Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「ウィッシュ」

2023年12月23日 21時21分26秒 | 映画(2023)
100年目の分断。


最後に東京ディズニーリゾートへ行ったのはいつだったか。子供の希望に応えてクルマを走らせて、湾岸を下りる側道でスピード違反の切符を切られたときだから、もう10年ほど前になるのかもしれない。

時代は大きく変わった。USJの台頭で必ずしもディズニー一強ではなくなり、新型コロナを経て人々の生活様式も様変わりした。何より世界情勢も含めて世の中全体がきな臭くなっている。

そのような中で迎えたウォルトディズニーカンパニー創立100年の節目。記念作品として大々的に世界公開された本作であるが、北米での興行成績はどうも芳しくないらしい。

まず言っておかなければいけないのは、作品自体の完成度が低いわけではないということである。作画や音楽にしっかりと力を入れて作られていることは十分に伝わってくる。

問題は設定である。

テーマはタイトルにもなっている「希望」。魔法の力で人々の希望を支配する国王に主人公・アーシャが立ち向かうという話であり、ディズニーがこれまで紡いできた歴史の中心軸といえる内容である。話の構成は勧善懲悪で、前向きな主人公、優しい親族、個性豊かな友人、かわいらしい相棒キャラクターと、配役も王道。おそらくディズニーファンであれば大いに満足できる物語だろう。

しかし前述のとおり時代は変わった。ディズニーが人一倍気を遣っている多様性の時代である。既にディズニーの価値観が多数派ではなくなっているのである。それでも、その事実を理解して価値観の押しを抑えめにして、ほかのエンタメ要素を前面に出す戦術もあったが、彼らはそうしなかった。

このアーシャという主人公の価値観こそが絶対正義であると、これまでの作品の作り方を踏襲してしまったが故に、ライトな支持層からも離脱者が出てしまっているのが現状なのではないか。アーシャは国民を無視する国王のやり方を非難するが、見方を変えればアーシャのやり方も極めて独善的に映る。あれは国王の所有物ではないのだから盗んでもよいとか、おじいちゃんの願いだけまず取り戻そうとか。

そんなわけで、とにかくアーシャという主人公に魅力がない。見た目のポリコレは、それが予算を集めるのに都合が良いのだから、仕方がないというか当然の選択なのだが、それ以上に、前向きだとか、諦めないとか、ちょっとだけドジであるとか、既視感のあるキャラクターであることがいただけない。肌の色やそばかすなど外見の多様性に拘る割りに、主人公のキャラクターが画一的になるのはディズニーの致命傷と言ってもいいと思う。

そうした登場人物が集まって「希望は諦めなければ必ず叶う」とまで言っていないのは救いだが、画面に出てくるキャラクターたちは希望を持つことですごく満たされており、そこはおそらく現在の生活や先行きに不満や不安を持つ多くの人たちにとって共感できるものではないであろう。

そもそも多様性の時代において希望の追求は対立を招くことが自明である。アラブの希望、ユダヤの希望、中国の希望、台湾の希望。みんな抱くことは否定しないが、それらがすべて叶うことは不可能であり、諦めたり妥協したりというプロセスがなければ成り立たない。そこに目を向けないのであれば浮世話に徹底した作りにすべきなのである。

繰り返しになるが、本作はコアなディズニーファンにとっては大満足であろう。しかし、多くのそれ以外の人には刺さる内容にはなっておらず、皮肉にもディズニーが標榜してきた多様性が順調に進んでいることの証左となっている。彼らが今後も理想を追求して作品を作り続けるとしたら、世の中の一部の勢力を対象とすることを前提に作品の規模等を考えなければいけないことになるだろう。

(15点)
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「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

2023年12月16日 20時42分22秒 | 映画(2023)
ぼくらは失った何かを取り戻したいらしい。


物語の舞台は昭和31年。終戦から10年が経ち、国全体が立ち上がろうとしている時代である。

製薬業を営む大企業のトップであった龍賀時貞が急死したとの報せを受け、グループ会社と懇意にしていた銀行員の水木は、跡取りに取り入ってのし上がろうと考え、龍賀の一族が拠点にしている哭倉村を訪れた。

龍賀の屋敷では、まさに時貞の遺言状が公開されるところ。親族だけでなく、龍賀の仕事で生計を立てている村じゅうの人々が集まって行方を見守っていた。しかし、一族の権力は、大方の予想に反し表舞台に現れていなかった長男・時麿へ譲られることになり村は大混乱。その後、時麿をはじめ一族の者が「犬神家の一族」のように次々に無惨に殺されていく事件が起きる。水木は、ふらりと村に現れた謎の男とともに呪われた村の真相へと迫っていく。

水木しげる生誕100年を記念した作品だという。観に行った日の客席は満席。客層は女性、それも比較的若い年代の人たちが多く来ていた。ホラー的な要素を多分に含むこの漫画がなぜここまで国民に愛される存在になったのか。鬼太郎の前日譚は少しだけその秘密を教えてくれる。

水木と行動を共にする謎の男の正体は鬼太郎の父親である。今回初めて知ったのだが、鬼太郎は幽霊族なのだそうだ。となると馴染みのある鬼太郎のお話は、人間と妖怪の中間で橋渡しをしている役回りになるというところか。

本作では、幽霊族は絶滅寸前という設定になっている。生き残りである鬼太郎の父は、行方が分からない妻を探して哭倉村へやって来たのだが、龍賀一族こそが幽霊族を利用して金を稼いだ張本人であったことが判明する。

妻は人間を信じ、人間社会の中に溶け込んで生きてきた。しかし彼女は裏切られた。一方で、銀行員の水木は、かつて戦地で大義のためと言い聞かされて無駄に命を散らした同志たちを目にしてきた。そして更に龍賀一族の中にも、一族の繁栄のためだけに消費されようとしている若い命があった。

信じてきたものや希望を打ち砕かれた者たちの悲しみと怒りが物語全体を包む。

鬼太郎の父が、時貞の孫である時弥に、これからの日本は栄光と繁栄の道を歩むのだと説く場面がある。その後、村のどす黒い秘密が明らかになり、その権化との死闘を終えてしばらくしてから、二人は大きく変えた姿かたちで再会することになるのだが、そこで鬼太郎の父は申し訳なさそうに、今の社会が希望したようになっていないことを嘆く。

一生懸命生きてきたのに、それなりの成果を上げているのに、世の中はちっとも良くならない。怒りたくなるし、諦めたくもなるけれど、それより早く時間が流れていく。

だから立ち止まる必要がある。悲しみや怒りに向き合うのは怖いことかもしれない。しかし、その先に進んで初めて何が大事であるかが、自分の進むべき道を確認することができるのだと思う。

先日のゴジラもそうだったけど、歴史を持つシリーズというのは奥が深い。

(90点)
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「ゴジラ-1.0」

2023年12月02日 15時06分42秒 | 映画(2023)
新しい戦後。


山崎貴監督にとって念願のDolby Cinema対応として制作された本作。

そこまで気合を入れたものであれば、それで観てみようじゃないの。TOHOシネマズすすきのにDolby Cinemaが導入されたばかりでタイミングもぴったり。映画の日に600円追加して観に行きました。

山崎監督といえば出世作は「三丁目の夕日」(観ていません)。昭和30年代の東京の街並みをCGで見事に再現して名を挙げ、その後も「STAND BY ME ドラえもん」「永遠の0」(どちらも観ていません)など話題作を次々に手掛けてきたヒットメーカーであるが、映画監督としての評価がどうなのかは正直良く分からない。

今回の題材はゴジラである。ゴジラシリーズといえば、最近では庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」が大きな反響を呼んだのが記憶に新しい。あれから7年経っているとはいえ、次の作品を作るというのは相当プレッシャーがかかると想像する。

山崎監督は舞台を太平洋戦争直後に設定した。昭和は過去のヒット作に通じる、彼の得意フィールドということなのかもしれない。「-1.0」という耳慣れない言葉は、予告を見るかぎりでは、敗戦でゼロになった日本が更なる災厄によりマイナスに陥ることを表しているらしい。

映画監督としての評価が良く分からないと書いたが、山崎監督が間違いなく長けているのは企画力だと思う。単純に彼がゴジラの映画を作るというだけでは食指が動かないところを、見たことがない何かを作るんじゃないかと期待させる要素を次々に送り込んでくるのである。

そしていざ劇場へ。

冒頭、太平洋の小島に駐在する空軍の基地をゴジラが襲う。建物を踏みつぶし、人を咥えては放り投げ、とどめはお馴染みの咆哮。この10分ほどの映像で、ゴジラとDolby Cinemaが最高の相性を持つことを理解する。

ゴジラはもちろんVFXであるが、サイズ(後半は更に大きくなる)やごつごつ感に加えて、海面をスピードを上げて追ってくる姿など、人類が驚愕と絶望に支配されることに十分な説得力を持っている。

ゴジラが強過ぎると人間の存在が相対的に小さくなってしまい、ドラマが陳腐になる恐れがあるのだが、ここからが山崎監督の腕の見せどころであり、今回、人間側のドラマとして、戦争で図らずも生き残った人たちをメインに据えるという手法をとった。

特に主人公の敷島は、特攻隊員でありながら機体が故障したと偽り戦線を離脱し、避難した小島でも襲ってきたゴジラに対し戦わず逃げたという経験を持つ。

今でこそ、命が何よりも大切ということは常識であるが、当時はお国のために命を投げ出すことが正義であり、そうして多くの若い戦士たちが散っていった。敗戦後、自分の過去の選択に苦しみ続けた敷島たちは、今度こそ人々の、そして未来の子孫の役に立つことを願ってゴジラに対し立ち向かうのである。

時折ベタな描写も見られるが、ゴジラの物理的なスケールへの対抗軸として、こうした人間の感情の奥底を揺さぶる物語を配置したことは、荒唐無稽と捉えられかねないクライマックスのゴジラ掃討作戦にすんなり感情移入できるという効果を生んでいる。

本作を見るかぎり、山崎監督の技量は相当なものと認識した。何よりも、エンドロールで流れるあの壮大なチームをまとめ上げて大作を作り上げるなんて、普通では想像がつかない。

次はどういった題材に目をつけるのだろうか。

(85点)
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「翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~」

2023年12月02日 08時22分34秒 | 映画(2023)
なんか楽しそう。


TOHOシネマズすすきのがついにオープンした。記念すべき初の鑑賞に選んだのは、なぜか埼玉。

「翔んで埼玉」の前作を観たのはTOHOシネマズ錦糸町。少し違う空気の中で観たいという思いがあってプチ遠征をしたのだが、今回は埼玉でも、首都圏でも、本作の舞台の関西でもない第三国での鑑賞。

気になる観客の反応は、オープン初日にしてはやや寂しい客の入り。滋賀県では1日に20回を超える上映回数を設定する映画館があるらしいが、劇中でまったく扱いがない北日本だから温度差は仕方ないところか。

肝心の中身の方は、ざっくり言ってしまえば前作のネタを関西版に広げただけなのであるが、関西のアクの強さが本作の大げさでばかばかしい世界観と非常に相性が良いので、前宣伝に偽りなくスケールアップした出来映えになっていると言える。

また、現代パートとして、浦和VS大宮(と間で無視される与野)の綱引き大会という並行エピソードを用意。「埼玉も忘れていないよ」というしつらえ感が否めないが、どんな形でも取り上げられれば満更でもなくなり、本篇とつなげたオチ(子供の名前)も含めて良かったのではないかと思う。

話のあらすじはというと・・・(敢えて書くのもばかばかしい気がするが)。

前作の戦いの結果、通行手形なしで東京に入れるようになったまでは良かったが、いずれの土地も東京ばかりを向くようになり横の連携が取れなくなってしまった埼玉。その課題を克服するべく越谷に(レイクタウンではなく)海を作ろうと言い出したGACKT演じる麻実麗。

西の地に美しい海砂を持つ白浜という場所があると聞き、船で和歌山を目指すが、たどり着いた地で彼が目にしたのは、東京よりも恐ろしい「大阪」という存在であった。

関東と関西は常に比較される。中心地である東京と大阪はもちろん、ハイカラ、異国情緒、文明開化でつばぜり合いを繰り広げる横浜と神戸もライバルだし、千葉と和歌山は共に半島に位置し、勝浦のように被る地名も存在する。

その中で、今回埼玉の代わりにディスられる役割を担ったのは「滋賀」であった。距離で考えれば大阪と隣接する奈良か京都なのだろうけど、彼らは歴史的に別格なので、まあ滋賀がちょうど良いのだろうと。

ネタは、7割が琵琶湖、2割がとび太くん、残りが平和堂と鮒寿司と西川貴教というところ。この突き抜けない微妙さが結果として本作の舞台としてはぴったりであった。

というわけで内容は良くも悪くも相変わらず。いろいろディスりながら誰も不幸にならない持ち味も健在。それどころか、俳優陣がみんなこの茶番劇を楽しそうに演じているのが印象的であった。

今回、麻実麗の実質的なパートナーとなる滋賀解放戦線のリーダー・桔梗魁を演じたのは。彼女にコメディのイメージはあまりなかったが、GACKTと並び立つ画の良さも含めてハマっていた。

大阪府知事の片岡愛之助、神戸市長の藤原紀香ご夫妻は、世の中的には好感度がもう一つの感があるが、こうした振り切った役を演じることでその辺りは払拭できるのではないかと思った。

エンドロールの歌と漫才まで天下泰平の100分超。期間限定の十勝ポップコーンを傍らに観るにはぴったりの映画なのでありました。

(75点)
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