鳥取の砂丘に行ったことがあります。私の街にも海がありますから、当然砂丘があり、夏には海水浴場の海の家が建ったりします。昔からの砂丘が今は街になって、○○山とか山○○とか言う地名になっています。海の傍の砂山が最も大きい砂丘です。でも鳥取ほどの規模ではありません。初めて砂丘らしい砂丘を見て、日本にもこのような砂丘があるのかと感動しました。
砂丘へは、長靴を借りて登って行きます。初めての経験でしたから、長靴で登るなどという知識は持ち合わせていませんでした。長靴は一足毎に砂に埋まり、急な斜面では一歩登るとその半分くらいは滑り落ちるのです。ですから前方から見て、そう大して時間は掛かるまいと思いましたが、頂上に登るのには、なかなかの苦労で汗が出ました。
頂上に登りましたら、海側の斜面を吹き上げて来る、やや強い潮風が大変心地よく思えました。海側は草が生えて絶壁に近い感じで、下りられるような所ではありません。ただこの潮風が運んでくる砂が、丘の頂上を越えて降り注ぎ、砂丘をなしているのです。
砂丘の頂上に腰を下ろして、しばらく休憩しました。人々が上り下りする所は、足跡で砂は崩れていましたが、人が登らないところには風紋が出来ていました。一吹きすると風紋は直ぐに形を変え、面白いように砂丘の表面の模様が変わりました。
少し遠くの頂上からややすり鉢方面に下った処に、女性が一人、私達が砂丘に登る前からずっと長い間動かずに、砂紋を眺めて腰を下ろして居ました。何故か気になりました。何か悩みでもあるのかしら、とも思えて来ました。私達夫婦がこの地を訪れた目的と、つい関連づけて心を痛めてしまいました。私達が帰る時も、女性はそのまま動かずに、座ったままでした。
私達が鳥取の砂丘に出かけたのは、山陰道を見学しつつ、大山や出雲神社、津和野や周防・山口の史跡を訪ねたり、下関では平家の赤間神社等を見学して、九州から船で帰る旅の途中でもありました。
しかし、鳥取はとりわけ夫には、忘れられない想い出があったのです。夫が二十代の始めの頃に、一緒に勤めていた上司で、とてもやさしく面倒見の良い方で、夫は何かとお世話になったのだそうですが、職場が離れてから間もなく、その方は突然夫のある女性と心中してしまったのです。
二人の仲が職場内で知られたようで、その方は来春から遠くへ転勤が決まっていたといいます。女性も元夫が、原因は知りませんが投獄されていて、近く出所して来る予定だったそうです。
男性はやさしい人だったから、女性の身の上に同情したのだろうと夫は言いました。しかし当時は外見はごく普通で、そのような切羽詰まった状態には見えなかったといいます。
男性は単身赴任でしたが、家庭的にも恵まれていて、将来の家族の夢を語る日々もあったといいます。夫には、何故鳥取の砂丘であったのか、と問う心がいつもあって、亡くなられたその場所へ行けば、ひよっとしてその心境が理解出来るかも知れない、という思いがあったようです。
ですから一度は亡くなられた鳥取の砂丘に行って、手を合わせて来たい、せめてお世話になったお礼を言いたいと折々言っていたのです。
てもその地に立っても、砂は何も答えてはくれず、「悲しいなあ、本当に死ぬためにここへ来たのだろうか」と2万年をかけて出来たという砂丘の上で、つぶやいていました。祈ったり周りの風景を眺めたりした後に下に降りて、展示館で風紋や砂廉の美しい写真を眺めました。
砂と言えば、亡くなった娘が学生時代にドイツの或るご家庭に、大学の語学研修で、一ヶ月あまりお世話になったことがありました。そのご家庭はご夫婦とも小学校の教師でした。子供さんが二人いらして、上が女の子、下が男の子で、どちらもまだ小学生でした。
そこのお父様が世界各国の砂を集めておいでだと伺って、娘も日本の美しい砂を持って行ってあげたいと言い、私達親も娘と共に、100キロほど離れた鳴き砂と言われる白砂の海岸へ車で出かけ、砂を小瓶に入れて持たせてやりました。
そこは岩や海岸が美しくて、以前よく海水浴に出かけたところですが、それまであまり砂に気を止めたりしては居らず、瓶に入れて棒でつつくと、確かにキュッキュッと音を立てました。
お父様がとても喜んで下さったそうです。お父様は焼き物が趣味で、ご自分で土をこねて焼いた、牛乳やスープを入れる大きめの瓶と、持ち手の無い小ぶりの温かみのあるカップを5個、セットで記念として娘に下さいました。今もわが家に大切に飾られています。
砂丘の風紋は風が吹く度に姿を変え、見ていて飽きません。砂廉(されん)というのは、砂が吹き積もって、お天気の良い日に限度を超えるとザッとある程度の幅で滑り落ちるのです。その跡は砂のすだれのように見えます。その様々な砂廉の跡もまた哀しいものです。「我慢して耐えに耐えてきたのに、遂に限度を越えた時、一挙に崩れて行く様は、あの二人の心象風景に思えてならない」と、夫が言いました。砂には心はありませんが、まるで魂がそこにあるようにも思えます。
鳥取の砂丘の砂も、鳴き砂も今は遠い想い出ですが、そういえば私が一番好きな歌人の啄木も、次のような名歌を残しているのでした。
砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもひ出る日
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
頬(ほ)につたふなみだのごはず一握(いちあく)の砂を示しし人を忘れず
大(だい)といふ字を百あまり砂に書き死ぬことやめて帰り来(きた)れり
石川 啄木 一握の砂(新潮社)より
砂丘へは、長靴を借りて登って行きます。初めての経験でしたから、長靴で登るなどという知識は持ち合わせていませんでした。長靴は一足毎に砂に埋まり、急な斜面では一歩登るとその半分くらいは滑り落ちるのです。ですから前方から見て、そう大して時間は掛かるまいと思いましたが、頂上に登るのには、なかなかの苦労で汗が出ました。
頂上に登りましたら、海側の斜面を吹き上げて来る、やや強い潮風が大変心地よく思えました。海側は草が生えて絶壁に近い感じで、下りられるような所ではありません。ただこの潮風が運んでくる砂が、丘の頂上を越えて降り注ぎ、砂丘をなしているのです。
砂丘の頂上に腰を下ろして、しばらく休憩しました。人々が上り下りする所は、足跡で砂は崩れていましたが、人が登らないところには風紋が出来ていました。一吹きすると風紋は直ぐに形を変え、面白いように砂丘の表面の模様が変わりました。
少し遠くの頂上からややすり鉢方面に下った処に、女性が一人、私達が砂丘に登る前からずっと長い間動かずに、砂紋を眺めて腰を下ろして居ました。何故か気になりました。何か悩みでもあるのかしら、とも思えて来ました。私達夫婦がこの地を訪れた目的と、つい関連づけて心を痛めてしまいました。私達が帰る時も、女性はそのまま動かずに、座ったままでした。
私達が鳥取の砂丘に出かけたのは、山陰道を見学しつつ、大山や出雲神社、津和野や周防・山口の史跡を訪ねたり、下関では平家の赤間神社等を見学して、九州から船で帰る旅の途中でもありました。
しかし、鳥取はとりわけ夫には、忘れられない想い出があったのです。夫が二十代の始めの頃に、一緒に勤めていた上司で、とてもやさしく面倒見の良い方で、夫は何かとお世話になったのだそうですが、職場が離れてから間もなく、その方は突然夫のある女性と心中してしまったのです。
二人の仲が職場内で知られたようで、その方は来春から遠くへ転勤が決まっていたといいます。女性も元夫が、原因は知りませんが投獄されていて、近く出所して来る予定だったそうです。
男性はやさしい人だったから、女性の身の上に同情したのだろうと夫は言いました。しかし当時は外見はごく普通で、そのような切羽詰まった状態には見えなかったといいます。
男性は単身赴任でしたが、家庭的にも恵まれていて、将来の家族の夢を語る日々もあったといいます。夫には、何故鳥取の砂丘であったのか、と問う心がいつもあって、亡くなられたその場所へ行けば、ひよっとしてその心境が理解出来るかも知れない、という思いがあったようです。
ですから一度は亡くなられた鳥取の砂丘に行って、手を合わせて来たい、せめてお世話になったお礼を言いたいと折々言っていたのです。
てもその地に立っても、砂は何も答えてはくれず、「悲しいなあ、本当に死ぬためにここへ来たのだろうか」と2万年をかけて出来たという砂丘の上で、つぶやいていました。祈ったり周りの風景を眺めたりした後に下に降りて、展示館で風紋や砂廉の美しい写真を眺めました。
砂と言えば、亡くなった娘が学生時代にドイツの或るご家庭に、大学の語学研修で、一ヶ月あまりお世話になったことがありました。そのご家庭はご夫婦とも小学校の教師でした。子供さんが二人いらして、上が女の子、下が男の子で、どちらもまだ小学生でした。
そこのお父様が世界各国の砂を集めておいでだと伺って、娘も日本の美しい砂を持って行ってあげたいと言い、私達親も娘と共に、100キロほど離れた鳴き砂と言われる白砂の海岸へ車で出かけ、砂を小瓶に入れて持たせてやりました。
そこは岩や海岸が美しくて、以前よく海水浴に出かけたところですが、それまであまり砂に気を止めたりしては居らず、瓶に入れて棒でつつくと、確かにキュッキュッと音を立てました。
お父様がとても喜んで下さったそうです。お父様は焼き物が趣味で、ご自分で土をこねて焼いた、牛乳やスープを入れる大きめの瓶と、持ち手の無い小ぶりの温かみのあるカップを5個、セットで記念として娘に下さいました。今もわが家に大切に飾られています。
砂丘の風紋は風が吹く度に姿を変え、見ていて飽きません。砂廉(されん)というのは、砂が吹き積もって、お天気の良い日に限度を超えるとザッとある程度の幅で滑り落ちるのです。その跡は砂のすだれのように見えます。その様々な砂廉の跡もまた哀しいものです。「我慢して耐えに耐えてきたのに、遂に限度を越えた時、一挙に崩れて行く様は、あの二人の心象風景に思えてならない」と、夫が言いました。砂には心はありませんが、まるで魂がそこにあるようにも思えます。
鳥取の砂丘の砂も、鳴き砂も今は遠い想い出ですが、そういえば私が一番好きな歌人の啄木も、次のような名歌を残しているのでした。
砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもひ出る日
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
頬(ほ)につたふなみだのごはず一握(いちあく)の砂を示しし人を忘れず
大(だい)といふ字を百あまり砂に書き死ぬことやめて帰り来(きた)れり
石川 啄木 一握の砂(新潮社)より