Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「パストライブス/再会」

2024年04月13日 23時31分40秒 | 映画(2024)
心の表面張力。


幼なじみのナヨンとヘソンはとても仲良し。学校帰りはいつも一緒。ちょっとしたことで泣くナヨンをヘソンがなだめる。そんな関係は居心地が良くて、ナヨンは母に「将来ヘソンと結婚すると思う」と言っていた。

しかしある日、突然の別れが訪れる。ナヨンの両親がカナダへの移住を決意したのである。気持ちがどうあっても子供にはどうすることもできず、「さよなら」と一言だけ残して別の道を歩く二人。

12年の月日が流れ、どれほど距離が離れていてもSNSですぐに繋がれる世界がやって来た。英語名でノラと呼ばれるようになったナヨンは、ヘソンが自分のことを探していることを見つける。すぐに昔のように打ち解ける二人。毎日PCの画面越しにデートを重ねる日々が始まった。

が、またも二人に試練が訪れる。ニューヨークで暮らすノラはヘソンに「いつNYに来るの?」と言い、ヘソンはノラにソウルに来てほしいと言う。しかしお互いこれから社会へ飛び立とうとする時期で、将来の夢を放り出して相手の元へ駆け込むほど覚悟はできていなかった。

「しばらく連絡するのはやめましょう」とノラが言い、「じゃあ一年後に」とヘソンは応えた。しかし「一年後」はうやむやになり、二人は別のパートナーとの生活を始めた。

幸運の女神には前髪しかないと言う。ノラはアーサーという白人男性と結婚した。一方でヘソンは付き合っていた女性と破局し、NYにいるノラに会いにやって来る。

ノラとアーサーは作家である。芸術肌で洗練された街に住み、身なりも暮らしぶりもクール。進歩的な夫婦だから、ノラはアーサーにヘソンについてすべてを隠すことなく話し、ヘソンの訪問を堂々と受け入れる。

初めてNYへ来たヘソンは落ち着かない様子でノラを待つ。ノラは満面の笑顔でヘソンを迎え、歓迎のハグをする。二人はNYの街を歩き回りながら、昔と同じように仲睦まじい時を過ごす。

一日目の夜、自宅に戻ったノラはアーサーに告げる。「あなたの言ったとおりだったわ。彼は私に会いに来た」

いくら進歩的と言っても、幼なじみの初恋のひとに会うと言われて心中穏やかでいられる人はそうはいない。アーサーはノラに事前に忠告していたのだ。

それでもノラは翌日以降もヘソンのNY観光に同行した。時折ヘソンが見せる明らかに未練がある表情にノラが気付かないわけはなかった。

最後の晩、ノラはヘソンをアーサーに会わせる。それは、今の自分を克明なまでに見せつけてヘソンに諦めさせようとしたかのようであった。

しかし最後に、ノラがヘソンを見送った後に大きなどんでん返しが訪れる。

心が揺らいでいたのはノラも同じだったのだ。

メリーゴーラウンドの前で口にした言葉。「12年前は子供だった」「でも今は大人になった」。まったくそんなことはなかった。

「昔のナヨンはもういないんじゃない。あなたの中に置いていったの」

生きていく中で様々な選択をしてきた。それらは決して間違いではなかった。でも何でこんな気持ちになるのだろう。

折り合いをつけなければ。私は大人なんだから。そうして生まれたのが、劇中で何度も出てくる前世の話である。

この世で関わりを持つひと、例えば体がぶつかるとか。そういう人とは前世(パストライブス?)でも繋がりがあったということなのだとノラは言う。それは、好きだという気持ちを懸命に抑えるための方便のように聞こえる。

しかし、そのすべてはラストで崩壊する。アーサーの前で泣き崩れるノラ。この二人が、失意を胸に帰国したヘソン以上に辛い思いを抱く結果に至ったのは皮肉であり残酷であった。

人によっては、ノラの心情や行動にシンパシーを感じられないという人がいるかもしれない。しかし、盛り上がる気持ちのままに振る舞って一線を越えてしまうドラマティックな恋愛と一線を画し、とことん理性と折り合いを付けようと寸止めを続ける三人の物語は、新鮮で興味深く見応えがあった。

(90点)
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「オッペンハイマー」

2024年04月07日 09時04分38秒 | 映画(2024)
天才が背負う責任。


来年は昭和100年だという。最近の昭和ブームは高度経済成長からバブルに至るまでの、いわば昭和後半を対象としているが、何よりも昭和を象徴するできごとであり、わが国全体の大きな転換点となったのが昭和20年の敗戦であったことは言うまでもない。

日独伊の三国同盟で連合軍に立ち向かい、他国が陥落する中で最後まで戦いを諦めずにいた結果として、広島と長崎に原子爆弾を投下され、わが国は今でも続く世界唯一の被爆国となった。

その歴史から、世界のどの国よりも原爆に対して強い思いを持つわが国において、本作の扱いに様々な意見が出たことは当然である。

作品の中身を見ずに公開に反対するなんて、という声も聞かれた(私も同感である)が、そのような思いを抱く人がいるということは理解できる。

本作は、わが国を除く世界では昨年の夏に公開され空前のヒットを記録した。先ごろ発表になったアカデミー賞でも主要部門を多数獲得し、そうした実績を引っ提げて、ようやくわが国でも公開されることになった。

結果的には良かったのかもしれない。公開の是非を巡る議論が沸騰していたころから作品の存在は広く認知され、今回の公開はIMAX等のフォーマットを網羅する大規模なものとなった。我々は巨匠C.ノーラン監督がこの問題をどう捉えたのかを鑑賞し、冷静に向き合うチャンスを与えられたのである。

上映時間が長いという話は聞いていた。オッペンハイマー博士の人生について、原子爆弾を開発し広島・長崎で使用するまでの上り坂と、その後思想の変化を伴いながら没落していく下り坂の両方を描くということも、前情報として知っていた。

実際に観てみると、前半と後半は想像以上にすべてが異なっていた。まるで2つの違う映画を観るようであった。

後半でメインとなるオッペンハイマー博士の聴聞会、ストローズ議員の公聴会の場面は前半にも登場するが、前半は基本的にその聴聞会で博士が語る過去の経緯が主となる出世物語である。

前半はとにかく勢いがある。天才故というのだろうか、道徳からかけ離れた行為を数多くやらかしながらも、それを力ずくでねじ伏せるべく成果を上げていく。理論の内容などはこちらの頭には入ってこなくて何を言っているのか分からない場面が多いが、あれやこれやしながら、彼の名はやがて世界政治の舞台に届くこととなる。

米国軍の将校から、原爆製造の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」への参画を持ちかけられた博士。もともと研究の傍らに取り組む組合活動にも熱心だった彼は、自分の研究が国の役に立つなら、もっと言えば、自分こそがドイツに打ち勝つための最重要人物であるというほどの気概で原爆開発に身を捧げることを決断する。

科学と政治の付き合い方は難しい。学問は政治から切り離されるべきだという正論は述べつつも、政府からの交付金がなければ研究は続けられないし、政府としても限りある予算の使い道として公のためになることを説明できなければ資金を与えることができない。

軍事利用を禁止すべきだと言っても、どこで線引きをするのか、違う目的で進めていた研究を他者が軍事に転用する可能性はないのか、簡単には整理できない。

その中でひとつ分かることがある。それは餅は餅屋だということ。

博士が少なからず政治的な意図をもって原爆の開発に当たったことが、世界の歴史と、博士自身の人生を変えてしまったような気がした。

特にドイツが降伏した後、何故開発を続けたのか、そして広島・長崎に原爆を投下したのか。今も一部のアメリカ人は、原爆投下こそが戦争を早く終わらせて多くの人の命を救ったのだと主張するが、それは絶対に間違いである。

原爆投下の予行演習であった核実験の成功をもって前半は終わる。広島・長崎への実際の投下はニュースの音声として流れ、映画は後半の聴聞会と公聴会へと移る。

世の中は、原子爆弾から更に強い水素爆弾への移行を目指していた。その中心となっていたのがストローズであり、彼はこの功績をもって重要閣僚に成り上がろうとする野心的な政治家であった。

ストローズは天才・オッペンハイマー博士を新たな研究所の所長に招へいしたが、博士はそのころ既に宗旨替えをしており、ストローズと博士はことごとく対立することとなる。

立身出世の物語が一転して法廷モノのような空気に変わる(裁判ではないと口酸っぱく言われるが)。大音量と激しい動きがあった前半と正反対の「静」の空間へと変わる。

劇中では、アインシュタイン博士に「人はどこかで業績に向き合うときが来る」というようなことを言わせている。原子爆弾の開発と投下は、ひとりの人間が引き受けるにはあまりにも大きい事象であった。事実かどうかはともかく、劇中のオッペンハイマー博士は良心の呵責に苛まれ、一時的にその地位を失う憂き目に遭う。

時とともに人心が移ろう様子も克明に描かれる。原爆投下直後には地鳴りのような大きな歓声で博士を称賛した人たちが一転してオッペンハイマーに懐疑的な目を向ける。一時の勢いに乗って物事を決めることがなんて恐ろしいことか。情報が瞬時に世界を行き来する現代だからこそ肝に銘じたい。

聴聞会はストローズの謀略のためか非公開で進められた。そのため事実かどうかは分からないのだが、オッペンハイマー博士を追求する弁護人が広島・長崎の原爆でどの程度被害が出ると予想していたのかについて強く詰め寄る場面があった。博士はあまりにも大きな被害が出たから宗旨替えをしたと言ったのだが、では何人ならば良いとなるのかということである。

当然博士は返答に詰まる。ブレているのである。あれだけのことをやっておいて、今更きれいごとの世界に逃げようとしたってそれは許されないでしょう?

この映画はオッペンハイマー博士を否定はしない。多くの間違いを犯すひとりの人間として描いている。ただ彼は天才だったため、その間違いが世界や多くの人の人生を変えてしまったという事実を語っている。

最後は博士だけでなく、ストローズも痛手を被る。しかし、この一連の原爆開発で最大の被害を受けたのは世界中のすべての人である。80年経った現代においても、どこかで狂人が現れて核のボタンを押すことがないようにと願うことしかできなくなってしまったのだから。

(80点)
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「ゴーストバスターズ/フローズンサマー」

2024年04月05日 23時42分16秒 | 映画(2024)
これで、もとどおり。


前作の「ゴーストバスターズ/アフターライフ」がそれなりにヒットしたことにより同じメンバーで作られることになった続篇。ただ今回、J.ライトマンは監督から退き、共同で脚本を執筆したG.キーナンが担っている(二人での脚本は変わらず)。

「アフターライフ」はこれまでのゴーストバスターズとは一線を画す作品であった。シリーズの真骨頂と言える「ゴースト」と「コメディ」が鳴りを潜め、代わりに前面に押し出されていたのは、初代ゴーストバスターズの頭脳であったイゴン博士の家族を中心とした人間ドラマであった。

良く練られたドラマに加えて、B.マーレイD.エイクロイドといったレジェンドバスターズが久々にそろい踏みするという豪華さも手伝ってのヒットだったのだと思う。

約3年の月日が経ち、スペングラー一家はニューヨークへと転居し、新生ゴーストバスターズとして日々奮闘していた。M.グレイス演じる孫娘のフィービーは15歳となり、大人の美しさを醸し出す眩しい女性へと成長していたが、いかんせん未成年であることが問題となり、市長からゴーストバスターズとしての活動を禁じられてしまう。

納得がいかないフィービーは、ふとしたことで出会ったゴーストのメロディと仲良くなるが、メロディの後ろに世界を滅ぼそうとする邪神の影があることには気付いていなかった。

というわけで、基本的には前作と同様に話の中心はフィービーであり、思春期を迎えた彼女の複雑な感情が問題を引き起こす。実の母親が手を焼く中で、前作で急接近してどうやら結婚したらしい義父を含めて、新しいスペングラー一家の絆が描かれる。

並行してレジェンドバスターズも今回は序盤から登場して、かつての友情だけでなく、正しいリタイア後(ゴールデンイヤーズ)の生き方を模索する様子にスポットが当たる。

ただ、いずれのドラマも前作から連なる軸での物語であり、もうひとつ跳ねた感じがしなかったのが正直なところ。レジェンドたちも、前作で溜めて溜めてクライマックスで満を持して登場、という流れに比べると、新鮮さや爆発力で劣ってしまっていた。

作り手はその辺りを分かっていたのだろう。今回はゴーストにかなり比重が置かれており、最大の敵である邪神のガラッカに加えて、非生命体を移動するゴースト、前作に引き続いて登場のミニマシュマロマン、旧シリーズで出てきていた食いしん坊のゴーストなど、個性豊かなゴーストが全編を通して画面中を飛び回っていた。

ニューヨークに舞台を移したことを含めて、これをもってゴーストバスターズが帰ってきたということになるのだろう。世界の危機を救い大勢の市民からの喝さいを浴びる様子は、40年前に見た光景。

かつての栄光に戻るのか、新しい時代が始まるのか。M.グレイスが出演するのであれば次作も観ようかな。

(70点)
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