映画的・絵画的・音楽的

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淵に立つ

2016年10月21日 | 邦画(16年)
 『淵に立つ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)浅野忠信が出演するというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、少女・篠川桃音)がオルガンを弾いています。しばらくすると、オルガンの上に置かれているメトロノームを動かして弾きます。
 母親の章江筒井真理子)が、朝ごはんができたことを告げます。
 オルガンを弾き止まなかった蛍は、催促の声に促されて食卓に着きます。
 メトロノームは動いたままですが、気がついた蛍が戻ってきて止めます。

 食卓では、章江と蛍がクリスチャンとしてのお祈りをしてから食事を始めますが、父親の利雄古舘寛治)はそれに加わらずに食べ始めます。
 章江は蛍に、「発表会、どうすんの?今の曲いいんじゃない?そろそろ決めないと」と言うと、蛍はそれには答えずに、「こないだの虫、覚えてる?あの蜘蛛。ぐじゃぐじゃに絡まってた」、「お母さん蜘蛛を食べてしまうんだって」「私は、お母さんを食べたくない。不味そうだから」などと話します。
 章江は利雄に、「今日は女性会」と言いますが、利雄は「うん」と答えるだけです。



 次は、金属加工工場の作業場の場面。
 章江が「行ってきます」と言うと、利雄は「いってらっしゃい」と言いながらも、溶接の仕事をし続けます。
 と、利雄が作業場の外を見ると、男(八坂浅野忠信)が立っています。
 八坂が「お久しぶりです」と言うと、利雄は深々と頭を下げます。これに対し八坂は、「大袈裟ですね、相変わらず」と応じ、利雄が「痩せたな」と言うと、八坂は「あそこにいたら痩せますよ」と答えます。
 さらに、八坂が「継いだんですね、ここを。あんなに親父さんと喧嘩してたのに」「結婚して娘もいるんだ、いくつですか?」と話すと、利雄は「敬語を使うのやめろよ」と言います。
 次いで、利雄が「いつ出たんだ?」と訊くと、八坂が「先月」と答えるものですから、利雄は「教えてくれたら迎えに行ったのに」と言い、また利雄が「何してんだ?家とかは?」と訊くと、八坂は「県の施設の世話になっている」と答えます。そして、八坂は「ちょっと相談があるんだが」と利雄に迫ります。

 こうして八坂は、利雄の家に入り込むことになりますが、さあ利雄の家族らはどうなるのでしょうか、………?



 本作では、穏やかで平凡そうに見える三人家族のところに、突如、父親の知人と称する男が入り込んで来ることによって起こる物語が描かれます。その男の来歴が尋常ではないために、次第に家族の関係もギクシャクし出し、挙句の果てに事件が起こります。なにかといえば家族の絆を持ち上げるこのところの風潮に冷水を浴びせかけるような内容で、全体として暗いトーンながら、考えさせる味のある作品ではないかと思いました。

(2)この作品も、最近見た様々の邦画で見受けられるコミュニケーション問題を巡るものといえそうです。
 例えば、家族内でのコミュニケーション不足から、『オーバー・フェンス』の場合、白岩オダギリジョー)は「離婚」せざるを得なくなりますし、『だれかの木琴』では、妻(常盤貴子)の「ストーカー」が引き起こされているように思いました(注2)。また、『聲の形』では、学校内におけるコミュニケーション不足が将也硝子に対する「イジメ」につながっているように思われます。
 本作における鈴岡の家(利雄と章江と蛍)でも、家庭内でコミュニケーションが十分に取られているようには思われません(注3)。
 ただ、本作の場合は、他の作品のように、所属する集団(家庭とか学校といった共同体)の内の誰かにその影響が現れるのではなく、外部の異質の人間(八坂)がその集団に入り込むことによって状況が明るみに出されるように描かれています。

 あるいは、『不機嫌な過去』におけるミキコ小泉今日子)と同じような役割を八坂が果たしているといえるでしょう。
 なにしろ、同作では、もう死んだはずと思われていたミキコが、突如、カコ二階堂ふみ)たちの前に現れるばかりか、カコの部屋に同居までします(注4)。本作においても、八坂が、連絡なしに突然利雄の前に現れ、その日の内に利雄の家に同居することになるのです。
 それも、ミキコは爆破事件の犯人として捕らえられたことがあり、本作の刑務所帰りの八坂と類似する点を持っています。
 そして、ミキコが突然カコの前から姿を消してしまうのと同じように(注5)、八坂もフッといなくなってしまいます(注6)。

 ただ、『不機嫌な過去』におけるミキコの場合、カコに会うことによって、不機嫌一辺倒だった生活から抜け出せる手がかりをカコに与えたようにも思われますが、本作における八坂は、蛍に取り返しのつかない傷を残したまま消えてしまいます。
 そして、実際に八坂が蛍に何をしたのかが不明なために(注7)、八坂が消えて8年経っても、利雄はなんとかして八坂を探し出そうと興信所まで使って調べようとします。
 他方、章江は、8年もの間、身動きが取れず意思疎通のできない蛍(8年後は真広佳奈)の面倒を一人で見てきて、利雄との生活にうんざりしてきています。
 ラストでは、8年前、利雄、章江、蛍と八坂で川遊びに行った時に写した写真のように、利雄、章江、蛍と八坂の息子・孝司太賀)が川原の石の上に川の字になって横たわりますが、さて彼らは蘇るのでしょうか(注8)?

 なお、劇場用パンフレットの「Director’s Statement」において、深田監督は、「私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣りにいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなものです」と述べています(注9)。
 そのこと自体わからないわけではありませんが、逆にこうも言えるのではないでしょうか?「もともと人は家族(共同体)の中でしか生きていくことができず、たとえそれがバラバラに見えるとしても、結局は一人で生きていけないことを見出すのではないか」。
 とはいえ、こう言ってしまうのも極端でしょうし、実際のところは、両者の中間ぐらいのところかもしれません。
 それで、ラストについても、見る人によって、そこに光明を見出す見方もあるでしょうし、逆に暗闇を見てしまうかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「決して後味がいい作品ではない。いや、むしろ見たことを後悔させる恐れさえある。だが、ただ気持ちよくわかりやすいものだけが映画ではない。この衝撃はまぎれもなく観客に「映画とは何か」と問い詰める」として70点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「深田晃司は、人物の主観的感情よりも、ものがたりの構造を重視する、日本映画では稀少なタイプの映画作家で、ここでは初期設定からの演繹がどんどん悲劇を深めていく。その過程は圧倒的でスリリングだ。だが、最後は深くへ行きすぎ感銘に肉感性がともなわないうらみが、すこしある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「自ら作った正しさに縛られ罪を犯した八坂、そんな彼に惹かれる章江、過去の罪を封印して生きる利雄……。人間の曖昧さと両義性を体現する主演3人の“三つ巴演技”の攻防戦に息を呑んだ」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「全体のトーンは静かだが、幾度か驚くような仕掛けがあり、私がカンヌで鑑賞した時、現地の女性はその度に驚きの声を上げていた。私たちが当たり前に頼っている世界がどれほど脆弱なものであるか、劇場で確かめてほしい」と述べています。



(注1)監督・脚本は深田晃司
 本作は、今年のカンヌ映画祭「ある視点部門」で審査員賞を受賞しています。

 なお、出演者の内、最近では、浅野忠信は『グラスホッパー』、筒井真理子は『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』、古舘寛治は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、利雄の工場の古株の従業員・設楽役の三浦貴大は『怒り』で、それぞれ見ました。

(注2)ここらあたりのことは、この拙エントリの(2)をご覧ください。

(注3)利雄は、章江が何か言っても、つまらなそうに「ああ」などと応ずるだけで新聞を読むのに熱心だったりしますし、章江と蛍の食事前の祈りに参加しようともしません。また蛍は、家ではオルガンの練習を熱心にしていますが、実は先生が怖くてオルガン教室をズル休みしています(そのことを章江に言ってません)。

(注4)カコが暮らす家の内情は複雑で、カコは、実はミキコの娘にもかかわらず、ミキコは死んでしまったとされて、ミキコの妹・サトエ兵藤公美)の娘として育てられてきました。カコの父親・タイチ板尾創路)も、元はミキコの夫で、ミキコがいなくなった後サトエと結婚しているのです。
 この家には、さらにミキコとサトエの母親・サチ梅沢昌代)がおり、さらには親戚筋のレイ黒川芽以)とかその子のカナ山田望叶)が頻繁に出入りし、なかなか賑やかな感じがします。
 ですが、それは外見だけのことであり、肝心の話はこれらの人たちの間ではなされていないように思われます(例えば、カコがミキコの子供であることを、サトエはミキコが現れてからカコに言います)。そういった意味合いで、ここにもコミュニケーションの問題があると言えるのでは、と思います。

(注5)ミキコは、完全に消えてしまうのではなく、ヤスノリ高良健吾)の部屋に転がり込んでいるにすぎないのですが。

(注6)実際にも、浅野忠信が演じる八坂は、後半部分においては、ラストでほんの一瞬現れるだけでマッタク登場しません。

(注7)利雄が八坂を見つけた時は、頭から血を流して地面に倒れている蛍の前で立ち尽くしている姿でした。蛍が自分で倒れてしまったのか、あるいは八坂が手を下したのかは明らかではありません。

(注8)その前に、蛍がこういう体になってしまったのは自分たちのしたことに対する罰なのだと利雄が言っています(章江もその見方に同意します)



 また、孝司に対し章江が「八坂の目の前であなたを殺す」などと言っていることもあり、利雄以外の3人はそのまま息を吹き返さないのかもしれません(利雄は、生き残るにしても地獄でしょう)。
 でも、孝司は蛍を救い上げているくらいなのですから、息を吹き返すかもしれません。それに、章江と一緒に川に飛び込んだ蛍は、水の中で手足を動かしてもいるので(それまでは硬直していました)、息を吹き返したら、あるいは治癒の可能性が出て来るかもしれません。ただ、すでに章江は利雄に離婚の話を切り出していますから、たとえ二人が息を吹き返すとしても、もはや家族が“元の状態”(?!)に戻ることはないかもしれません(章江は、橋から飛び降りる前に、同じ橋の上に八坂の幻影を見ますが、これは八坂を許すということではないでしょうか)。
 いずれにしても、実質的に壊れかけていた鈴岡の家は、ラストの出来事によって、外見的にも完全に壊れてしまったように思えます。
 にもかかわらず、利雄は、3人を蘇生させようと人工呼吸を懸命にし続けるのです。そのことによって、利雄はいったい何を得ることができるのでしょうか?

(注9)公式サイトのインタビュー記事においても、深田監督は、「私にとって、家族とは不条理です。孤独な肉体を抱えた個々の人間が、たまたま出会い、夫婦となり親となり子となって、当たり前のような顔をして共同生活を営んでいる。しかし、一歩引いて見てみるとそれはとても不思議なことです」と述べています。

 なお、深田監督は、「もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣りにいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなもの」を描きたいと述べていますが、例えば、『葛城事件』はどうでしょう?
 同作においては、葛城家は既に酷く崩壊していて、サイコパスの次男が引き起こす無差別殺人によって完全に崩壊してしまいます。それで、父親(三浦友和)は自殺しようとするものの、失敗し、次男の妻になろうとした女(田中麗奈)に「家族になってくれないか」と迫りますが、すげなく断られます。
 同作の場合、「家族の崩壊を悲劇として捉え」ているものの、そのことが、深田監督が言う「壊れる以前の家族を一つの理想として志向してしまう」ようには思えません。なにしろ、「壊れる以前の家族」といったものが見当たらないのですから(父親の独りよがりで作られたマイホームのようであり、ある意味で、初めから崩壊しているかもしれません)。

 さらに、深田監督は「巷に流れる。家族の絆を理想化して描くドラマに、私はもううんざりしています」と述べていますが、その場合の“うんざり”する例として、あるいは石井裕也監督の『ぼくたちの家族』が挙げられるかもしれません。
 それはわからなくもありません。でも、同作のように、家族の中に大病を患う者が出た場合には、「自分たちはバラバラで孤独だったんだ」と考える余裕などないのが実情なのではないでしょうか?



★★★☆☆☆