Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「ワンダー 君は太陽」

2018年06月24日 00時11分42秒 | 映画(2018)
ぼくらはみんな太陽系の構成員。


遺伝子の組み合わせの不具合から、他人とは違う容姿に生まれたオギー。

大人だって悪気がなくても少し奇異な視線で見てしまうところを、加減を知らない児童たちが周りを取り囲む学校という世界に入ったら、彼はどんなにひどい目にあわされてしまうことか。

オギーに限らず、ハンデを背負った子供を持つ親は、人一倍、それこそ寸暇を惜しんで子供がより良く生きられる環境について考える。母親のイザベルが選んだ答えは、多くの子供たちが学校生活をスタートさせるのと同じタイミングで編入することであった。

本作の特徴は、オギーの大きな挑戦に話の軸を置きながら、彼のすぐ近くにいる子供たちにもスポットを当てて、ある種共同体とも言える緩やかな集団がどのように推移していくのかを丁寧に描いているということにある。

姉のヴィアは言う。オギーは太陽で家族は彼を中心に回っている。でも私はこの太陽系に慣れたと。

彼女の言葉が決して強がりではないことは行動を見れば分かる。親友のミランダのことが心配でも、弟に何か変化があればすぐに駆け寄って話しかける。

現状に対して本心から抗うつもりはないけれど、平板ないい子ではいられない複雑な立ち位置が愛おしい。

級友でいち早くオギーと仲良くなったジャックは、ハロウィーンの日に他の級友と雑談をしている中でオギーの悪口を口走ってしまう。

その場の流れで話を合わせただけだったのが、運悪くそこに仮装をしたオギーが居合わせてしまったために、オギーは心を閉ざし二人は絶交状態になってしまう。

なぜオギーが自分を避けるのか戸惑うジャックの本当の思いが明かされる。はじめは気乗りしなかったものの、付き合ううちにオギーの人間性に急速に惹かれていたのだ。

ジャックはオギーの信頼を取り戻すためにある行動に出る。それは奨学生という立場を失ってしまうかもしれないものだったが、勇気を持って立ち上がる姿が眩しい。

ヴィアの親友ミランダは、ヴィアと同じ演劇部で活動を続けていた。発表会ではヴィアを差し置いて主役の座を獲得した。しかし彼女の表情は冴えない。

ミランダは突然オギーに電話をかける。直接言わないが、彼女は助けを求めていた。

彼女の家庭の事情、両親の状況が描かれる。ミランダにとってヴィアの家族は、オギーの存在も含めて憧れの世界だったのだ。

憧れが過ぎて、少し後ろめたくなってしまったミランダだが、ふとしたきっかけを使って再びいるべき場所へ戻ってくる。みんなと談笑する心からの笑顔に安心する。

オギーも含めた4人の子供たちに共通するのは、みんながそれぞれの悩み受け止め、考え、行動を起こして解決しているというところである。

これは、子供たちを導く両親や学校の指導者といった周りの大人たちが素晴らしいということに繋がる。

オギーの一家で決定権を持つイザベラと、それをバランス良くサポートする夫のネート。児童たちを理解するだけでなく、いじめの存在にも毅然と立ち向かう校長。傍らでオギーをしっかり支援する国語や理科の先生。

そういう意味では、あまりに理想的過ぎると言えなくもない。最後の場面を見ると、これがオギーの人生の最高点になってしまうのではないかと思ってしまうくらいなのだが、それはこそばゆく感じるという程度のもの。

むしろ自分こそが、現実社会でも周りの人たちが輝けるよう、しっかり役割を果たして理想に近付いていきたいと思った。

(90点)
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「30年後の同窓会」

2018年06月23日 12時56分47秒 | 映画(2018)
想い出という宝物を共有する。


コメディ俳優という括りにありながら、最近は影のある役を演じることが多いS.カレル

今回は、妻と息子に立て続けに先立たれてしまった中年男性・ラリーという役どころ。

ただでさえ人生の先が見えてきて希望を持てなくなっている年代である上に、自分が存在する理由まで失ってしまった男がとった行動とは何か。

監督はR.リンクレイター。リンクレイター監督といえば、何と言っても「ビフォア~」3部作である。

男女のカップルと、30年ぶりに会った旧友という違いはあるものの、本作は「ビフォア~」シリーズと重なるところが多く見受けられた。

特に後半、息子の棺を伴ってアムトラックで自宅へ向かうという下りである。列車の中で、途中下車した街で、とりとめのない会話が繰り返される中で、それぞれの気持ちが重なって絡み合っていく。

交わされる会話のおもしろさももちろんだが、道中のエピソードが楽しかったり心温まったりするところも共通だ。

ベトナム戦争の兵役時代を引きずるように昼夜問わずに酒浸りで荒っぽい性格のサル。退役後にキリスト教と出会いすっかり心変わりした牧師のミューラー。

ラリーも含めて三者三様の彼らは、戦争がなければ出会うことすらなかったかもしれない。エピソードの裏には、多かれ少なかれ戦争の影が見えるところが本作の特徴である。

若くて何も考えずやんちゃしていた時代。それは厳しい戦地で生き抜くために必要だった遊びしろだったのかもしれないが、彼らの行為が救えるはずの同胞の命を奪い、ラリーを除隊に追い込むことになってしまった。

人生の濃い時期を過ごした仲間と30年ぶりに会うということ。ミューラーは忌まわしい過去の襲来というような表現をしていたと思うが、少なくともラリーにとっては、これから自分が生きる道を確かめるためにも必要な儀式だった。

そしてそれは、特段の問題なく日々を暮らしていたサルとミューラーにとっても特別な意味を持つものになった。

戦争はもちろんない方が良い。ただ、彼らの過去に厳然と存在するそれをなかったものにすることはできない。

長い旅路は、3人が自分たちの過去に初めて正面から向き合う時間となった。

皮肉なのは、その過去はすべてが苦しいことばかりではなかったということ。バカ話で大笑いする3人を見ると、ラリーにとって戦場で会ったこの2人がいなかったら、果たして家族の死を乗り越えられたかと複雑な心境になる。

息子の埋葬が無事に執り行われ、ラリーは過去の清算を終えた。良いことも悪いことも見つめ直した結果として、彼は今後の人生をどのように選択するのか。

それはもちろん描かれることはない。いくらでも選択肢はあるし、選択しないという生き方すらあるから。人生は、生きるということは、これほどまでに複雑だということだ。

(90点)
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「犬ヶ島」

2018年06月23日 12時05分56秒 | 映画(2018)
とらえどころが、ない。


ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞。北米マーケットで地味ながらサプライズヒットを記録しているという本作。

監督はW.アンダーソン。一風変わった作品を撮るというイメージが先行するが、振り返れば実際に観たのは「ムーンライズキングダム」だけだった。そのときの評価は良くも悪くも取れる感じ。

本作の話題は何と言っても日本を舞台にしたストップアニメーションフィルムだということ。これはもうイメージだけじゃなく完全に風変わりな作品である。

舞台は架空の都市・メガサキ。中華街やランタンフェスティバルといった、いかにも外国人受けしそうな色合いを持つ長崎市がモデルであることはおそらく間違いない。

主人公の少年の名前は小林アタリ。苗字からはそれなりに日本に造詣が深いことが分かるが、アタリはゲームの名前である。

一事が万事そのような調子で、現実の日本に寄せている部分とまったく見当違いな部分がまだら模様に描かれていて、よく言えば独特の世界観を創り出すことに成功している。

そして、もう一人の主人公は犬だ。アタリ少年の育ての親であるメガサキ市の小林市長は、人間の友人として長い歴史をともにしてきた犬を目の敵にし、海を隔てたゴミの島にすべての犬を隔離してしまう。

小さい頃から犬と生活をしてきたアタリ少年は、不当な扱いから犬たちを救おうとたった一人でゴミの島へ向かう。

基本的に言葉が通じない中で、お互いの思いや感情を伝え合うコミュニケーションの描写は独特ながら説得力がある。なかなか心を開かなかった野良犬のチーフと絆を築く過程が物語の中心となる。

それにしても、なぜこの話をストップモーションアニメで撮ったのか。映画の良し悪し以上にそこがどうしても気になってしまう。

ここでもキーワードは「独特」だ。他にはない世界観にする必要があったということなのだろうけど、それによる効果とは?何か自分に近い特定の場所であり事象でありを容易に想像させないための仕掛けと見るのは早計だろうか。

いずれにせよ、それほど複雑ではない物語を強く印象付けることに成功したのは確かなことだ。

ただ評価は、・・・今回も良し悪しとしか言いようがない。

最後に、声優陣はS.ヨハンソンE.ノートンといった一線のハリウッド俳優から、ヨーコ・オノ渡辺謙野田洋次郎まで、洋邦を問わずまぶしいくらい豪華だ。監督の芸術性に関する評価が高いことの証であろう。

(70点)
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「万引き家族」

2018年06月16日 02時00分18秒 | 映画(2018)
禁じられた家族。


本作を一緒に観に行った母がまず口にしたのが「禁じられた遊び」を思い出すということだった。検索してみると、立川志らくも同じことを言っている。

確かに、不幸な生い立ちからめぐり会った血のつながらない疑似兄妹という設定が重なる。そして、彼らがよろしくないことをしていたことも。

「禁じられた遊び」では宗教的に不道徳だった「遊び」が本作では社会的に許されざる「犯罪」となり、兄と妹の関係は疑似家族を形成する6人へと広がっている。

リリーフランキー演じる父。安藤サクラ演じる母。樹木希林演じる祖母。これに息子と同居人を加えた5人は、ちょっと見る限りはありふれた普通の家族に見えた。

しかし彼らは訳あって一つ屋根の下に暮らしているまったくの赤の他人。普通に働くこともままならず、万引きをしてかろうじて生計を保っている状態だった。

一部では、万引きをする主人公を肯定的に捉えるなどもってのほかだというような声が上がっていると聞く。

是枝裕和監督の社会的な姿勢をよく思わない人たちからの中傷にも近い物言いと思われるが、あまりに近視眼的でがっかりさせられる。

ちゃんと映画を観れば、肯定はもちろん、仕方がなかったとも言っていないことがすぐに分かる。彼は政府に批判的かもしれないが、映画では線引きをして偏りのない目線で物語を作っている。

事情があって居場所がなくなった者たちが寄り添ってできた疑似家族。これは決して日本社会の批判などではなく、世界のどこにでも起こり得る話として描かれている。だからこそカンヌ国際映画祭の審査員たちの共感を呼んだのであろう。

パルムドール受賞で大きな話題となったこともあり、最初からこの家族は偽者と知った状態で観てしまったのだが、映画自体はまったく説明がされないまま進行するので、本来であれば、普通の家族に見えた人たちが実は・・・という驚きを得られたはずである。そこは少し残念だった。

社会からこぼれてしまった人たちはどうやって生きていけばいいのか。やっと見つけた居場所で、父として、母として、一瞬だけでも輝きを持ったことを微笑ましく思う一方で、それが万引きという犯罪の上に成り立っていたという絶望的な事実が立ち塞がる。

貧困の連鎖という社会問題に対する残酷な一事例という位置付けの中で、必ずしも暗い気持ちで終わらないのは、祖母がニセとはいえ家族に見守られて旅立つことができたことと、息子が自ら区切りをつけて新しい世界へ踏み出そうとする場面が描かれたことにある。

妹の境遇だけはなかなか希望を持ち難いところがあったが、父も母も含め、それぞれが間違った家族体験から何かを学んで次のステップへ移っていくことは感じられた。

この非常識な家族の設定に共感できたのは、脚本とともに演者の現実感を追求した演技によるところが大きい。中でも印象に深く残ったのは安藤サクラである。事情聴取で見せる涙の力強さに圧倒された。

(90点)
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「デッドプール2」

2018年06月03日 14時39分10秒 | 映画(2018)
うまくやり抜く賢さを。


いま北米を中心に話題になっているChildish Gambinoの"This Is America"のPV。ギター奏者や聖歌隊を撃ち殺しながら、軽快なダンスとともに「これがアメリカ」と言ってのける。

もちろん直接的に観る側へ訴えかけてくるのは残虐な場面なのだが、それ以上に恐怖を覚えるのが、最後に何かから逃げるように全速力で走る、人が変わったような彼の形相である。

良い悪いも、勝ちも負けも単純には決まらない。大きな力を携えて余裕を持って生きていると思っていた姿は虚構であり、気が付けば何かに追われるように生きているだけだったなんてことはよくあること。

便利ではあるが、あまりに複層的になってしまった世の中を完全に理解するのは甚だ困難である。数多ある不条理に表面上だけでも合わせていくことが、現代を生きる最大のテーマなのかもしれない。

デッドプールといえば、不真面目、下品、残虐とおよそヒーローにふさわしくない形容詞が並ぶことを売りにしているキャラクターだが、そんな彼も誕生を辿ればアメコミヒーローの王道である虐げられた存在である。

続篇だけに全篇を通して軽快路線を行くのかと思ったのだが、今回もいきなり冒頭で心が折れるほどの悲劇に見舞われる。

生きる意味を見失った等身大の男(ウェイド)を映しつつも、映画自体はデッドプールのそれとして、コメディ要素を散りばめながら話が進むところが興味深い。

大統領が独断で物事を進めても、至るところで乱射事件が発生しようともあの国は変わらない。良い悪いではない。一時的に大きなことが起きても、それだけですべてが塗り替えられるわけではないし、おそらくすべきでもない。

そういった意味でも、デッドプールの世界観はアメリカそのものと重なって見えてくる。やることなすことヒーローとは言い難い品性のなさなのだが、奥底のどこかに揺るがない正義が息づいている。しかしその本質はコメディであるという。

アメリカってどうしようもないよねと言う人でも、世界の警察から手を引くとなるとそれは困るとなる。デッドプールも、どうしようもないけれど、いや、むしろどうしようもないところが彼のヒーローたる証ということなのだろう。

正直なところ、全体的にもっと軽い物語の方が好みではあるのだが、時々深刻な場面を取り返すかのようにがんばってくれたので十分楽しむことはできた。「子供の名前はCherだー!」のセリフとともにTurn Back Timeして1本分まじめに観てきたものを一気に無にするなんて、この映画じゃないとできないだろう。

脇役の一人として忽那汐里が出演して作品の世界にしっかり馴染んでいたのには驚いた。個性と能力に長けた彼女の将来は明るい。

(75点)
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