先日ある新聞に「大原美術館 創立80周年 よりすぐりの所蔵品並ぶ」という記事が載っていました。私の心の奥に、この大原美術館が静かに息づいていました。
父が子供の教育の為に山林の多くを伐採してしまいましたので、山林の復活の為に杉の植林に退職後の全てを打ち込みました。戦後の農地解放にあわなければ、何もしなくても暮らして行けたのですが、田畑はすっかり解放されてしまって無くなりました。でも山林は解放にならず、当時は木材は高く売れたので、父は山林を切って子供達の教育をしました。「これからは、女の子も教育が財産だ」と言って、男女とも高卒後もそれぞれにふさわしい教育をしてくれたのです。
植林作業もすっかり植え終わって一段落し、安穏の老後を送るようになった父は、母を伴って日本のあちこちに、幾日かかけては旅行に出かけました。キャッシュカードもない時代でしたから、現金の他に郵便貯金の通帳を持って、必要に応じて、旅先の郵便局で下ろしていました。もう40年以上も前のことです。
南は、鹿児島県の枕崎まで行って、温泉の砂風呂に入り「珍しかった」と母が浴衣を着て砂を掛けて貰ったことを後々までも喜んでいました。
木が好きな父は、四国最南端の南国の樹木に驚いたり、高松の栗林公園に栗の木が無かったと(栗林というからには栗の木があるだろう、我が家の栗の大木に比べてどうだろうと思ったようです)残念そうだったことが記憶に残っています。その後私達も行きましたが、立派な松のある見事な大規模の回遊式庭園だったので、父の期待が外れたのを想い出して、おかしがったり気の毒でもあったことを記憶しています。
一番下の妹が未だ結婚していなかった頃には、島根の出雲大社まで良い縁に恵まれますようにと、お詣りに行ったといいます。京都や奈良は勿論ですが、九州から東北まで、何度も、何度も旅行をしています。ただ北海道へは行かなかったので、父が亡くなってから、弟が母を北海道と沖縄へ連れていきました。
ある時田舎の家で、父が私に「倉敷の大原美術館というところは、素晴らしい所だから、一生に一度は是非行って来なさい」と言い、「きっとだよ、後悔はしないから」と付け加えました。「倉敷にあのような素晴らしい美術館があるなんて、驚きだった」とも言い、その時の父の感動的な話を、私はずっと心の底にしまっていたのでした。
私達夫婦も恐らく多くの皆さんのように、同居していた夫の両親を彼岸に送り、夫も退職してやっと自由になった時、一番初めにした事は、両親のお骨を京都の総本山に納骨することを、第一日目の行事としての八日間の旅行でした。
そして、やっと念願叶って倉敷の大原美術館へ行ったのです。美観地区に白亜の美術館がありました。正面の右にロダンのカレーの市民(一体)、左に洗礼者ヨハネの像が立っていました。中には、それはそれは見事な絵画や彫刻があり、息を呑んでしまいました。印象深かったのは、エル・グレコの「受胎告知」、モネの「睡蓮」、コロー、クールベ、ルノアール、ドガ、モディリアニそしてゴーギヤンの「かぐわしき大地」など、上野で見た数々の名作の感動も忘れられませんが、このようなこじんまりした美術館で、こんなに素晴らしい作品を直に見られたことに感動し、すっかり二人とも魅了されたのでした。
今年は、所蔵作品約3000点の中の「名作選155」の掲載作が全て見られるようにして、特に一室に「受胎告知」一点のみを飾り、椅子を置いて、心ゆくまで鑑賞出来るようになっているようです。
私は格別美術作品に詳しい訳ではなく、我が家の本棚には、世界の美術全集が十数冊ありますが、これは様々な国籍の美術全集なので、時折興味が湧いた時に好きなものを取り出して、眺めている程度です。ですが、この大原美術館だけは、父母の想い出と共に、また義父母の納骨の旅として、夫婦でやっと念願叶った旅行での想い出として、今も心に鮮明に残っているのです。今回の会期は、2010年の12月5日迄だそうですから、とても私達には遠すぎますので、遥かに思いをはせるだけです。
この年まで、何とか元気に過ごし、去年一年だけは、私の怪我や夫の高血圧で、春も秋も旅行はキャンセルになりましたが、旅行の回数や出かけた場所も、旅好きの父母を越えました。思えば、父母が行った所は殆ど行っており、同じ道を追いかけるように回ったところもあり、義父の思い出の旅(義母は旅行は嫌いで出かけませんでした)の地も回り、或る意味では追悼のような旅も沢山あったのです。
一つ一つの旅には必ず忘れられない素晴らしい想い出が残ります。退職記念の納骨の旅では、大原美術館が、今もその忘れられない一つになっています。
願解きに金比羅参りをしたる義父いかなる願か遂に言はざりき (某紙に掲載)
砂に降る雨に魂吸われつつ鳥取砂丘に立ちつくしをり (某誌に掲載)
仏舎利を拾ふがごとく玉石を桂浜に拾ふ遍路となりて (再掲)
沈黙のイエス像に語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館 (再掲)
父が子供の教育の為に山林の多くを伐採してしまいましたので、山林の復活の為に杉の植林に退職後の全てを打ち込みました。戦後の農地解放にあわなければ、何もしなくても暮らして行けたのですが、田畑はすっかり解放されてしまって無くなりました。でも山林は解放にならず、当時は木材は高く売れたので、父は山林を切って子供達の教育をしました。「これからは、女の子も教育が財産だ」と言って、男女とも高卒後もそれぞれにふさわしい教育をしてくれたのです。
植林作業もすっかり植え終わって一段落し、安穏の老後を送るようになった父は、母を伴って日本のあちこちに、幾日かかけては旅行に出かけました。キャッシュカードもない時代でしたから、現金の他に郵便貯金の通帳を持って、必要に応じて、旅先の郵便局で下ろしていました。もう40年以上も前のことです。
南は、鹿児島県の枕崎まで行って、温泉の砂風呂に入り「珍しかった」と母が浴衣を着て砂を掛けて貰ったことを後々までも喜んでいました。
木が好きな父は、四国最南端の南国の樹木に驚いたり、高松の栗林公園に栗の木が無かったと(栗林というからには栗の木があるだろう、我が家の栗の大木に比べてどうだろうと思ったようです)残念そうだったことが記憶に残っています。その後私達も行きましたが、立派な松のある見事な大規模の回遊式庭園だったので、父の期待が外れたのを想い出して、おかしがったり気の毒でもあったことを記憶しています。
一番下の妹が未だ結婚していなかった頃には、島根の出雲大社まで良い縁に恵まれますようにと、お詣りに行ったといいます。京都や奈良は勿論ですが、九州から東北まで、何度も、何度も旅行をしています。ただ北海道へは行かなかったので、父が亡くなってから、弟が母を北海道と沖縄へ連れていきました。
ある時田舎の家で、父が私に「倉敷の大原美術館というところは、素晴らしい所だから、一生に一度は是非行って来なさい」と言い、「きっとだよ、後悔はしないから」と付け加えました。「倉敷にあのような素晴らしい美術館があるなんて、驚きだった」とも言い、その時の父の感動的な話を、私はずっと心の底にしまっていたのでした。
私達夫婦も恐らく多くの皆さんのように、同居していた夫の両親を彼岸に送り、夫も退職してやっと自由になった時、一番初めにした事は、両親のお骨を京都の総本山に納骨することを、第一日目の行事としての八日間の旅行でした。
そして、やっと念願叶って倉敷の大原美術館へ行ったのです。美観地区に白亜の美術館がありました。正面の右にロダンのカレーの市民(一体)、左に洗礼者ヨハネの像が立っていました。中には、それはそれは見事な絵画や彫刻があり、息を呑んでしまいました。印象深かったのは、エル・グレコの「受胎告知」、モネの「睡蓮」、コロー、クールベ、ルノアール、ドガ、モディリアニそしてゴーギヤンの「かぐわしき大地」など、上野で見た数々の名作の感動も忘れられませんが、このようなこじんまりした美術館で、こんなに素晴らしい作品を直に見られたことに感動し、すっかり二人とも魅了されたのでした。
今年は、所蔵作品約3000点の中の「名作選155」の掲載作が全て見られるようにして、特に一室に「受胎告知」一点のみを飾り、椅子を置いて、心ゆくまで鑑賞出来るようになっているようです。
私は格別美術作品に詳しい訳ではなく、我が家の本棚には、世界の美術全集が十数冊ありますが、これは様々な国籍の美術全集なので、時折興味が湧いた時に好きなものを取り出して、眺めている程度です。ですが、この大原美術館だけは、父母の想い出と共に、また義父母の納骨の旅として、夫婦でやっと念願叶った旅行での想い出として、今も心に鮮明に残っているのです。今回の会期は、2010年の12月5日迄だそうですから、とても私達には遠すぎますので、遥かに思いをはせるだけです。
この年まで、何とか元気に過ごし、去年一年だけは、私の怪我や夫の高血圧で、春も秋も旅行はキャンセルになりましたが、旅行の回数や出かけた場所も、旅好きの父母を越えました。思えば、父母が行った所は殆ど行っており、同じ道を追いかけるように回ったところもあり、義父の思い出の旅(義母は旅行は嫌いで出かけませんでした)の地も回り、或る意味では追悼のような旅も沢山あったのです。
一つ一つの旅には必ず忘れられない素晴らしい想い出が残ります。退職記念の納骨の旅では、大原美術館が、今もその忘れられない一つになっています。
願解きに金比羅参りをしたる義父いかなる願か遂に言はざりき (某紙に掲載)
砂に降る雨に魂吸われつつ鳥取砂丘に立ちつくしをり (某誌に掲載)
仏舎利を拾ふがごとく玉石を桂浜に拾ふ遍路となりて (再掲)
沈黙のイエス像に語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館 (再掲)