半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

今月の古事記勉強会

2015年01月18日 | 自分の時間
昨日も古事記勉強会に参加しました。

この勉強会は、正確に言うと「日本を元気にする古事記の『こころ』」という本を、著者の小野先生(湯島天満宮の権禰宜(ごんねぎ)という役をされている方)が解説しながら、「古事記のこころ」「日本人の昔から戦前まで持っていた当たり前のこころ」を教えて頂くというものです。


毎回、お話を聞くたびに「そうだよな~」とエネルギーを頂くのですが、ようやくおっしゃることを会得し始めた感じです。


古事記そのものは、神代の頃の物語なのですが、それは西欧のものとは違う物語です。

そこには、何か絶対的な西欧の神様がいて、その神様が世界を作った、というものではなく、また、絶対的な神様や指導者を崇拝するのではなく、まず天と地があって、そこから日本でいう「かみさま」が生まれて、その「かみさま」が山や木や風や火やあなたや私や机や椅子などあらゆるものにも宿っているという「日本人が戦前からもっていたこころ」が表されています。

全国の神社・社は8万以上あると言われていますが、多くが国家が出来る前から、もう数千年も続いているそうで、こんなことは世界では在り得ないといいます。つまり、そんな古くあるものは「遺跡」となるものが、実際は日本では未だに普通に存在しています。

それは、教義や戒めがある「宗教」ではなく、日本人のこころを表したもので、言葉には出来ないけど古の時代から脈々と続いてきた日本の根底にあるもの、人の「自我」の更に奥にあるものだから、と言います。

逆に言葉にしたり、経典にしていたら、こんなに長くは続かなかったろう、ということも。

それが、仏教の末法思想というものが表れて、世界は終わりだ、といって自殺者が多数出るようになってきたので、伊勢神宮などで、神道を伝えられるものにしようという運動もあり、少しずつですが、古から続いてきた祭祀というか、お祓いなどが世の中にも伝わり始めたようです。

それは、神代の時代の最初に姿を現したかみさま、世界の万物に宿るかみさま、そしてあなたや私に宿るかみさまは、みんな同じで、みんな繋がっているということ。
自分の魂はかみさまでもあり、清らかなもので凄い存在であること。
しかし、自我と呼ばれる傲慢、妬み、人を見下す気持ち、怒りなどが表れてくるので、それが表れるたびに「祓う」ことで、きれいなこころ、自分の奥にあるかみさまと一体になること、それが日本人の生き方だった。

そういうことを毎回毎回、繰り返しお話いただくのです。


毎回、そういったお話を聞くと「こういったこころを戦前までの日本人の多くが持っていたのか。そうだろうな~」と思うのですが、日常に戻るとすぐまた忘れてしまうわけです。

ただ、さすがに今回でもう何回目かなので、少し会得してきた感じをもちました。

私も小さい頃から、木々や森や空やおてんと様に何か大きなものを感じていたし、木と会話出来るような感覚を持っていました。

しかし、戦前ぐらいまでの日本人の多くは、農村や自然の中で暮らしていたわけだし、自分のやりたいことを自分のやりたいスケジュールでやるというのではなく、あくまで自然や季節に委ねて、また季節季節のお祭りなどの節目にあわせて暮らしていたわけですから、私が感じる以上に、当たり前のように万物に「かみさま」を見て生きてきたというのもわかります。

山や風やご飯などあらゆるものに「かみさま」を見ていて、「有り難い」という気持ちをもって生きていた。
他の宗教のように「対象」を崇拝するのではなく、あらゆるものが自分と繋がっていて「同じ命の源から来ている」という「感覚」を持って生きていたということ。

なるほどな~、深いな~、と思います。


私が農村に足を踏み入れ始めたとき、鴨川の長老達が山と一体化して暮らしている姿、東庄でお堂を毎月「有り難い」と言って掃除するおばあちゃん達をみて「あ~、こうやって生活してきた人達は幸せだよな~」と思い、あこがれ、そういった生活を目指してきました。

それが言葉や教義で表せないけど、しいていえば「神道」や「古事記のこころ」、「日本人の生活の根底に奥にあるもの」だったわけですね。

いわゆる宗教とはちょっと違う。

生活の根底に流れるもの、ですよね。

日本ってほんと素晴らしいな~、と思った時間でした。
コメント
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