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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

巡り合いの不思議

2014年05月20日 | 随筆・短歌
 九州一周の旅行に行って来ました。梅雨入りの九州でしたが、雨の対策は充分でしたから、さして気にならず、快適な旅でした。九州は三回目になりますが、過去に行った所も新しい角度から見ることができましたし、何よりも歴史に大変詳しいガイドさんのお陰で、今迄と又ひと味違った感動を覚えました。
 歴史好きの夫は、訪れる先々の歴史には、概ね知識があって、一段と身近に思い出されるようで、意義深かったようです。私は天孫降臨の古事記に幼い頃から興味を持ち、父が買ってくれた「神さまのお話」という古事記の子供用の本を、未だ小学校へ上がる前から繰り返し読んでおり、記紀に親しむにつれて、高千穂へは是非行ってみたかったのです。しかし、遠く内陸に入りますから、うまく旅程が組めず、その機会がありませんでした。今回やっと念願が果たせ、感動しました。
 九州は各地に様々な歴史があり、神世の時代から、時の政治に深く関わって来たのだと、改めて九州の歴史の古さや重みを感じました。
 今回は、桜島からフェリーに乗って鹿児島市に入りました。鹿児島県の人々は、桜島を眺めると「ああふる里へ帰ってきた」と思うようです。今回は行きませんでしたが、最初の旅で、西郷隆盛のお墓へ行った時は、高台の彼の大きなお墓を中心に、臣下がぐるりと取り巻いていて、皆桜島を一直線に見つめて並び立つ姿に圧倒されました。今回はバスの中から西郷像を眺め、西南戦争の弾痕あとが残る石垣を眺めましたが、当時の人々の見せた「最後の武士」の意地が熱く伝わって来ました。
 知覧特攻記念館では、展示室に新しく映像機器が入っており、資料も増えていました。特攻隊の兵士の遺書は、何度見ても涙が流れます。継母に育てられて、義理の姉弟と平等に愛されて育てられたのに、一度も母と呼んだことがないことを詫びて、出撃前夜の遺書に「今こそ呼ばせて下さい。おかあさん・おかあさん・おかあさんと。」という遺書を読んで、最後の最後に義母の愛に感謝して散っていった特攻兵に、止めどなく涙がこぼれました。
 以前は、江戸時代の面影を今に残している、こじんまりとした庭園の美しい武家屋敷を一軒一軒訪ねましたが、今回その時間はなく、代わりに枕崎まで行って、知覧を飛び立った特攻機が、富士に似た壮麗な開聞岳に、「さらば祖国よ」と翼を振って別れを告げたという、当時の兵士の気持ちに思いを重ねて、かねてからの願いの一つであった此の地まで来られて良かったとしみじみと感じました。
 父母が元気な頃に矢張り、九州を一周する旅に出て、指宿温泉に泊まり、砂風呂に入ってとても楽しかったので「折りがあったら是非行っておいで」と母が言っていたのを思い出して、私も砂風呂を経験しました。何だか、とうに亡くなっている母と並んで砂風呂に入り、親孝行をしているような錯覚を覚えました。父母の道のりと私達の道のりの重なりを思い、長い時を経て、同じ経験をしている自分達に不思議な縁を感じたのでした。
 熊本城は夫の大好きな城で、「本丸御殿が出来たら又来たいね」と言っていたのですが、図らずも念願が叶えられて、立派な御殿を見て来ました。昭君の間の美しさは、息を呑む思いで見つめました。加藤清正はいかなる意図でこの様な来賓用の部屋を作ったのか、後世の歴史家間にも様々な意見があるようです。ミステリアスな物語のある方が、見学する私達を楽しませてくれます。
 長崎市は三回目で、26聖人、平和記念公園、如古堂、浦上天主堂や大浦天主堂へ行った初回と、二回目は、遠い道のりを外海の遠藤記念館へ行ったり、大浦天主堂でマリア像を訪ねて来た三人の婦人がいて、隠れキリシタンの存在を神父が知ったと言う、有名なマリア像を心ゆくまで拝みました。マリア像の絵はがきを買ってきたのですが、今やすっかり色褪せたので、今回新しいのを求めたかったのですが、見つかりませんでした。
 この度初めてツアーの旅を経験しました。思えば自分の人生は自分の意志で自由に生きて来たと思いながら、背景にある深い歴史に思いを致しますと、見えない手に導かれて、縁(えにし)という絆によって、今を生きているのだと考えない訳にはいきませんでした。 今回の旅行で学んだことが、これからの私達の生き方に様々な影響を及ぼし、如何に生きていくか、を考えさせられることに繋がりました。
 長い間、ブログを書かずに過ごしていましたので、熱心に読んで下さっている多くの読者さんに、ご心配をおかけしたかも知れないと申し訳無く思っています。

さらさらと指の間より落つ

2014年05月02日 | 随筆・短歌
石川啄木は私が一番好きな歌人です。あのように詠むことが出来たらと尊敬してやまない歌人です。
 有名な歌人は沢山いますし、私が尊敬する歌人もあり、心に残る短歌も数多くあります。しかし、啄木ほど沢山の人に好まれ、暗唱されている歌人はいないのではないでしょうか。
 平易な言葉で、人間の心の奥深くをそのまま掬い上げ、巧みに共感を誘う技巧には、素晴らしいものがあります。この非凡な才能が、多くの人の胸を揺さぶるのだと思います。私も啄木のような短歌が詠めるようになりいと憧れて、短歌を始めた一人であり、啄木の歌集をバイブルのように大切にしています。
 原子物理学でノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、「天才の世界」(小学館1985年)という著書に、世界的な天才を10人挙げて書いておられます。「弘法大師、石川啄木、ゴーゴリ、ニュートン、アインシュタイン、宗達・光琳、世阿弥、荘子、ウイナー、エジソン(俵屋宗達と尾形光琳は一組)です。啄木を天才として評価されておられることに、我が意を得たりと大変嬉しく思いました。
 湯川博士は、石川啄木の短歌で一番好きな歌は、「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」を挙げておられました。この歌について博士は「私などどういうことを感じるかといいますと、この世というものは、生きた人間が寄ってつくっている。いかにも楽しいこと、悲しいことと、いろいろあって、そこに人間が生きているというふうにもみることができる。しかし、そういう世界というのは、人間だけの世界ではなくて、その背後には、ほかの動物があり、植物があり、石もあり、山もあり、川もある。あるいは地球以外の星もある。そういう世界に住んでいるわけですね。そうすると、そこに命のないものもたくさんあるわけです。人間もまた逆に言うと命のない物質からできていて、たまたまそれが命ある人間らしきものになっているけれども、そういう人間というものが、人生のいろんなことを経験する。」
 「私などはどう感ずるかというとやはり「いのちなきすなのかなしさよ、さらさらと、握れば指のあいだより落つ」という感じが非常に現実に近いわけですね。とくに物理学のような学問をやっておりまして、そういう自然法則とか、素粒子とは何であるかというようなことを、研究しておりますと、そういうものはつかもうと思ってもなかなかつかめぬ。握ったつもりでおったのが、指の間からさらさらと落ちていく。これは何度でも経験することですね。そういういろいろのことが実に見事に集約されて、一つの歌に表現されているという意味合いから、私はこの歌が特に好きですね」と対談形式に書いておられます。
 次々と啄木の歌を挙げながら、その素晴らしさにふれ、啄木は如何に偉大な人物かと評価しています。「啄木に対する一番の共感は、底知れない嘆きへの情感である。僅か26歳で世を去った一人の偉大な文学的才能の社会的役割というものは想像以上に大きかった」という対談相手の言葉に対して、湯川博士は「啄木の歌が好きだという人はものすごい数に上るわけですね。これは大変な影響力ですよ」と天才啄木の章を結んでおられます。

 私の年齢から推し量って考えると、これ程湯川博士の啄木論に共感を覚えるのは当たり前のことかもしれませんが、啄木の短歌は誰かが言の葉を少し口にすれば、すらすら続きが出て来る歌の多いこと!みなみな好きな歌であり、多くの人が矢張り覚えて居ることに気付きます。
 「命なき砂」について考えると、元もとは元素という命の無いものが集まって命ある人間が出来ているのも不思議です。命あるが故に人間は心というよく解らないものに支配されて生きています。そして例えばある人が「得難い友達を手にした」と思っていても、気がつくと手の中にもういない。では何もないのかというと、家族がいたり、思わぬ所に心を寄せてくれている人が現れたりします。時にはそれが書物や植物や動物であったりしますが、いつの間にか心の均衡を保ってくれています。
 「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」啄木は手の中に何を見ようとしたのか、手を見れば何が解るのか、それは読む人にまかせて、ここで終わることの余韻の素晴らしさ、啄木の歌の深さをを思います。
 幸せが指の間から落ちてゆく自分の手と、生活苦に喘ぎながら凝視する手は、同じ心模様を歌っているようで、5月の若葉風の中を、かなしみが寄せてくるように思われます。



本との出会いと供養

2014年04月22日 | 随筆・短歌
 針供養は、日頃針を使って仕事をしている人々が、2月8日に折れたり曲がったりして使えなくなった針を、柔らかい豆腐などにさして、供養する日です。最近は様々な供養がなされるようで、人形供養・茶碗・筆・メガネ・トウシューズなどもあるようです。
 最近私は、愛読してきた本の処分に際して、何とか心を込めてよい形の供養が出来ないか、と思うようになりました。私は、断捨離とばかりに、退職後、1トントラック一台の本(バックナンバーを揃えて集めた書籍や、もう資料が古くなった本)を捨てたことを初めとして、その後少しずつ何ヶ月もかかって、本を沢山捨てました。後に残る家族にとっては、迷惑になるばかりだし、体力が衰えたらそれさえ出来なくなるという思いに駆られて、次々と捨ててしまいました。
 でも折角買った本で、しかもその本によって、ずいぶんと教え育てて貰ったにもかかわらず、ポイと捨ててしまうのは、いささか気後れしました。最後に専門書が残りました。捨てようと手にしては本棚に戻し、又手にしては戻しして、それも遂に思い切って捨てることにして、持てる分だけ紐で括っては、ゴミの集積所に捨てて来ました。今は月に二回しか捨てられませんが、燃やすのではなく再生されるそうなので、それだけで本に申し訳なく思う気持ちが救われ、有り難いことです。
 息子が春になって自分の部屋の整理をして、本棚にある不要になった本を、下取りする○○オフへ持って行きました。すると買った時には、数万円の本が、5冊で僅か24円で、買い取られたそうです。
 とても高かった専門書や、辞書類のドイツ語英訳・英文英訳などでも、今は資料が古くなったとか、電子辞書があるので、不要になったとかで、文庫本一冊も買えない始末です。
しかし、長く書棚にあった本を、古新聞のように再生にするのも残念で、矢張り誰か欲しい人が居られて手にして下されば嬉しいし、本も喜ぶことでしょう。
 息子は古い時代の出版でも、今は得難い本があり、ネットで売っている場合は、買うことが折々ありますが、遠くは沖縄から届くこともあります。何万円もする本が、とても安く手にはいるので、本当にありがたいと言います。
 問題は捨てるという行為をする時のその人の気持ちですから、私は愛用していたもので、未だ役に立ちそうなものを捨てる時は、せめて仏壇の前に置いて手を合わせ、お礼の祈りを捧げてから、可能な限りリサイクルにしようと心に決めました。何にも無かった時代を思うと、心苦しいほどに簡単に捨てています。本供養も悪く無い発想だとひとりでそう思っています。
 この冬、とても寒い日に、私の図書館の本が返還しなければならない日になりました。日頃その図書館を利用していない息子が、風邪気味の私に代わって返してあげるといい、でかけました。ところが思いもかけず、その図書館でとても貴重な全集に出会いました。
 出会いはいつも不思議なもので、縁としかいいようがありません。思わぬ出会いに喜んで、初めは一冊ずつ借りていましたが、ついに手元に置きたくなって、ネットで古書を探して買ったのです。始めて出会ったその書籍は、古い時代の図書館に寄付されたようで、寄付者がわかるものでした。この本で学びそれを後世の人の為に寄付した人は、どんな人なのだろうか、と一時我が家でも話題になりました。
 しかし、これを発見出来たことに感謝して、大切にして何度も読んでいるようです。生き方を変える程の出会いと言えば大げさなのでしょうが、たまたま代わって返却に行った図書館で出会ったことに運命的なものを感じずにはいられません。
 私は自分の本には、大切なところに線を引いたり、書き込んだりしますから、寄付出来るようなものではないのです。
 本供養から、本との出会いの不思議さを思いますが、人との出会いも縁としか言いようが無く、出会うべくして出会っていると思うと、矢張り大切にしたいと思うのです。今も何かしらの出会いによって、教えられることの多い毎日です。無数にある書籍から、自分に取って価値ある書籍と出会えるかどうか、図書館での時間は心弾む時間です。

嫁入りの折(こおり)に入れ来し啄木の歌集古びてなほ宝なり (あずさ)



水明に誘われた文学者達

2014年04月13日 | 随筆・短歌
 地球に水が無かったら、生きとし生けるものは直ちに死んでしまいます。大気と同じく、大変お世話になっているのに、その有り難さに普段は気付かずに、当たり前のように暮らしています。
 図書館から「日本の名作随筆」の中の「水」という井上靖編の一冊を借りて来ました。後がきに井上靖は、「広く水に関して綴ったエッセーに登場して頂いた。思いよこしまなき珠玉の文章で一冊を編まして頂いた」とありますが、小説家・詩人・歌人・俳人・登山家・画家・物理学者・医師他様々な有名人が執筆したもので、それぞれ著者の個性や思いが伝わってきて、大変面白く読みました。
 「水」とひとくくりに言っても、飲み水・川・渓・噴水・海・氷河等あらゆる形の水について記されています。私が愛用している「類語辞典」の中で、最も数の多いのは、雨と言う言葉だと家族が教えてくれましたが、水はその集まりですから、当然だと実感しました。
 永井荷風は、東京の水について書いていますが、川・ため池・運河・下水などにわたっているのですが、「江戸城の濠(ほり)は蓋(けだ)し水の美の冠たるもの」とあり、私も思わずそうそう、と思ってしまいました。
 国木田独歩の「武蔵野」が実に豊かに表現されていて、改めて感動しました。或る橋の上から眺めた水の音を「水と水がもつれてからまって、揉み合って、自ら音を発するのである。何たる人なつかしい音だらう!」などとあり、表現力に乏しい私は、すっかり魅了されてしまいます。
 薄田泣菫の「雨の日に香を燻く」などは、時に香を焚く私にはその良さが実によく伝わって来ます。梅雨の時期に似合う花として、紫陽花の他にくちなしと合歓をあげていますが、合歓の柔らかで優しい花と、静かにくゆる香がしっくりと合うことに始めて気付かされました。
 室生犀星は「名園の落水」として、兼六園の曲水の美しさを述べ、園の散策を通して、夕顔亭の落水が公園の一番いい所だと書いています。金沢の兼六園は私の好きな公園です。室生犀星がふる里の名園で、最も気に入った場所として挙げているのですから、次回は良く見て来ようと思っています。
 40人くらいの名随筆の最後は、井上靖の「アム・ダリヤの水溜り」で締めくくっています。ロシアの大河レナ・エニセイ・アムールにふれて、続いて西トルキスタンの砂漠の川アム・ダリヤとシル・ダリヤはアラル海がその砂漠の川の墓場であると書いています。砂漠一帯の寂寞感にふれ、しかし、最後に砂漠の川アム・ダリヤ下流の侘びしい水泳場で見た落日が、実に見事であったと書いています。美しい砂漠の落日に見とれ、見せてあげたいと思う井上靖の気持ちにも、大変心を打たれました。
 私は好んで随筆を読みます。著者の性格や、心が直に伝わってきて、小説にない面白さ・そして何より真実があります。私には書評を書くなどという力は全くないのですが、本を紹介するために、少し抜粋させてもらいました。この名随筆も何十冊もあるのですが、手当たり次第に気に入ったものから借りて来ます。
 心理学や哲学や宗教なども、良く解りもしないのに、借りてきます。普通は3~4冊、写真や絵画などが入ると4~5冊借りますが、一冊は随筆、2冊くらいが短歌・俳句などです。
 短歌の勉強に通うのが、主たる目的ですから、当たり前です。 ついでに、水に関する有名歌人の短歌を少し載せさせて下さい。

たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江(あふみ)と呼べり   河野 裕子

君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎(りんご)の香のごとく降れ   北原 白秋

夕焼空焦げきはまれる下にして氷(こほ)らんとする湖(うみ)の静けさ   島木赤彦

バイカルの湖に立つ蒼波のとはに還らじわが弟は  窪田 章一郎

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも 斎藤茂吉

濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けしらぬ  斎藤  史

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音響くなり  馬場  あき子

白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝は冷たき水くみにけり  長塚 節

焼跡に溜(たま)れる水と箒草(ははきぐさ)そを囲(めぐ)りつつただよふ不安   宮 柊二

 こうして読んだり眺めたりすると、一流の人達の素晴らしい作品に憧れて胸が熱くなって来るのを覚えます。図書館はとても楽しく過ごせる空間であり、私の好奇心を満たしてくれ、日々の生活のエネルギー源でもあります。 



過ちを改め改め生きる

2014年04月05日 | 随筆・短歌
 四月は入学・入社の喜びの月です。小学校の一年生になる喜びの大きかったことを、覚えておられますか。ランドセルを背に学校へ行くことの晴れ晴れしさを、私は未だに忘れません。入学前なのに、ランドセルを背負ってスキップで家の中を回っていた時の喜びが、今も色褪せず心の中にあります。
 人間の一生は、様々な失敗の連続であって、それに気付き改め、そこから立ち上がることによって一歩一歩人間として成長していくことであります。
 「過ちて改めざる、これを過ちという」と論語にあります。誰でも今迄に一度も過ちを犯さない人はいません。失敗だらけであるほどに、これを正して善悪をわきまえて行くのです。
 幼い頃のあやまちは、周囲も笑って赦してくれますが、成人して、いっぱしの大人になれば、もう言い訳は効かないことが多いです。それはともするとその人の一生を左右しかねない場合もあります。
 誰も好き好んであやまちを犯す訳ではありません。誘惑に負けて、或いは追い込まれて、又これしか立つ瀬が無いなどと思い込んだり、果ては見栄が邪魔をしたり、思わず過ちを犯してしまうこともあるでしょう。一旦あやまちをおかしても、中々直ぐには正せず、次第に深みにはまってしまうことも、良く見られることです。。
 本当のことを知らない私が、軽々に判断を下してはいけないと思いますが、前都知事にしても、○○党の党首にしても、科学の研究者にしても・薬品の開発研究に携わる人や会社、大学教授にしても、過ちに気付いた時に、速やかに訂正しお詫びしていれば済むものを、何とか糊塗しようとあがくと益々軌道修正が困難になって、やがて八方ふさがりになっていくようです。
 孔子が言う、過ちとは、過ちを犯したことではなく、間違ったことに気がついて改めないことが則ち過ちなのだと言っているのです。身にしみる言葉ですね。現役を引退して一介の老人になっている私には、あれこれと心を煩わせることも無く、平穏な日々を送っていますが、なにかとしがらみのなかを生きて居られる人達は、時としてお気の毒に思えます。
 人間社会と違って過ちに縁が無いのは、大自然の営みです。鶯は、雄が雌を引きつけたり、縄張りを主張する為に鳴くようです。我が家の雄は、お相手が見つかったのかと、家族で気にしています。こんな住宅街に住みついているのも不思議な位ですから、ましてや縄張りを主張する相手がこの住宅街に居るとは、奇跡のようにも思われます。
 しかし、春の花が沢山咲き乱れる季節になり、それぞれが意図しているとは到底思えませんが、花は実を付け、動物は子育てにいそしみます。丁度よい気温があり、雨があり、茂った草や木々があり虫がいて、どれ一つをとっても無駄なものはなく、みんな役に立って、持ちつ持たれつ、又じゃんけんぽんの関係で、公平に円を描きつつゆっくり回転しています。勿論私もその円の一部分ですから、生かして頂いているこの有り難い体も、きっと何かのお役にたっているのでしょう。せめて己が心に恥ずかしくないように、生を全うしたいと考えています。
 このようなブログにしても短歌にしても、自分の考えを発表するものですから、隠していても心は自ずから現れ、皆さんには私の心は透けて見えます。結局自分をさらけ出して生きることになるのですが、それでも良いと流れに乗って書いています。ブログを書きながら、自分の考えの間違いに気付くことがあります。過ちに気付かせてくれるのは、ブログそのものであり、ひいては皆さんであることは有り難いご縁だと感謝しています。


きれいごと並べし言葉に透けて見ゆ心寂しも君の雄弁

み仏の垂髪肩に艶めきてときめき覚ゆ春中宮寺(何れも某誌・紙に掲載) 

鶯の初音を聞きつつ老いゆける古びし団地の暖かきかな(あずさ)