孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ブータン難民  “桃源郷”の光と影

2008-03-05 15:08:25 | 国際情勢
ブータン・・・と言うと、“秘境”“神秘の国”“桃源郷”“幸福大国”といったキーワードが連想されます。
また、若くして即位した英明な前国王が伝統を重んじ、民主化を率先して進める国、近代化のみを追い求めるのではないスローライフの生活、“国民総幸福量”を求める社会・・・なども。
ある意味、現代社会に疲れ、疑問を感じる人々にとってひとつの理想でもあるように思われます。

ちなみに、経済面だけでなく精神的幸福を重視した指標としての“国民総幸福量”は、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形・無形文化財の保護、そして良い統治という柱からなるそうです。
経済開発一辺倒による自然環境破壊や伝統文化喪失を避けようとするものです。
この国民総幸福量の増大の精神にのっとり、例えば、医療費は無料、教育費も制服代などの一部を除いて無料です。また、国土に占める森林面積は現在約72%で、今後も最低でも国土の60%以上の森林面積を保つ方針が打ち出されています。
また、良い統治という面では、行政と意思決定の両面での地方分権化が進んでおり、人々は自分達の住んでいる地域の開発プランについて、自分たちで優先順位を決め中央政府に提案するとか。
http://eco.goo.ne.jp/life/world/bhutan/report12/01.html

なんとも素晴らしい見識ですが、観光的にちょっと厄介な国で、旅行代金として入国1日につき200ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む。)を前払いして、ガイドが同行する必要があるなど、私のような貧乏旅行者は相手にしてくれません。

そんな“理想郷”ブータンに関してこんなニュースが。
****ネパールのブータン難民キャンプ火災、1万2千人が家失う****
ネパール南東部ジャパ郡のブータン難民キャンプで1日夜、火災が発生し、2日までに小屋1200棟が焼失、約1万2000人が住む場所を失い、4人が重傷を負った。
出火原因は不明。
ブータン難民は、ワンチュク前国王が民族衣装着用の徹底など伝統文化復興策を通じて仏教徒優遇を進めるのに反発、1990年代以降、インド領内を経てネパール東部に逃れたヒンズー教徒住民。現在、10万人以上に達する。
ネパール、ブータン両政府間の帰還協議が進まないため、2006年には米国が難民6万人の受け入れを表明、カナダやオランダも受け入れの意思を示している。難民側には第三国移住に抵抗を示す人も多いが、今回の火災で米欧への出国が早まる可能性もある。【3月3日 読売】
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ブータン難民については、かわまたじゅん氏のhttp://www.ne.jp/asahi/jun/icons/bhutan/に詳しく紹介されています。
ブータンには主に3つの民族集団があります。【ウィキペディア】
チベット仏教(ドゥク派)を信仰しゾンカ語を主要言語とし、西部に居住するチベット系のドゥクパと呼ばれる人々
チベット仏教(主にニンマ派)を信仰しツァンラ語(シャチョップカ語)を母語とし、東部に居住するアッサム地方を出自とするツァンラと呼ばれる人々
ヒンドゥー教徒でネパール語を話し、南部に居住するローツァンパと呼ばれるネパール系住民

人口比は、国王を擁する西部のドゥクパが50%ほど、ネパール系のローツァンパが40%ほどといわれていました。 (ネパール系は多くが難民として出国したため、今は20%程度)
ローツァンパは、もともとブータンの土着の住民ではなく、19世紀末以降ネパールやインドのダージリンなどから移住してきた人々です。
ニューカマーとしての印象が濃く、ネパールの伝統文化を固持する生活スタイルなどから、チベット系住民から偏見の目で見られ、不当な扱いを受けることも多いと言われています。【ウィキペディア】

1985年に公民権法(国籍法)が制定され、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が特に南部在住のネパール系住民ローツァンパに発生しました。
1989年、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守、教育現場でのネパール語の禁止などが実施されました。
“伝統と文化”はあくまでも支配階層ドゥクパのものであって、ローツァンパのものではありません。

これに反発する南部ローツァンパを中心に、大規模デモなど抗議活動がひろがりました。
デモ弾圧の取り締まりが強化され、拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、チベット系住民への暴力も報告されています。
この混乱から逃れるため、ネパール系ブータン人の国外脱出(難民の発生)が始まったとされています。
出国を余儀なくされた人々は、半ば強制的に「自発的に国を去る」といった書類にサインをさせられたとも言われています。(ブータン政府にとっては、彼らの多くは不法滞在者です。)
人口約60万人(ブータン政府は140万人と主張)のブータンから、総人口の5分の1にもあたる12万人以上の難民が発生したとも言われています。

“伝統と文化に基づく統合”が強行された背景には、当時のシッキムの先例を危惧したとも言われています。
仏教国シッキムではネパール系住民が増加し、結局インドに統合されました。
ブータンでも国勢調査の結果、南部のネパール系住民の増加率が北部ドゥルパを上回っていることが明らかになりました。

現在ネパール国内にUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が建設した8箇所のブータン難民キャンプが存在し、ここに約10万人が生活しています。
今回発生した火災もこの1箇所です。
これ以外にインド国内にも数万人の難民が存在しています。
難民キャンプでの生活は、国際援助によって“難民としては”比較的恵まれており、むしろ最低保障のない周辺ネパール人のほうが困窮しているとも。
ただ、帰国のあてもなく、キャンプ内で“飼い殺し”される閉塞感はそれとは別物でしょう。

難民の国籍認定・帰還作業については、上述のかわまたじゅん氏のサイトに詳しく紹介されていますが、遅々として進まないようです。
同氏は、意図的なブータン政府の遅延行為と非難しています。
ブータン政府は第三国の介入を認めず、あくまでもネパール・ブータンの2国間の問題として進めています。
ブータンの実質的サポーターであるインドも、国際社会の要請にもかかわらず介入を拒否してきました。
このような事態を打開するため、現在はUNHCRが介入しているようです。

ブータンにおけるネパール系住民、ネパールにおけるインド系マドヘシ族、スリランカにおけるインド系タミル人・・・すべて古くからの定着民族と比較的新しい参入者との間の確執です。
(マドヘシについては昨年9月7日http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070907参照)

かつてスリランカを訪れた際、お世話になった現地の方の奥さんがタミル人のことを「あの人達はスリランカ人じゃないから」と切り捨てたときの驚きは今も覚えています。
法制度・国境管理が整備された後の明らかな不法入国の場合は別として、世紀を遡るような移住についてはすでに生活がそこに定着しており、定着の後先については論じて仕方なく、共存の途を模索するしかないと考えます。
そうでなければ、「民族浄化」にいたります。

ブータン難民発生時に、国王は国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問しましたが、難民の数は一向に減らなかったそうです。
伝統と文化、その存在を否定されたネパール系住民は、英明とされる国王の目にはどのように映っていたのでしょうか?
現実が理解できず自己陶酔に浸っていただけの暗愚な王だったのでしょうか?
見えないふりをする狡猾な王だったのでしょうか?
それとも、民族の違いというのは英明な王の目をも曇らせるものなのでしょうか?
まあ、日本人が圧倒的に多数をしめている日本などにいて、“他民族との共存”を云々する資格はないかもしれませんが。

国王主導で進められた民主化最終段階として、12月31日の上院選挙に続き、今月24日に始めての下院選挙が行われる予定です。
故郷を奪われた十数万人を排除したまま行われる“民主選挙”に対し、1月20日、4ヶ所で爆弾テロが行われ、女性1名が負傷しました。

コメント
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