Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「ゲティ家の身代金」

2018年05月26日 20時28分09秒 | 映画(2018)
取引上手に富は集まる。


「事実を基にした物語」は、その言葉どおり、実際に合った出来事を基軸としているけれど可能な限りエンターテインメントを織り交ぜていますよ、という意味である。

商業映画としてはできるだけ面白く仕立て上げたい一方で、あまり行き過ぎるとかえって白けてしまうから加減が難しいところだ。

時は1970年代のイタリア。世界一の大富豪・ゲティ氏の孫のポールが誘拐される。

孫の身代金を一銭も支払うつもりはないと言い放ったゲティ氏、息子を何とかして救いたいと願う母親、そして誘拐犯グループ。まったく異なる立場の三者による予想もつかない攻防が緊迫感を持って描かれる。

単なる誘拐事件と違うのは、何と言ってもゲティ氏の存在と、その特異なキャラクターにある。当初はK.スペイシーが演じるはずだったが、セクハラ問題から降板し、はるか年上のC.プラマーにお鉢が回ってきたと言う。

結論を言えば、この降板劇は良い方向に働いたように感じた。

ゲティ氏はビジネスに対し強い理念を持っており、それを貫いたことで巨大な財産を築いた人物である。K.スペイシーも名優ではあるが、頑固というよりはずる賢いという感じだし、何よりC.プラマーの老いてなお強烈な圧力を漂わせる演技を観てしまうと、なかなか他の俳優には代え難いという印象を持った。

その一方で、事実を脚色した物語の方はというと、こちらは少なからず消化不良というか不満を感じるものとなってしまった。

前述のとおりC.プラマーは常人の感覚を超えた大富豪をしっかりと演じ、母親にとって誘拐犯以上の脅威となっていた。

しかしそれだけに、母親側がゲティ氏に捨て身で挑んだ駆け引きがどうしてあのように運んだのかが、いまひとつすとんと落ちてこなかった。そもそもM.ウォールバーグが演じたフレッチャーが有能なのかどうかを感じ取れなかったのが残念なところだった。

さらに誘拐された息子・ポールの人物像がなんとも複雑なため、どうにも純粋エンタメのように応援しづらい仕立てになっている。ゲティ氏にもう少し母子の壁となって立ち塞がってほしいくらいであったが、最後のあっけないご都合感にはやや落胆した。

映画を観終わってからゲティ家のことをWikipediaで調べると、ポールとして登場したジャン・ポール・ゲティ3世は、アルコールや薬物の依存症となり早逝したと書かれていた。これではあまり美化するわけにもいかないか。

(65点)
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「ランペイジ 巨獣大乱闘」

2018年05月23日 22時41分10秒 | 映画(2018)
お祭り男は本日も快調。


古くはC.ヘストンからスタローン、シュワルツェネッガーと、ハリウッド娯楽大作に欠かせない存在の肉体派男優。その系譜を見事に受け継ぎ、現在出演作が目白押しなのがザ・ロックことD.ジョンソンだ。

今回、映画の主役は巨大化して怪物と化した動物たちに譲るが、そのはちゃめちゃな物語をまったくひるむことなく受け止めるのが彼演じるオコイエという男だ。

オコイエが勤務しているサンディエゴの動物保護区にある日突然、宇宙空間から生物を巨大化+凶暴化させる悪夢の物体が降ってくる。かわいがっていたゴリラが豹変し人々を襲い始め、この事態を何とか止めなければと立ち上がる。

観る前から分かっていることではあるが、オコイエの設定は超人である。

飛行機の中でゴリラが暴れ始め、機体が破壊され地上へ真っ逆さまという絶体絶命になっても、渾身の力で自分ばかりか物語に重要な2名の命をも救い出す。

かと思えば、敵から不意に銃で撃たれても、3分後には「急所を外れていた」と何事もなかったかのように戦線に復帰する。

巨大化する動物として出てくるのはゴリラ、オオカミ、ワニ(?)の3種だけであるが、オコイエの超人ぶりを合わせて「大乱闘」と言うのであれば看板に偽りなしと言えるかもしれない。

まあ言い始めればきりがないが、この手の作品にツッコミを入れるのは野暮な話。重要なのは、観てどれだけすっきりしたかという点に尽きる。

その観点から振り返ると、巨獣たちの暴れっぷり、人間側のキャラクター設定、物語の展開のいずれをとっても、驚かせる何かがあったわけでもないので、評価としては可もなく不可もなくというところか。

良くも悪くも予想どおりの映画ということである。

(65点)
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「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」

2018年05月12日 21時56分47秒 | 映画(2018)
元祖・世界のおもちゃ。


炎上という現象が一般用語となって久しいが、まだSNSもインターネットも普及していなかった時代に世界中が騒然となったのが、ナンシーケリガン襲撃事件だった。

「衝撃の実話」「真実が明らかに」という言葉が宣伝文句に踊り、一見社会派の骨太映画を彷彿とさせるが、作品は、哀れな人たちが引き起こした喜劇として、むしろ脱力感が勝る組み立てとなっている。

オリンピックは、身体能力に加えて用具の性能やらトレーニング方法やら科学的な研究を積み重ねることが必然となっており、富める国、裕福な人たちの祭典である。

経済的に余裕がなかった分、トーニャの母・ラヴォナは徹底したスパルタで娘を一流のスケーターに育て上げようとする。

結果によっては、苦労の末に勝ち取った栄光、アメリカンドリームとして大いに祭り上げられたかもしれない。しかし、彼女を待っていたのは世界中から嫌われるという残酷なシナリオだった。

身も蓋もない話をすれば、フィギュアスケートという競技を選択したことが間違いだった。採点競技はどうしても採点者の感情が反映されやすい中で、異端で反抗的な彼女が受け入れられる要素は少なかったのだ。

ただ、それ以上に映画の中で印象的に描かれるのは、トーニャと周りの人たちのどうしようもなさだ。それは、どこが悪いというレベルではなく、彼女を取り巻く環境が始めから手の施しようがない絶望に満ちているのだ。

母親も夫もトーニャに暴力を振るう。怒りを覚えながらもトーニャはそれを普通のことと捉え、自分からも他者へ手を出すようになる。

母が奮い立たせるために放つキツい言葉は反骨精神による技術の向上にはつながったが、社会性という面では一切の成長を封じ込めた。

彼女の人生は不当にメチャメチャにされたのか、そうなる運命だったのか。その答えは現在にあると思う。

トーニャは、庭師などの仕事をしながら7歳の子供と暮らしていると言う。ラヴォナも元夫も、それぞれ別の生活を送っている。

そう、いろいろあったけど、みんな今も自分なりに生きているのだ。25年前のことを未だに言う人もいるかもしれないが、世界はほぼ彼女たちのことを忘れている。

「真実を話せと人は言うが、みんなうそっぱちだ」とトーニャは言う。実は真実なんてものはそれほど重要ではなくて、あっという間に世の中は次の関心事へ移っていく。

メディアの取材スタッフが家の前から撤収するとき、テレビがOJシンプソンの事件を流していたというのは象徴的な場面で、今はそのスピードが更に加速している。

人より波乱の振り幅が大きかったかもしれない。生まれてきた環境の不幸、自業自得もあっただろう。でも、リレハンメル五輪での彼女は23歳。それ以降の遥かに長い人生の生き方こそが重要なのである。

(80点)
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「いぬやしき」

2018年05月03日 16時24分50秒 | 映画(2018)
実写版・逆襲のロボとーちゃん。


もう気付いたら退職までのカウントダウンが始まっていたという立場にとっては見過ごせない設定の作品。

会社でも家庭でもお荷物扱いの冴えない中年男性がヒーローになる。そしてそのジジイ役を演じるのが木梨憲武というのだから時代の流れは恐ろしい。

彼は器用だし、「みなさんのおかげです」のコントでも冴えない役をよく演じていた印象があるから、観る前からハマり役という想像はついた。

あとはアクションや演出でどれだけ楽しませてくれるかというところが焦点であり、結果から言えばまあ面白かった。

娯楽作品であまり重箱の隅をほじくっても仕方がないので、残念だった点は簡潔に記録しておく。

・ヒーローとなった犬屋敷さんだが、彼自身の中身も変わったという描写が最後に欲しかった。獅子神に勝ったのは、能力を超えた家族を想う気持ちだったはずだから。

・脇キャラの使い方、特に二階堂ふみがもったいなかった。おそらく原作ではもっと物語に絡んでいるのではないか。

父親を邪険に扱う家族って、わが国では普通のこととして描かれるけど海外ではどうなのかと思う。

ヒーローになるときのギャップということで徹底的に冴えない姿にすることを否定はしないが、度が過ぎると家族に感情移入できなくなってしまいそうになる。

今回は娘役が三吉彩花だったからよかったが、「サバイバルファミリー」のときはそれも減点対象だった記憶がある。

本作の売りであった新宿の街を飛び回るアクションは良かったと思う。都庁が目立つが、損保ジャパンビルの特徴ある形を巧く画として取り入れた場面も印象的だった。

(70点)
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「君の名前で僕を呼んで」

2018年05月03日 15時27分10秒 | 映画(2018)
時代は退廃的に成長する。


全体的に観ると、繊細な文学作品の香りに満ちた佇まいの映画なのだが、何かしっくりこないところが多いとも感じた。

主人公のエリオと、彼の家に短期ステイでやって来たオリバー。避暑地の独特な空気の中で二人の心が触れ合っていく様子が描かれるのだが、彼らの態度や行動がなかなか理解しづらかった。

反発したり仲良くなったりという以上に、彼らは、振り回されていたかと思えば、すぐに逆の立場になって相手を翻弄するような、そんな攻守交代が目まぐるしく変化する関係を続ける。

エリオはいつからオリバーを恋愛対象として見るようになったのか。そもそも彼は自分が同性愛者であることを知っていたのか。

オリバーの気持ちが分からないエリオは、同年代の女の子と関係を持つ。思春期の悩み故の過ちと言ってしまえばそれまでだが、相手にとってはとんでもない話だ。

オリバーはいつからエリオの気持ちに気付いていたのか。ついには「大人になれ。真夜中に待ってる」とメモを渡して二人の関係は成就する。

同性愛がどうのと言うのではなく、ここまでまわりくどくなることに違和感を覚えていたのだが、ここで気付いた。

この映画の舞台は1983年なのだ。

LGBTなどという言葉は当然なく、同性愛者は素性を隠して暮らすことを余儀なくされていたであろう時代。簡単に人と人が繋がれるツールもなく、彼らが自分の思いを伝えることは容易ではなかった。

そこに気付くと、本作への印象は大きく変わる。まわりくどいのではなく、彼らの行動の選択肢は限られていたのだ。

そして同じように、時代として彼らの結末は決められていて、17歳のエリオにはあまりにも辛い経験となるのであった。

冬になり、遠く離れたオリバーからの知らせを受けたエリオが声を殺して泣くのをこらえる場面で映画は幕を閉じる。バックには暖炉にくべられた薪が燃える音だけ。強烈な印象を残す名場面であり、このワンカットでアカデミーノミネートになったと言っても納得する。

ただ、作品として味わい深いのは理解するが、最愛のひとと結ばれない時代の悲しさは簡単には片付けられない。

最愛のひとは別にいたと親に告げられた時に子供はどう思うのかとどうしても考えてしまう。時代的にみてもあまりにも理解のある人が周りに多くて、ちょっときれいごとに偏っている点が否めなかった。

(70点)
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