2年ほど前になりますが、長岡で「越後長岡ひなものがたり」が開催されました。支藩の小諸藩からは門外不出のお宝「喜内様阿福様」が特別公開されました。また栃尾小貫(こつなぎ)の瑞雲寺からは、牧野家の雛人形が展示されました。この時、展示品の前で主催者が記念撮影をしていたのですが、ご住職がお持ちでないというので届けることにしました。
ご住職から本堂奥の牧野家霊廟に案内され、そこには近年見つかった牧野家歴代の御位牌が安置されていました。寺の近くに外山家という名家があり、裏に月山、湯殿山、羽黒山の三山があり、羽黒神社、瑞雲寺を含め外山家の所有だったようです。
ご住職から本堂奥の牧野家霊廟に案内され、そこには近年見つかった牧野家歴代の御位牌が安置されていました。寺の近くに外山家という名家があり、裏に月山、湯殿山、羽黒山の三山があり、羽黒神社、瑞雲寺を含め外山家の所有だったようです。
(栃尾小貫の瑞雲寺入口) (「喜内様阿福様」(画像の無断使用禁))
これはお雛様ではなく、家光と春日局の像です。
5代将軍綱吉は、家光と桂昌院の間に生まれますが、桂昌院は公家の本庄家の出です。
本庄家は大名に取り立てられ、その子供が小諸藩の初代の康重なんです。
すなわち綱吉と康重はいとこの関係にあり、康重から見れば桂昌院は叔母ですから、家光は叔父ということです。
家光が左甚五郎に作らせたのですから、江戸時代も初期のほうです。
家光が持っていた像が、桂昌院から康重(小諸藩)に伝わりました。
小諸は石高が少ないのですが、格式が高いのは将軍家と同じ血が流れていることによります。
なお、長岡城が落城した時の牧野忠訓も本庄家から長岡にきました。
門外不出と言われても、他にでたかどうかは調べてません。
ここ最近では本当に藩士だったのでしょうかと疑いたくなってきます
調べて長岡藩士の末裔ではなかったら、腰元はお暇を頂かなければならないかもしれません
しかし、栃尾は懐かしいです
どうしても、足がないといけない場所なので、ここ数年行ってません
今の家のお墓参りも近くまで行きながら行かないので、先祖に怒られていそうです
でも、秋には栃尾に行きたいです。
そのためには…以前一人旅をして当たり屋とトラブルを起こしたおバカさんが、身内の恥ながらいて、親から一人での運転を禁止されています。
寅太さん、また里帰りしませんか~?
今度はに乗せて欲しいです
私が運転すると軽自動車しか借りないので
ご先祖は魚津城を守った勇者になったり、栃尾の代官さまになったり、すごいことが次々にわかります。
お暇をいただくなんてとんでもありません。
少なくともちゃんとお勤めをはたしていますよ。
秋には本当の腰元で、行列の殿様を守らねばなりません。
それとも腰元から姫に抜擢があるかもしれません。