)茶入 銘 雷神 備前焼 桃山時代とある林原美術館で購入して来た絵はがきが飾ってあります。眺めていて飽きの来ないお気に入りの一枚です。中宮寺の弥勒菩薩像と並べて飾っています。 数え上げれば想い出と共に蘇る思いには、つき無いものがあります。過去の旅行を省みれば、足を降ろさなかった県は、佐賀県と沖縄だけで、その他の県では深さこそ違いますが、みな何かとお世話になっていることになります。その感謝の恩返しの為に、「少しでもお役に立てるように」と家族で話しているところです。
 振り返れば人生は苦難も多く、また助けて頂いた事も沢山あって、旅行の都度、数限りない良い想い出を残して頂いたことも忘れられません。
 どうか、元気を出して、この先の苦難を乗り越えて頂きたいと祈っています。あの3.11の大災害の時ももそうでしたが、映像を見る度に胸が痛み、私さえもストレスが高まります。被災者の方達や、支援に出向いて居られる方達には、どうぞ身体に気を付けて、過ごして頂きたいと切に願っています。


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